冷宮の妃は可哀想じゃない

由香

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第二話 冷宮に集う者たち

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 冷宮の朝は、驚くほど静かだった。
 鳥の声すら遠く、宮中の喧騒とは隔絶された世界。
 玲蘭はそんな静寂を誰より好んでいた。

 だがその静けさは、ある日から少しずつ破られていく。



 最初の訪問者は、失脚した文官・沈文啓だった。
 弱々しい足取りで冷宮の門の前に現れた彼は、采芳に支えられて中へ運ばれた。

「……ここなら、誰も追ってこないと聞いたのです……」

 文啓は荒い息をつきながら言った。
 偽造文書の罪を着せられ、逃げ場を失ったという。

「冷宮を隠れ家にするなんて、賢い選択とは言えないけれど……」

 玲蘭は彼を冷ややかに見下ろした。
 だがその目には、かすかな色が宿っていた。

「ここで匿う代わりに、あなたに情報を提供してもらうわ。冤罪に巻き込まれた以上、敵が誰かは知っているでしょう?」

「……皇后派です。彼らが……私を」

「やはりね」

 玲蘭は微かに笑った。

「あなたは利用価値がある。だから助けるわ」

 文啓は驚いたように顔を上げた。

「た、助け……?」

「勘違いしないで。情けじゃないの。生き延びるために協力してもらうだけよ」

 玲蘭は淡々と告げた。
 だがその言葉が、沈文啓には天啓のように聞こえた。

 ――この冷たい妃こそ、宮中で最も温かい心を持つのではないか。

 そんな感想を抱いたのは、文啓だけではなかった。



 二人目の訪問者は、宮女の杏珠だった。
 焦りと恐怖に満ちた表情で夜更けに冷宮へ逃げ込んできた。

「れ、玲蘭さま……!私……私、殺されてしまいます……!」

 玲蘭は薬草の束を紐で縛りながら、穏やかに問いかける。

「理由は?」

「皇后さまの御前で……誤って、有力貴妃に仕える侍女の罪を暴いてしまって……!」

「あらまあ。口が滑ったのね」

「す、滑りました……!」

「なるほど。あなたも利用価値があるわね」

 杏珠は涙をためながらも理解が追いつかない。

「つ、使い……?」

「知っているでしょう?皇后の侍女がどんな不正をしていたか。すべて話して。証拠もあるなら尚いい」

 玲蘭は冷たく言い放つが、その声には不思議な安心感があった。
 杏珠は思わず膝をつき、震えながら立ち上がれなくなる。

「玲蘭さま……わ、私は……生きられるのでしょうか……?」

「生きられるわ」

 玲蘭は淡々と答えた。

「“私の役に立つ限り”ね」

 だが次の瞬間、玲蘭は杏珠に薄い毛布をかけてやった。
 冷宮の夜は冷えるからだ。

 杏珠は目を見開いた。
 その優しさは、玲蘭が見せる“建前ではない本心”だった。



 三人目は、太監の小順。
 まだ十代のあどけなさを残した少年で、怯えた目でひっそりと門に立っていた。

「玲蘭さま……お願いです……助けてください……!」

「あなた、宮中で噂を運ぶ役目だったでしょう?」

「は、はい……でもそれを疑われて……!皇后付き太監に見つかったら……本当に、殺されます……!」

 玲蘭は少年をしばらく見つめた。
 そして、ため息をひとつつく。

「小順。あなたは嘘が下手ね。宮中で生きたいなら、その弱さをなんとかしなさい」

「ご、ごめんなさい……!」

「まあ、いいわ。あなたにも利用価値があるもの」

 小順は泣きそうな顔のまま、しかし希望を見出したように玲蘭を見た。

「利用価値……?」

「あなたの持つ宮中の噂は、宝の山よ。全部、私に渡しなさい。その代わり、冷宮で匿うわ」

 少年は深く頭を下げた。

「玲蘭さま……!本当に……ありがとうございます……!」

「勘違いしないで。私はあなたを“救っている”んじゃない。あなたの知識を“買っている”だけよ」

 玲蘭の声は冷たく、だが芯が温かかった。
 小順の震えた肩が、少しだけ落ち着いたように見えた。



 こうして冷宮には、訳ありの者たちが静かに集まり始めた。

 彼らは皆、玲蘭にこう言われる。

「助けるんじゃない。利用するのよ。私も、あなたもね」

 だが、彼らは知っていた。
 玲蘭は、助ける必要のない者まで拾い上げていることを。

 玲蘭こそが、誰より“強さと優しさ”を併せ持つ妃なのだと。



 その頃、皇帝・耀成は重い沈黙の中にいた。

「……玲蘭が、冷宮で何をしていると?」

 侍従が青ざめながら報告する。

「か、確かなことは言えませんが……玲蘭さまの周りに、次々と逃げてきた者が……」

「逃げてきた者?」

「はい。まるで……冷宮が“避難所”のように……」

 耀成は目を閉じた。
 胸の奥に、複雑な感情が渦巻く。

(玲蘭……君は、どうしてそこまで……?)

 玲蘭を冷宮へ追いやったのは自分。
 その罪悪感に、耀成はこれまで何度も胸を抉られていた。

 だが今は違う感情が胸を締め付けていた。

(君は……国を……守っているのか?)

 玲蘭が拾った者たちから情報を集め、宮中の腐敗を探っている。

 その事実に耀成は気づいていた。
 いや、気づいてしまったのだ。

(私は……なんて愚かなんだ)

 だが、玲蘭は彼に頼るつもりなどない。
 それが耀成には何より痛かった。



 その夜。
 冷宮の裏庭で、小さな物音が響いた。

「……誰?」

 玲蘭は灯りを持ち、音のした方へ歩いた。

 静かな夜気を裂くように、黒い影が飛び込んできた。

 刺客――。

 玲蘭は反射的に身をかわした。
 刃が頬をかすめ、細く赤い線が浮かぶ。

「冷宮に刺客なんて。よほど私が邪魔なのね」

 玲蘭は落ちた灯籠を蹴り、火の粉を舞わせながら刺客の視界を奪う。
 そして手にしていた薬草束を投げた。

 ぶわりと立ちのぼる刺激臭。
 刺客の動きが一瞬止まる。

「野草の煙よ。目が痛むでしょう?」

 玲蘭は地面の石を掴み、刺客の足元へ投げつける。
 刺客がよろめいた瞬間、彼女はすばやく背後に回り込み、腕をねじった。

「さて。誰の差し金?」

 刺客は苦しげに吐き捨てた。

「……皇后、だ……」

 玲蘭は眉ひとつ動かさず、静かに息を吐いた。

「やっぱりね」

 刺客がもがこうとした瞬間、玲蘭は腕を外し、冷たく言い放つ。

「帰って伝えて。“冷宮の妃は可哀想じゃない”って」

 刺客は逃げるように夜闇へ消えた。

 玲蘭は静かに頬の血を拭う。
 薬草の匂いが風に流れた。

(この闘い……まだ始まったばかりね)

 凛とした横顔だけが、冷たい月光の中に浮かび上がっていた。

――第二話 終――




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