2 / 6
◆第二話 “偽装婚約者”はやけに距離が近い
翌朝、フェルナンド伯爵家の食堂は思いのほか騒がしかった。
いつもは家族だけで静かに朝食をとるのに、今日は珍しく客人がもう座っている。
「おはようございます、エリシア」
爽やかな笑顔。
ノアがすでに席に着き、父や母と談笑していた。
「ノ、ノア?どうしてもう来てるの?」
「婚約者だから?」
当然のように言うノアに、エリシアは目を瞬いた。
「まだ“偽装婚約”の話をしていないじゃない!」
「昨日のうちにお父様にご挨拶しておいたよ」
「はやっ……!」
昨日承諾してから、まだ半日も経っていない。
その間に父と話し、伯爵家に足を運び、しかも家族全員の信頼を得ている。
ノアは一体いつの間に……?
「ほら、座って。エリシアの隣、空けておいたから」
にこにこと微笑むノアは、いつも通りの愛嬌があるはずなのに。
エリシアはなぜだか逆らえないままノアの隣に腰を下ろした。
すると──
ふわり、と肩に触れるような気配が近づいた。
「エリシア、今日は寝不足?少し目が赤いよ」
「っ……!ちょ、近い……!」
顔を覗き込まれ、思わず肩が跳ねた。
ノアは気にも留めず、まるで恋人に接するかのように距離を詰めてくる。
父母も、妹のリリアナも、それを当然のように受け止めていた。
「ノアくんって本当に優しいのねぇ」
「姉さま、よかったね!わたしはノア兄さま推し!」
「……妹よ、声が大きい」
むしろエリシアのほうが浮いている気がした。
(私、こんなに距離が近い子と婚約のフリなんて……できるの?)
エリシアは動揺を隠せないまま朝食を終えた。
学院へ向かう途中、エリシアは歩きながらノアに言った。
「ノア、その……やりすぎよ。朝食でのあれは、完全に本物みたいだった」
「え、違うの?」
「“偽装”って言ったでしょ」
「うーん……僕は本気だったけど?」
「…………っ!!」
さらっと言わないでほしい。
堂々とした言葉に、エリシアの心臓が痛いほど脈打つ。
「ほら、手。つないでいい?」
「よくない!」
「偽装婚約中は自然に振る舞うのが大事なんだよ?」
「……理屈はわかるけど……!」
何より、ノアの手は大きくて温かい。
触れられれば平静ではいられない。
(私……ノアにこんなふうに触れられるだけで動揺するなんて……)
幼い頃から弟のように思っていた存在なのに。
今のノアはまったく別の色をしている。
その変化に気づかぬまま、二人は学院へ到着した。
学院では、すでに噂が広まっていた。
「フェルナンド嬢とリンドブルム家の次男坊が婚約したらしい!」
「えっ、でもエリシア嬢ってガイアス公爵と縁談が……」
「どうやら別の婚約者が現れたらしいぞ!」
エリシアは肩をすくめるしかなかった。
(早い……噂の速度が速すぎる……!)
だが、その横でノアはまるで誇らしげに胸を張っていた。
「エリシア、こっち」
ノアが軽く手首を取って人混みを避ける。
その触れ方は自然で、慣れているようですらあった。
「ノア、ちょっと……皆が見てるわよ」
「いいよ。隠すつもりないから」
ノアの声には、どこか甘さと強引さが混ざっていた。
(この子……こんなに積極的だったっけ?)
違和感は確かなのに、心の中で否定しきれない。
「エリシア、放課後ちょっと時間ある?大事な話があるんだ」
「……偽装婚約のこと?」
「うん。それもあるけど──」
ノアは柔らかく微笑んだ後、ほんの少しだけ瞳を細めた。
その一瞬の色にエリシアの心がざわつく。
「僕の“本音”も、聞いてほしい」
胸が、どくん、と大きく跳ねた。
「……本音?」
「うん。聞いたらきっと、エリシアはどう返せばいいかわからなくなると思うけど」
ノアは冗談めいた口調で言うが、そこに宿る熱は冗談ではなかった。
そして放課後。
学院裏の大きな木の下。
夕暮れの風が枝葉を揺らし、橙色の光がノアの横顔を照らしていた。
「来てくれてありがとう」
「ノア……“本音”って?」
ノアは少しだけ息を吸い、エリシアを見つめた。
「エリシア。偽装婚約の話を聞いたとき……嬉しかった」
胸の奥がぎゅっとなる。
「本当は、ずっと言いたかった。子どもの頃エリシアを庇って怪我したとき……その時からずっと、僕の“特別”はエリシアなんだよ」
「え……?」
エリシアは思わず息を呑んだ。
ノアの瞳は、優しいだけでなく、どこか危うい熱を帯びている。
「だから、偽装でも構わなかった。むしろそれをきっかけに、本物にできるなら……って思ってた」
「ノア……それは……」
「エリシアが誰かに奪われるなんて、考えたくもない」
ノアの声はささやきのように甘く、しかし芯は鋼のように硬かった。
「君を守りたい。困っているなら助けたい。でも、本音を言えば──」
ノアは一歩、エリシアへ近づいた。
心臓がひどく騒ぐ。逃げられない。
「君を手放したくない。誰にも渡したくない。君の“婚約者”でいたいのは……偽装じゃないんだ」
夕焼けが二人の影を長く伸ばす。
エリシアは胸に手を当てる。
息が詰まりそうだった。
(どうして……こんなに真剣な瞳で……)
幼馴染だと思っていた存在が、気づけば全く違う表情を見せている。
ノアは静かに手を伸ばした。
「……エリシア。僕のそばにいてほしい」
その手が触れた瞬間、世界が揺らぐ気がした。
甘く、強く、逃げられない。
そんな気配が、ノアの指先から伝わってくる。
(どうしよう……ノアが、わからない)
だが同時に、心が熱を帯びる。
偽装婚約は、ただの“形”のはずだった。
それなのに──
エリシアの心は、動き始めていた。
(これ以上近づいたら……私は……)
ノアは微笑む。
「ゆっくりでいいよ。焦らせないから。でも……離れないで。エリシア」
その声は、優しさに包まれつつ、底に甘い執着を潜ませていた。
あなたにおすすめの小説
幼なじみは今日も私を抱きしめたまま
由香
恋愛
主人公・美月の幼なじみ、陽斗は距離が近すぎる。
家では当たり前のように後ろから抱きしめてきて、
頬をすり寄せる。
学校では肩に顎を乗せ、退屈そうにほっぺをつつく。
「このほっぺ好き」
「意味わかんないんだけど…」
幼い頃からずっと一緒だったせいで、美月はこの距離に慣れてしまっていた。
けれど文化祭の日。
「美月、他の男に触らせないで」
幼なじみの静かな独占欲が、ついに本気を見せる。
これは――
距離ゼロの幼なじみが、恋人になるまでの甘すぎる物語。
Short stories
美希みなみ
恋愛
「咲き誇る花のように恋したい」幼馴染の光輝の事がずっと好きな麻衣だったが、光輝は麻衣の妹の結衣と付き合っている。その事実に、麻衣はいつも笑顔で自分の思いを封じ込めてきたけど……?
切なくて、泣ける短編です。
嫌われ令嬢ですが、最終的に溺愛される予定です
由香
恋愛
貴族令嬢エマは、自分が周囲から嫌われていると信じて疑わなかった。
婚約者である侯爵令息レオンからも距離を取られ、冷たい視線を向けられている――そう思っていたのに。
ある日、思いがけず聞いてしまった彼の本音。
「君を嫌ったことなど、一度もない」
それは誤解とすれ違いが重なっただけの、両片思いだった。
勘違いから始まる、甘くて優しい溺愛恋物語。
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
仮面王の花嫁
松雪
恋愛
婚約者を腹違いの妹に奪われ、新しい相手も見つからず修道院に行く覚悟を決めたルチア。修道女となるため髪を切った日の夜、王城から「国王がルチアを妻に望んでいる」という書簡を持った使者がやって来た。
しかし、従兄弟であり恋仲だったニールが国王のせいで死に至った過去を持つルチアは、国王からの求婚を喜べずーー。
年下幼馴染皇太子が溺愛してくる
由香
恋愛
平民薬師アリアと幼馴染の少年・レオン。
再会した彼は、幼い頃の泣き虫ではなく、世界で最も強く、甘く独占欲に満ちた皇太子になっていた。
「アリア、もう離さない」――身分差を超えた初恋が、宮廷で激しく、甘く、そして切なく燃え上がる。
逃げても逃げられない、溺愛ラブストーリー。
【完結】離婚を切り出したら私に不干渉だったはずの夫が激甘に豹変しました
雨宮羽那
恋愛
結婚して5年。リディアは悩んでいた。
夫のレナードが仕事で忙しく、夫婦らしいことが何一つないことに。
ある日「私、離婚しようと思うの」と義妹に相談すると、とある薬を渡される。
どうやらそれは、『ちょーっとだけ本音がでちゃう薬』のよう。
そうしてやってきた離婚の話を告げる場で、リディアはつい好奇心に負けて、夫へ薬を飲ませてしまう。
すると、あら不思議。
いつもは浮ついた言葉なんて口にしない夫が、とんでもなく甘い言葉を口にしはじめたのだ。
「どうか離婚だなんて言わないでください。私のスイートハニーは君だけなんです」
(誰ですかあなた)
◇◇◇◇
※全3話。
※コメディ重視のお話です。深く考えちゃダメです!少しでも笑っていただけますと幸いです(*_ _))*゜
※AI不使用です。