冷宮の妃は可哀想じゃない

由香

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第三話(最終話) 冷宮の妃、国を救う

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 冷宮に、重い風が吹いていた。

 いつもは静寂が支配するこの場所が、ざわついている。
 木々の枝が鋭く鳴り、空気の奥にじわりと緊張が満ちていく。

「……始まるわね」

 玲蘭は、煮詰めた薬草液を壺に移し替えながら呟いた。
 視線は冷宮の門の向こう――宮中の中心方向を鋭く捉えている。
 そこから漂う異様な気配を、彼女はとっくに察していた。

(皇后派が動いた……。今夜、宮中の権力を奪うつもりね)

 玲蘭は息を吐き、立ち上がった。
 その表情は恐れも迷いもなく、むしろ静かな決意だけを湛えていた。



「玲蘭さま!大変です!」

 真っ先に駆け込んできたのは杏珠だった。
 普段は気弱な宮女だが、今はその顔が蒼白に震えている。

「宮中の警備が、皇后派に……入れ替えられました……!各殿も封鎖されて……陛下のお側にも……」

「それで?」

 驚愕の報告を受けても、玲蘭は平然として問い返す。

 杏珠は息を飲んだ。

「れ、玲蘭さま……怖くないのですか……?冷宮もすぐ狙われてしまいます……!」

「ええ。だから待っていたのよ。準備はできてる?」

 玲蘭が問いかけると、杏珠は小さく震えながらも頷いた。

「……はい。玲蘭さまの指示どおり、物資も薬草も隠し終えました……」

 そこへ、小順と文啓も駆け寄ってくる。

「玲蘭さま、皇后派の太監たちがこちらに向かってきています!人数は二十ほど……!」

「文啓さん、脱出口の封鎖は?」

「万全です。玲蘭さまが示してくださった地下道へは、誰も辿り着けません」

 玲蘭はふっと微笑んだ。

「さすがね」

 そして、冷宮に逃げ込んだ者たち全員に向けて声を張る。

「みんな、落ち着いて。ここは“牢”じゃない。あなたたちが思っているより、ずっと安全よ」

 その声は静かだが、確固とした力を持っていた。
 怯えていた者たちの表情が、少しずつ引き締まっていく。



 その瞬間――。

 冷宮の正門が、派手な轟音とともに破られた。
 黒衣の兵たちが流れ込んでくる。

「皇后さまの命だ!逃げた者どもを引き渡せ!」

「ここは幽閉妃の巣。邪魔は入らぬ!」

 玲蘭はゆっくりと門へ歩み出る。

 背後には、杏珠、小順、文啓を筆頭に、冷宮に集った者たち二十名ほど。

 玲蘭は兵たちを見据え、唇を開いた。

「あなたたちが探しているのは、“私”でしょう?」

 兵がざわめく。

「皇后さまは、冷宮の妃を――処分せよと……」

「ええ。だから私はここに立っているの」

 玲蘭は軽く微笑んだ。

「でも、残念ね。私は可哀想な妃じゃないわ」

 その瞬間、玲蘭が手を上げる。

「――今!」

 小順が声を張り上げた。

「煙幕、投げて!」

 冷宮の屋根から、文啓たちが薬草を詰めた袋を次々と投げ落とした。
 袋が地面で破裂し、刺激臭のある白い煙が一面に広がる。

「ぐっ……目が……!」

「視界がっ……!」

 兵たちが混乱に陥る。

 玲蘭はその中を迷いなく歩く。

「杏珠、小順、文啓――全員、私の指示通り動いて」

 三人が同時に頷く。

「了解!」

「心得ています!」

「玲蘭さま、どこへ向かうのですか!」

「決まっているでしょう」

 玲蘭は振り返り、静かな笑みを浮かべた。

「――皇后の“本拠地”よ」



 その頃、皇帝・耀成は玉座の間で孤立していた。

 側近は全て拘束され、殿は外側から封鎖。
 皇后派の兵が玉座の周囲を取り囲んでいる。

 耀成は歯を噛みしめた。

(玲蘭……君に謝りたかったのに……また守れないのか、私は……)

 胸に渦巻く後悔と焦燥。
 玉座から立ち上がった瞬間――。

 扉が破れた。

「陛下、下がってください!」

 先に飛び込んできたのは小順。
 続いて杏珠、文啓、そして――。

 玲蘭の姿が、月光のように静かに現れた。

「……玲蘭……!」

 耀成は息を呑んだ。

 玲蘭の姿は冷宮の妃とは思えぬほど凛然としており、
 その背には人々の覚悟が寄り添っていた。

「救助に来たわけじゃないわ、陛下」

 玲蘭は言う。

「“宮中を救うために”ここへ来たの」

 皇后派の兵たちが怒号を上げて襲いかかる。

 玲蘭は手にした薬草瓶を地面に叩きつけた。

 ぶわりと立ち込める濃い煙と強烈な香り。
 兵の動きが止まる。

「麻痺草と睡香草を混ぜただけよ。しばらく動けないわ」

「玲蘭、これは――」

「陛下、説明は後。今は皇后を止めるのが先でしょう?」

 耀成は、玲蘭の冷たい眼差しに息を止めた。

(強い……こんなにも……)

 一度失ったと思っていた存在が、今、宮中を救おうとしている。



 皇后の居殿。

 皇后・穆瑶は、怒りに満ちた目で玲蘭を睨んだ。

「幽閉妃風情が……!おまえの家を潰したのは、この私だ。復讐のために冷宮へ籠もったつもりか?」

「いいえ。冷宮は“戦う場所”だっただけ」

 玲蘭は一歩、彼女へ近づく。

「あなたが陰で行った横領、不正、暗殺――すべて暴いたわ。証拠もある。皇后さま、もはや逃げ場はないの」

「黙れ!」

 皇后が兵に命じようとした瞬間――。

「その必要はない」

 低い声が響いた。

 耀成が玲蘭の背に立ち、皇后を睨み据えた。

「穆瑶。そなたの罪は余がすべて聞いた。……玲蘭を害した罪も含めてな」

「陛下……!」

 皇后は蒼白になった。

 玲蘭は振り返り、少しだけ微笑む。

「陛下、遅かったわね」

「……すまない。何度謝っても足りない」

「謝罪は不要よ。今は国を正す方が大切だわ」

 耀成は深く頷くと、皇后派の者たちに処分を命じた。

 こうして、宮中を揺るがしたクーデターは終結した。



 事件後。

 玉座の間に呼ばれた玲蘭は、耀成と向き合っていた。

「玲蘭……君を冷宮へ送ったのは私の愚かさだ。もし許されるなら、もう一度――この宮で……」

「陛下」

 玲蘭は静かに遮った。

 そして、やわらかく、しかし確固とした声で言う。

「私は宮中に戻るつもりはありません」

 耀成の表情が固まる。

「……なぜだ?」

「冷宮は、私の居場所だから」

 玲蘭は穏やかに笑った。

「冷宮には、救いを求めて来る人がいる。国の裏側の真実が集まり、再生できる場所にもなる。私はそこで、必要とされることをしたいの」

「君は……それで幸せなのか」

「ええ。可哀想じゃないわ。冷宮は、私を“自由”にしてくれた場所だもの」

 耀成はしばらく何も言えなかった。

 やがて、深い尊敬と後悔を込めた眼差しで玲蘭に頭を垂れた。

「……ありがとう、玲蘭。国を……私を救ってくれた」

 玲蘭は少しだけ目を伏せる。

「お礼なら、冷宮の者たちにも言ってあげて。彼らがいたから、私は戦えたのだから」



 後日。

 冷宮――かつて幽閉と絶望の象徴だった場所は、今や“再生の館”と呼ばれ始めていた。

 文官、宮女、太監……
 誤って罪を着せられた者たちがここで働き、学び、再び宮中へ戻っていく。

 玲蘭は薬草畑に膝をつき、芽吹いた小さな葉を優しく撫でた。

「よく育ってるわね……」

 そこへ杏珠が駆け寄る。

「玲蘭さま、今日も相談に来られる方が……」

「そう。じゃあ、お茶の準備をして」

 玲蘭は立ち上がり、冷宮の方へ振り返った。

 風が吹き抜け、かつて荒れ果てていた場所が、今は明るい光と人の気配に満ちている。

(ここが、私の居るべき場所)

 玲蘭は微笑み、静かに歩き出した。

 ――冷宮の妃は可哀想じゃない。

 彼女は、宮中で最も自由で、そして、最も強い女だった。

――第三話(最終話) 終――




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