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第一話 幽閉妃、笑う
しおりを挟む春の終わりを告げる柔らかな風が、冷宮の瓦屋根をかすかに鳴らしていた。
だが、そこへ足を踏み入れる妃の表情は、一般に想像されるものとはまったく違っていた。
「……ああ、静かだわ。最高」
玲蘭は長く息を吐き、まるで避暑地にでも来たかのように肩の力を抜いた。
従者としてついてきた宮女の采芳は、目を丸くする。
「玲蘭さま、本当に……よろしいのですか?ここは、冷宮ですよ?陛下のお気持ちを損ねた者、寵を失った者が――」
「だからいいのよ。誰も構わない。誰も来ない。誰も邪魔しない。ね、最高じゃない?」
玲蘭は宮女に笑いかけ、ひょいと裾を摘んで荒れた庭へ踏み出した。
そこには折れた枝、散らばる瓦礫、枯れかけた木々。
しかし彼女はため息ひとつつかず、きびきびと袖をまくり上げる。
「とりあえず、掃除よ。住むなら快適じゃなきゃ」
「す、住む……?」
「そう。しばらくここに籠もるつもりだもの」
明るい声音とは裏腹に、その瞳の奥にひとかけらの硬質な光があった。
采芳は言葉をのみ込み、玲蘭の後を追う。
冷宮は、通常なら恐怖と絶望が充満している場所だ。
だがその日から、ひっそりした空気の中になぜか活気が生まれ始めた。
翌朝。
「……うそでしょう……」
采芳は口元を押えた。
わずか一晩で、冷宮の庭は見違えるように片付けられていた。
瓦礫は種類ごとに積み上げられ、枯れ木は切りそろえられ、
中央には即席の茶卓まで置かれている。
そこに玲蘭は座り、自ら淹れた薬草茶をのんびりと啜っていた。
「おはよう、采芳。思ったより整備が楽だったわ。ここ、誰も触ってないから逆に散らかってなかったの」
「……あの、玲蘭さま……」
「なあに?」
「陛下に……お会いしたくは、ないのですか?」
玲蘭は静かに茶碗を置いた。
まっすぐな視線が采芳を貫く。
「会いたいわけ、ないでしょう?」
「っ……」
「むしろ、会いたくないから冷宮に来たのよ」
玲蘭は微笑み、空を仰ぐ。
白い雲がゆっくりと流れていた。
「陛下に冷宮送りを言い渡されたとき、心の底からホッとしたわ。ようやく自由になれるって」
采芳は言葉を失う。
寵愛を失った妃が自由を喜ぶなど、聞いたことがない。
しかし玲蘭の表情に、嘘は一つもなかった。
その日の夕暮れ頃。
冷宮の裏手で玲蘭は地面に膝をつき、土をほぐしていた。
薬草の種を植えるためである。
「玲蘭さま……。畑まで作るおつもりで?」
「ええ。薬草は質の良いものほど多くを語るわ。誰が何を企んでるか、知る手がかりにもなる」
「手がかり……?」
「ふふ。気にしないで。采芳は知らなくていいことよ」
玲蘭の手は慣れたものだった。
実家は医術に通じる家系。
幼い頃から薬草の扱いにも、毒の見分けにも長けていた。
(そして――家族を殺した者も、この宮中にいる)
心の奥で、玲蘭の声が小さく呟く。
だが表には出さない。
強張る指先を静かに土へ押し込み、無表情へと戻した。
「……おかしいな」
離れた廊の影で、ひとりの男がつぶやいた。
皇帝・耀成である。
侍従たちは冷宮の見回りに来た陛下に困惑していた。
本来、皇帝が幽閉されし者を見に来るなどあり得ない。
だが耀成は、冷宮の庭の整然とした様子、楽しげに働く玲蘭の姿に視線を奪われていた。
(……泣いていると思っていたのに)
玲蘭を冷宮へ送ると告げたとき、耀成は胸が痛んだ。
彼女は自分の過ちに巻き込まれた被害者。
本来なら守らねばならなかった妃だ。
(それなのに、あの笑顔は……なんだ?)
玲蘭は皇帝の視線に気づいたが、あえて無視した。
彼の姿を見ても、眉ひとつ動かさない。
(来ると思ってた。罪悪感に耐えきれず、覗きに来るだろうって)
内心で苦笑した。
(あなたに期待するものなんて、もうないのに)
夜。
玲蘭は一人、灯りの下で薬草を煮詰めていた。
湯気の向こうに、静かな笑みが揺れる。
「今日の収穫……腐敗した帳簿を持って逃げ込んできた宮女。やっぱりいたわね、皇后派の横領」
玲蘭は薬草茶を小さな杯に注ぎ、唇を湿らせる。
「冷宮は“捨てられた者の場所”じゃない。真実を隠すのに都合のいい場所。――だから私は、ここを選んだの」
誰に言うでもない独白。
薬草の香りが、冷宮の夜風へ溶けていく。
「可哀想だなんて、誰が決めたの?」
玲蘭は自らに言い聞かせるように呟いた。
(私は復讐のためにここへ来た。冷宮は牢じゃない。戦場よ)
その瞳には、冷たい光と確かな意志が宿っていた。
冷宮の妃は泣かない。
泣く必要など、とうに失くしていた。
こうして玲蘭の“静かな戦い”は始まったのである。
――第一話 終――
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