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◆第二話 “偽装婚約者”はやけに距離が近い
しおりを挟む翌朝、フェルナンド伯爵家の食堂は思いのほか騒がしかった。
いつもは家族だけで静かに朝食をとるのに、今日は珍しく客人がもう座っている。
「おはようございます、エリシア」
爽やかな笑顔。
ノアがすでに席に着き、父や母と談笑していた。
「ノ、ノア?どうしてもう来てるの?」
「婚約者だから?」
当然のように言うノアに、エリシアは目を瞬いた。
「まだ“偽装婚約”の話をしていないじゃない!」
「昨日のうちにお父様にご挨拶しておいたよ」
「はやっ……!」
昨日承諾してから、まだ半日も経っていない。
その間に父と話し、伯爵家に足を運び、しかも家族全員の信頼を得ている。
ノアは一体いつの間に……?
「ほら、座って。エリシアの隣、空けておいたから」
にこにこと微笑むノアは、いつも通りの愛嬌があるはずなのに。
エリシアはなぜだか逆らえないままノアの隣に腰を下ろした。
すると──
ふわり、と肩に触れるような気配が近づいた。
「エリシア、今日は寝不足?少し目が赤いよ」
「っ……!ちょ、近い……!」
顔を覗き込まれ、思わず肩が跳ねた。
ノアは気にも留めず、まるで恋人に接するかのように距離を詰めてくる。
父母も、妹のリリアナも、それを当然のように受け止めていた。
「ノアくんって本当に優しいのねぇ」
「姉さま、よかったね!わたしはノア兄さま推し!」
「……妹よ、声が大きい」
むしろエリシアのほうが浮いている気がした。
(私、こんなに距離が近い子と婚約のフリなんて……できるの?)
エリシアは動揺を隠せないまま朝食を終えた。
学院へ向かう途中、エリシアは歩きながらノアに言った。
「ノア、その……やりすぎよ。朝食でのあれは、完全に本物みたいだった」
「え、違うの?」
「“偽装”って言ったでしょ」
「うーん……僕は本気だったけど?」
「…………っ!!」
さらっと言わないでほしい。
堂々とした言葉に、エリシアの心臓が痛いほど脈打つ。
「ほら、手。つないでいい?」
「よくない!」
「偽装婚約中は自然に振る舞うのが大事なんだよ?」
「……理屈はわかるけど……!」
何より、ノアの手は大きくて温かい。
触れられれば平静ではいられない。
(私……ノアにこんなふうに触れられるだけで動揺するなんて……)
幼い頃から弟のように思っていた存在なのに。
今のノアはまったく別の色をしている。
その変化に気づかぬまま、二人は学院へ到着した。
学院では、すでに噂が広まっていた。
「フェルナンド嬢とリンドブルム家の次男坊が婚約したらしい!」
「えっ、でもエリシア嬢ってガイアス公爵と縁談が……」
「どうやら別の婚約者が現れたらしいぞ!」
エリシアは肩をすくめるしかなかった。
(早い……噂の速度が速すぎる……!)
だが、その横でノアはまるで誇らしげに胸を張っていた。
「エリシア、こっち」
ノアが軽く手首を取って人混みを避ける。
その触れ方は自然で、慣れているようですらあった。
「ノア、ちょっと……皆が見てるわよ」
「いいよ。隠すつもりないから」
ノアの声には、どこか甘さと強引さが混ざっていた。
(この子……こんなに積極的だったっけ?)
違和感は確かなのに、心の中で否定しきれない。
「エリシア、放課後ちょっと時間ある?大事な話があるんだ」
「……偽装婚約のこと?」
「うん。それもあるけど──」
ノアは柔らかく微笑んだ後、ほんの少しだけ瞳を細めた。
その一瞬の色にエリシアの心がざわつく。
「僕の“本音”も、聞いてほしい」
胸が、どくん、と大きく跳ねた。
「……本音?」
「うん。聞いたらきっと、エリシアはどう返せばいいかわからなくなると思うけど」
ノアは冗談めいた口調で言うが、そこに宿る熱は冗談ではなかった。
そして放課後。
学院裏の大きな木の下。
夕暮れの風が枝葉を揺らし、橙色の光がノアの横顔を照らしていた。
「来てくれてありがとう」
「ノア……“本音”って?」
ノアは少しだけ息を吸い、エリシアを見つめた。
「エリシア。偽装婚約の話を聞いたとき……嬉しかった」
胸の奥がぎゅっとなる。
「本当は、ずっと言いたかった。子どもの頃エリシアを庇って怪我したとき……その時からずっと、僕の“特別”はエリシアなんだよ」
「え……?」
エリシアは思わず息を呑んだ。
ノアの瞳は、優しいだけでなく、どこか危うい熱を帯びている。
「だから、偽装でも構わなかった。むしろそれをきっかけに、本物にできるなら……って思ってた」
「ノア……それは……」
「エリシアが誰かに奪われるなんて、考えたくもない」
ノアの声はささやきのように甘く、しかし芯は鋼のように硬かった。
「君を守りたい。困っているなら助けたい。でも、本音を言えば──」
ノアは一歩、エリシアへ近づいた。
心臓がひどく騒ぐ。逃げられない。
「君を手放したくない。誰にも渡したくない。君の“婚約者”でいたいのは……偽装じゃないんだ」
夕焼けが二人の影を長く伸ばす。
エリシアは胸に手を当てる。
息が詰まりそうだった。
(どうして……こんなに真剣な瞳で……)
幼馴染だと思っていた存在が、気づけば全く違う表情を見せている。
ノアは静かに手を伸ばした。
「……エリシア。僕のそばにいてほしい」
その手が触れた瞬間、世界が揺らぐ気がした。
甘く、強く、逃げられない。
そんな気配が、ノアの指先から伝わってくる。
(どうしよう……ノアが、わからない)
だが同時に、心が熱を帯びる。
偽装婚約は、ただの“形”のはずだった。
それなのに──
エリシアの心は、動き始めていた。
(これ以上近づいたら……私は……)
ノアは微笑む。
「ゆっくりでいいよ。焦らせないから。でも……離れないで。エリシア」
その声は、優しさに包まれつつ、底に甘い執着を潜ませていた。
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