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第五章 悪女の微笑
第一話 黒衣の令嬢、帰還
しおりを挟む王都ルオネは、灰に沈んでいた。
崩れた尖塔、焼け落ちた聖堂、そして空を覆う白煙。
民は泣き、祈り、やがて静かに立ち上がっていた。
虚構の王国は終わりを迎えた――だが、新しい時代の始まりはまだ見えない。
その廃墟の街を、黒衣の馬車がゆっくりと進んでいた。
御者台に座るのはディラン。
彼の背後で、カーテンの隙間から細い指がそっと外を撫でる。
「……静かね」
柔らかな声。
それは、かつて“悪女”と呼ばれた女の声だった。
セレーナ・ヴァン・ルクレティア。
彼女は王国を滅ぼし、真実を暴いた張本人として、いまや伝説の影の存在となっている。
「王家の紋章も、聖女の像も、跡形もありません」
ディランの言葉に、セレーナは目を伏せた。
「それでいいのよ。――舞台の幕が下りたなら、飾りも照明も不要だわ」
馬車は王宮跡の前で止まった。
瓦礫の中、かつての舞踏会場だった大広間だけが、奇跡的に形を残していた。
セレーナはゆっくりと降り立つ。
風が吹き抜け、黒衣の裾が翻った。
「……ここから、すべてが始まった」
彼女の足元には、割れた大理石の床。
あの日、王太子エドワードが彼女を“悪女”と断罪した場所だった。
セレーナはそっと手を伸ばし、床に残る焦げ跡を撫でる。
そこにまだ、彼の声の残響がある気がした。
『セレーナ・ヴァン・ルクレティア。お前を断罪する!』
――そして、あの夜の冷たい笑み。
「舞台は整いましたわ」と言った自分の声が、心の奥で静かに反響する。
「ふふ……あのとき、本当に“舞台”が整っていたのね」
セレーナは微笑み、顔を上げた。
すると、崩れた窓の隙間から、一筋の光が差し込んだ。
埃の舞う中で、光はまるで彼女の背を照らすスポットライトのよう。
その光景に、ディランが息を呑む。
「まるで……主様のために、舞台がもう一度開いたようです」
「ええ。でも今度の主役は、私じゃないわ」
セレーナは振り返る。
外では、民たちが瓦礫を片づけ、子供たちが小さな花を植えていた。
――焼け跡の中に、芽吹きがある。
「彼らが、この国の次の脚本を書く。私はただの“過去の登場人物”。もう舞台袖に退くべき頃よ」
ディランが少し寂しげに微笑む。
「主様……それでも、人々はあなたを求めています。“真実を示した悪女”として」
「称えられるつもりはないわ」
セレーナは首を振る。
「私は正義でも救世主でもない。ただ、ひとつの嘘を壊しただけ」
その声には、不思議な静けさがあった。
かつて燃えるような復讐の炎を宿していた瞳も、いまは穏やかに澄んでいる。
彼女は崩れた玉座を見つめ、最後にひとつだけ呟いた。
「――終幕を見届けに来ただけ」
その瞬間、外から民の歌声が聞こえてきた。
新しい王の名でも、聖女の祈りでもない。
ただ、灰の街で再び生きようとする人々の歌。
セレーナは微笑み、扇を閉じる。
黒薔薇の紋章が光を反射し、まるで最後の挨拶のように輝いた。
「行きましょう、ディラン。――この舞台の幕が完全に閉じる前に」
馬車が再び動き出す。
遠ざかる瓦礫の街、差し込む朝の光。
その中で、黒衣の令嬢は静かに微笑んでいた。
それは、断罪の舞台で最初に見せたあの微笑と同じ。
だが今は、憎しみではなく、哀しみと誇りが混ざっている。
“悪女”の名を冠した令嬢が、最後に残したのは――微笑だけだった。
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