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◆第一話 偽装婚約の提案
しおりを挟むフェルナンド伯爵家の応接間は、外の喧騒とは無縁の静けさに満ちていた。
高い天窓から差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に細い影を描く。
書きつけられた帳簿の山は、見る者の心を否でも応でも沈ませるだろう。
その中心に座るエリシアは、帳簿を閉じた指先を小さく震わせていた。
(もう……どうすればいいの……?)
財政難。
父が仕事に奔走しても追いつかないほど深刻な赤字。
そして、その弱みにつけ込むようにガイアス公爵から突きつけられた婚約話。
彼のじっとりと絡みつくような視線を思い出すだけで、背筋が冷える。
そんな時──
軽やかなノックが空気を震わせた。
「エリシア、入ってもいい?」
扉の向こうから聞こえたのは、どこか柔らかく、陽だまりのような声。
エリシアの表情がわずかに和らぐ。
「ノア?ええ……どうぞ」
扉が開き、栗色の髪が陽光を反射した。
リンドブルム子爵家の次男、ノア・リンドブルム。
昔からエリシアの背中を追い、寄り添い、笑顔を向けてくれた存在。
その姿を見るだけで、重苦しかった心が少し軽くなる。
「大丈夫?なんだか元気なさそうだったけど」
「……見抜かれるわよね、あなたには」
ノアはにこりと笑い、エリシアの向かいに座った。
近くで見ると、あどけなさを残しつつも少年ではなくなりつつある輪郭。
幼馴染としてその変化を見続けてきたはずなのに、今日の彼はなぜか大人びて見えた。
「相談って、例の“政略結婚”のこと?」
「そうよ。父も頭を抱えていて……。ガイアス公爵の力を借りれば家は助かると言われたけれど……」
エリシアは言い淀む。
その沈黙のわずかな間に、ノアの瞳がすっと細められた。
「公爵なんて、エリシアにふさわしくないよ」
「そう……ね。でも、私は家のために……」
「エリシアらしいよ。家族を守るためなら、自分を後回しにするところもさ」
ノアの声は、慰めるよりも先に、エリシアの心の痛みを拾い上げてくれる。
だけど今日ばかりは、その優しさすら胸を刺した。
「ノア……お願いがあるの」
「うん、何でも言って」
その即答に、エリシアは苦笑する。
(こういうところ……ずるいくらい優しいのよね)
深呼吸をし、膝の上で指を組む。
「──少しの間でいいの。私の“婚約者のフリ”をしてほしいの」
言葉を吐き出した瞬間、静寂が押し寄せた。
ノアはまばたきもせず、まっすぐにエリシアを見た。
「……婚約者の、フリ?」
「公爵があまりにも強引で……おそらく、家の弱みに付け込んで脅すつもりなの。でも私に婚約者がいれば、さすがに強行はできないはずだから」
ノアは黙って話を聞いていたが──
その沈黙の深さに、エリシアは少しだけ不安を覚えた。
(……嫌だったかしら?)
断られることを想定していなかったわけではない。
偽装とはいえ、婚約者だ。
彼に迷惑をかけるのは間違いなかった。
だが、ノアが口を開いたのはすぐだった。
「──いいよ」
その言い方は、あまりにも自然で、迷いがなかった。
「え……本当に?軽く承諾してしまって大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。だって、エリシアの頼みだもの」
穏やかな笑み。
それなのに、胸の奥がひどく熱くなる。
(なんで……こんなふうに見られると、落ち着かないの?)
どこか甘く、どこか深く、底を見せない瞳。
幼馴染に向けられるものとは違う気がして、エリシアの心臓がひどく騒いだ。
「ノアには……負担をかけてしまうと思うの。だから、本当に無理なら──」
「無理なわけないよ」
言葉を遮るように、ノアはふっと笑う。
その笑みは、少年らしい無邪気さと……それに紛れ込んだ大人びた影が混ざっていた。
「むしろ、僕を選んでくれてありがとう」
「え……?」
「たとえ“偽装”でも、エリシアが僕を婚約者にしてくれるなんて。嬉しいよ」
どう返せばいいかわからなくて、エリシアは視線をそらした。
なぜだろう、胸が妙に熱い。
ノアを弟のように思ってきたはずなのに……今は、その距離感が霞んでいく。
「じゃあ……詳しいことはまた明日話すわね。本当に助かったわ、ノア」
「うん。僕に任せて」
そう言ってノアは部屋を後にした。
扉が閉まった瞬間、エリシアは静かな部屋の中でようやく息を吐き出す。
(はぁ……言い出すの、怖かった……)
だが、少しだけ肩の荷が軽くなった。
信頼できるノアが味方になってくれる。
それだけで希望の灯りがともる。
──その頃。
廊下を歩くノアは、ふと足を止めた。
人気のない場所で壁に手をつき、奥底に沈めていた感情をゆっくりと浮かべる。
月光の差す窓辺に立ち、わずかに肩を揺らした。
「……エリシアが、僕を……婚約者にね」
低く呟いた声には、少年らしい軽さはもうなかった。
唇がゆっくりと、執着めいた笑みに歪む。
「偽装でも、構わないよ。だって──」
彼は目を細める。
その奥には、長年隠し続けてきた熱と欲が渦巻いていた。
「僕が本物にするからね。エリシア」
吐息のように漏れたその言葉は、甘く、危うく、そして確信に満ちていた。
偽装婚約。
エリシアにとっては“助けを求めるための手段”でも……
ノアにとっては、長年温め続けてきた計画が動き出す合図だった。
暗い廊下でひとり微笑むノアの瞳は──
彼女に向けられる限り、永遠に優しさだけでは済まない。
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