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◆第五話 エリシアの決断と告白
同居生活が始まって三日目。
エリシアは、ずっと胸の奥に違和感を抱えていた。
(ノア……なんだか変。以前のように明るく笑っているのに、時々すごく冷たい目をする……)
その原因が──ガイアス公爵との接触だった。
午前の講義が終わり、学院の中庭を歩いていたとき。
「おや、フェルナンド嬢。久しいね」
声をかけてきたのは、紳士然とした装いのガイアス公爵。
一見して柔和な笑みを浮かべているが、その目は品定めするように細められていた。
「……公爵殿下。学院に何用でしょう?」
「もちろん、きみに会いにな。私はまだ、あの婚約が“偽装”だと確信しているよ」
エリシアは息を呑んだ。
「であれば、正式に返答を聞きたくてね。フェルナンド家の借金は──まだ残っているのだろう?」
心臓が締め付けられる。
伯爵家の滞納分が返済できていないことを、なぜ彼が把握しているのか。
動揺を見せまいと唇を結んだそのとき──
「……何をしているんですか?」
背中越しに低い声が落ちた。
振り向く前から、誰が来たのか分かった。
「ノア……」
エリシアが名を呼ぶのと同時に、ノアはエリシアの細い手首を掴んでぐいと引き寄せた。
その動作は、本当に“奪う”ようで──胸が跳ねる。
「学院内で勝手に婚約者へ接触するとは、無礼ですよ、公爵殿」
笑っていない。
いつものノアではない。
冷たい静寂をまとい、相手を射抜くような目。
エリシアでさえ息を飲んでしまうほどの威圧。
「……ふん。精神魔法の天才と言われるだけはある。その口ぶり、まるで本物の婚約者だな」
「本物なので。あなたの入る余地なんて、最初からありません」
淡々とした声。
なのに、刺すような怒気がひそんでいる。
その気迫に、公爵でさえ一瞬表情を揺らした。
「……いずれ分かるさ。その“偽の絆”がいつまで保つか」
捨て台詞を残し、公爵は踵を返した。
姿が見えなくなるまで、ノアはエリシアの手を放さなかった。
「ノア……」
エリシアはそっと問いかけた。
「怒ってるの……?」
「怒ってるよ」
あまりにも素直すぎて、逆に胸が痛む。
「僕以外の男がエリシアに近づいた。僕の許可もなく、触れようとした。そして君は──」
「わ、わたしは何も……」
「何も?本当に?」
ノアはエリシアの肩に手を置き、目を覗き込んでくる。
「ガイアス公爵と話しているとき、君……あの人から目を逸らせなかった」
「それは……怖かっただけよ」
「怖いときは僕を見るんだよ、エリシア」
言葉が胸に深く突き刺さる。
「……僕を見てほしい。僕だけを信じてほしい。僕だけに頼ってほしいんだ」
「ノア……」
「ずっと、ずっとそれを願ってた。だから今日、公爵と話してる君を見て……頭の中が真っ白になった」
正面から向けられる独占欲。
それは重いはずなのに、不思議と拒めなかった。
(私は……どうして……)
夕方、リンドブルム家に戻ると、ノアはずっと黙っていた。
夕食のときも、歩くときも、手を繋いでいても。
「ノア……?」
「エリシアは、僕のものだって……言いたかったのに」
小さく呟かれる声。
耳元に触れる吐息に背筋が震える。
「学院は人の目が多いから、言えなかった。でも本当は──君の全部が欲しい」
「ノア……落ち着いて」
「落ち着けるわけない。公爵があんなふうに君を見たのに」
ノアはエリシアの手を取って、自室へ連れていった。
扉を閉めると同時に、背中側から抱きしめられる。
「エリシア……怖がらないで。でも、離れないで」
その声は震えていた。
(ノア……本当に……私のことで……)
幼い頃の彼を思い出す。
泣きながら自分の手を握りしめていた、小さなノア。
変わったのは外見と年齢だけで、
あの頃から彼は──いつもエリシアだけを求めていた。
「ノア」
ゆっくりと彼の腕に触れ、振り向いた。
驚いたように見開かれた蒼い瞳。
(この子は……私を失うことを本気で怖がってるんだ)
胸が熱くなる。
「私は……あなたが怒るのは嫌だけど……その理由が、私を想ってのことなら……いいの」
「エリシア?」
「だって……そんなに思ってくれてるなんて、知らなかったから……」
言葉を最後まで言い切る前に、ノアが抱きしめてきた。
強く、でも震えていて。
「……僕、ほんとに……エリシアが好きで……どうにかなりそうなんだよ……」
その苦しいほどの真っ直ぐさに、エリシアはそっと微笑む。
「ノア。“偽装婚約を解消すればノアが離れる”って……今日、初めて怖くなったの」
ノアの腕がぴくりと震えた。
「だから……気づいたの。私、あなたがいなくなるのは……嫌」
ノアの呼吸が止まる。
「偽装じゃない。本当に……あなたの婚約者でいたい」
「……え」
かすれた声。
次の瞬間──
「エリシア……っ!」
ノアは泣き笑いの顔でエリシアを抱きしめた。
抱きしめすぎて苦しいほど、全身で。
「エリシア……愛してる……離さない、絶対に……!」
「うん……離れないわ」
その瞬間、ふたりの距離は“偽装”の線を完全に越えた。
深夜。
エリシアが眠るまで、ノアはずっと手を握っていた。
「本物になったね……僕たち」
「そうね……」
「エリシア……明日からは、婚約者としてキスしてもいい?」
「……ゆ、ゆっくりね……?」
「うん。でも我慢はしないから」
その言葉に、エリシアは胸が温かく震えた。
もう迷いはない。
ノアを失いたくないという気持ちが、はっきりと形になっている。
(ノアがいてくれるなら……もう大丈夫)
眠りにつく直前、ノアの指がそっと額に触れ、囁きが落ちた。
「大好きだよ、エリシア。ずっと、ずっと僕の人でいて」
「……ええ……」
その返事を聞いたとき、ノアはようやく安心したように微笑んだ。
そしてふたりは、ようやく本当の“婚約者”になった。
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