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9.出発
「なぁ、王太子からは何も連絡はないのか?」
「……ないわね」
「婚約が解消になるというのにか?」
「ええ、まったく何もないわ。
この様子なら明日のお見送りも来ないかもしれないわね」
「信じられないな……八年も婚約していたのに」
「もともと嫌われていたもの。仕方ないわ」
アンジェラ様のせいもあるけれど、ナタニエル様とは仲良くなれなかった。
二人きりでゆっくり話したこともないのだから、仲良くなりようもないけれど。
私としては王太子妃として恥ずかしくないように頑張ってきたつもりだった。
そのことすら認めてもらえなかったのだろうかと、むなしく思う。
予想通り、次の日、出発する場には陛下もナタニエル様もいなかった。
原因となったアンジェラ様すら見当たらない。
出発は王宮ではなくオードラン公爵家からになったけれど、
王宮からはそれほど遠くはない。
来ようと思えばいくらでも来られたはず。
見送りすらしたくないということなのだろう。
「リンネア様」
見れば、ナタニエル様付きの侍従だった。
手には手紙を持っている。
「それはナタニエル様から?」
「はい」
受け取って読めば、一言だけが書かれていた。
エルドレド王国の恥になるようなことはしないように
ただ、それだけ。
横からのぞいたカルラが呆れたようにつぶやく。
「恥になるようなことをしたのは誰なんだか」
「カルラ」
「はーい」
侍従にも聞こえただろうけれど、聞こえないふりをしてくれたようだ。
出発前に下手にもめたくないのかもしれない。
手紙を届けてくれた礼をすると、侍従は王宮に戻って行った。
「リンネア、準備はいいか?」
「ええ、お父様、行ってきます」
「リンネア……たまには手紙を書いてね」
「はい、お母様」
お兄様はどこに行ったのだろうと思っていると、
玄関から慌てて出て来た。
「リンネア、忘れるところだった。
これを持って行って!」
「これって、花のお茶?」
「ああ。皇太子が前に言っていたんだ。
うちの、オードラン公爵領の花が好きだと。
何かあればこのお茶を使えばいい」
「お兄様、ありがとう」
オードラン公爵領地の特産はお茶と花。
それを組み合わせて花の香りがするお茶を作ろうとしたのが三年前。
今年になって、ようやく味も香りも申し分ないものができた。
だけど、まだ生産量が少なく、商会でも売っていないものだ。
こんな貴重なものを私に持たせてくれるとは。
「お父様、お母様、お兄様、行ってきます。
戻って来られるかはわからないけれど、どうかお元気で」
「リンネアも……」
カルラと共に馬車に乗り、窓から手を振る。
少し離れたところで、カルラの両親とクルスも手を振っているのが見えた。
「リンネア様、もう泣かないで」
「……カルラだって泣いているじゃない」
「これは……」
お互いにハンカチで顔を拭いて、少しだけ笑う。
もう馬車は出てしまった。
このまま帝国に向かうしかないのだから。
一日目の夜は宿に泊まり、二日目の夜は王領の離宮に泊まることになった。
ここの領地は帝国との境になる。
エルドレド王国の中では一番北に位置するので、
避暑地としても有名な場所だ。
早朝、離宮から見下ろす景色を眺めていて、
九年前に一度来たことがあるのを思い出した。
離宮のそばには大きな湖がある。
向こう側に見える街は、もう帝国だ。
広い広い湖、夏でも凍えてしまいそうなほど冷たい。
その温度を思い出して、身震いしそうになる。
「リンネア様ってば、もう起きたの?」
「あら、カルラも起きたのね」
「ええ、なんだか落ち着かなくて。
今日は帝国に入るんだもの」
「ええ。そうね」
起きて来たカルラが窓の外を見て驚きの声をあげる。
「え?何、あれ、湖?」
そういえば、カルラがこの離宮に来るのは初めてだった。
「昨日は暗くなってから離宮に入ったからわからなかったわよね。
湖の向こう側はもう帝国よ。街が見えるでしょう?」
「本当だわ!リンネア様は一度来たことがあるのよね?」
「ええ、昔、ナタニエル様とアンジェラ様の避暑につきあわされて」
きっかけがアンジェラ様が暑さで体調を崩したことだった。
涼しいこの離宮で夏の間過ごすことになったが、
婚約者としてつきそうはずのお兄様が病気でつきそえなくなった。
そのため、急遽私が話し相手としてついてくることになった。
だが、まだ七歳だったアンジェラ様はおとなしく静養することができず、
私のふりをして街に遊びに出て行ってしまった。
おかげで私は王女のふりをして離宮内で過ごさなくてはならなくなった。
ナタニエル様もアンジェラ様と一緒に遊びに行ってしまい、
私ができたのは離宮の敷地内を散歩するだけ。
始めは王女のふりをした私につきあっていた女官たちも、
そのうちかまわなくなり、一人でぶらぶらと歩きまわっていた。
「あの湖に落ちてしまったことがあるのよ」
「ええ?リンネア様、泳げなかったよね?」
「ええ、まったく。偶然通りかかった男の子に助けてもらったの」
「それって、貴族令息?」
「いえ、平民だと思うわ。顔に大きな傷があったし」
「そうなんだ。お金とかせびられなかった?」
「いいえ。何も。だけど、怒られたわ。
泳げもしないのに湖のそばに近寄るなって」
「その子は大物だね。貴族にそんなこと言えば殺されるかもしれないのに」
「助けてもらったのに、そんなことしないわ。
でも、そうね。他の貴族だったらわからないわね。
私は思わず謝ってしまったけれど」
「謝った?」
「だって、その通りだったもの。
泳げもしないのに一人で近寄るなんて馬鹿だったわ」
「もう~そこがリンネア様だけど。
じゃあ、もう湖のそばには行っちゃだめだからね!」
「わかっているわ」
あの時、怒鳴られて驚いたけれど、不思議と嫌な気持ちはなかった。
本当に私のことを心配してくれていると思ったからだ。
日に焼けた黒髪の少年の右頬にはざっくりと切られた痕があった。
何をしたらそんな怪我を負うことになるのかと思ったけれど、
私を助けた後はすぐにどこかに走って行ってしまった。
貴族なんかに関わりたくなかったのかもしれない。
びしょぬれになって助けてくれたのだから、何かお礼をすればよかったけれど、
その後の私は熱を出してしまってそれどころではなかった。
「……ないわね」
「婚約が解消になるというのにか?」
「ええ、まったく何もないわ。
この様子なら明日のお見送りも来ないかもしれないわね」
「信じられないな……八年も婚約していたのに」
「もともと嫌われていたもの。仕方ないわ」
アンジェラ様のせいもあるけれど、ナタニエル様とは仲良くなれなかった。
二人きりでゆっくり話したこともないのだから、仲良くなりようもないけれど。
私としては王太子妃として恥ずかしくないように頑張ってきたつもりだった。
そのことすら認めてもらえなかったのだろうかと、むなしく思う。
予想通り、次の日、出発する場には陛下もナタニエル様もいなかった。
原因となったアンジェラ様すら見当たらない。
出発は王宮ではなくオードラン公爵家からになったけれど、
王宮からはそれほど遠くはない。
来ようと思えばいくらでも来られたはず。
見送りすらしたくないということなのだろう。
「リンネア様」
見れば、ナタニエル様付きの侍従だった。
手には手紙を持っている。
「それはナタニエル様から?」
「はい」
受け取って読めば、一言だけが書かれていた。
エルドレド王国の恥になるようなことはしないように
ただ、それだけ。
横からのぞいたカルラが呆れたようにつぶやく。
「恥になるようなことをしたのは誰なんだか」
「カルラ」
「はーい」
侍従にも聞こえただろうけれど、聞こえないふりをしてくれたようだ。
出発前に下手にもめたくないのかもしれない。
手紙を届けてくれた礼をすると、侍従は王宮に戻って行った。
「リンネア、準備はいいか?」
「ええ、お父様、行ってきます」
「リンネア……たまには手紙を書いてね」
「はい、お母様」
お兄様はどこに行ったのだろうと思っていると、
玄関から慌てて出て来た。
「リンネア、忘れるところだった。
これを持って行って!」
「これって、花のお茶?」
「ああ。皇太子が前に言っていたんだ。
うちの、オードラン公爵領の花が好きだと。
何かあればこのお茶を使えばいい」
「お兄様、ありがとう」
オードラン公爵領地の特産はお茶と花。
それを組み合わせて花の香りがするお茶を作ろうとしたのが三年前。
今年になって、ようやく味も香りも申し分ないものができた。
だけど、まだ生産量が少なく、商会でも売っていないものだ。
こんな貴重なものを私に持たせてくれるとは。
「お父様、お母様、お兄様、行ってきます。
戻って来られるかはわからないけれど、どうかお元気で」
「リンネアも……」
カルラと共に馬車に乗り、窓から手を振る。
少し離れたところで、カルラの両親とクルスも手を振っているのが見えた。
「リンネア様、もう泣かないで」
「……カルラだって泣いているじゃない」
「これは……」
お互いにハンカチで顔を拭いて、少しだけ笑う。
もう馬車は出てしまった。
このまま帝国に向かうしかないのだから。
一日目の夜は宿に泊まり、二日目の夜は王領の離宮に泊まることになった。
ここの領地は帝国との境になる。
エルドレド王国の中では一番北に位置するので、
避暑地としても有名な場所だ。
早朝、離宮から見下ろす景色を眺めていて、
九年前に一度来たことがあるのを思い出した。
離宮のそばには大きな湖がある。
向こう側に見える街は、もう帝国だ。
広い広い湖、夏でも凍えてしまいそうなほど冷たい。
その温度を思い出して、身震いしそうになる。
「リンネア様ってば、もう起きたの?」
「あら、カルラも起きたのね」
「ええ、なんだか落ち着かなくて。
今日は帝国に入るんだもの」
「ええ。そうね」
起きて来たカルラが窓の外を見て驚きの声をあげる。
「え?何、あれ、湖?」
そういえば、カルラがこの離宮に来るのは初めてだった。
「昨日は暗くなってから離宮に入ったからわからなかったわよね。
湖の向こう側はもう帝国よ。街が見えるでしょう?」
「本当だわ!リンネア様は一度来たことがあるのよね?」
「ええ、昔、ナタニエル様とアンジェラ様の避暑につきあわされて」
きっかけがアンジェラ様が暑さで体調を崩したことだった。
涼しいこの離宮で夏の間過ごすことになったが、
婚約者としてつきそうはずのお兄様が病気でつきそえなくなった。
そのため、急遽私が話し相手としてついてくることになった。
だが、まだ七歳だったアンジェラ様はおとなしく静養することができず、
私のふりをして街に遊びに出て行ってしまった。
おかげで私は王女のふりをして離宮内で過ごさなくてはならなくなった。
ナタニエル様もアンジェラ様と一緒に遊びに行ってしまい、
私ができたのは離宮の敷地内を散歩するだけ。
始めは王女のふりをした私につきあっていた女官たちも、
そのうちかまわなくなり、一人でぶらぶらと歩きまわっていた。
「あの湖に落ちてしまったことがあるのよ」
「ええ?リンネア様、泳げなかったよね?」
「ええ、まったく。偶然通りかかった男の子に助けてもらったの」
「それって、貴族令息?」
「いえ、平民だと思うわ。顔に大きな傷があったし」
「そうなんだ。お金とかせびられなかった?」
「いいえ。何も。だけど、怒られたわ。
泳げもしないのに湖のそばに近寄るなって」
「その子は大物だね。貴族にそんなこと言えば殺されるかもしれないのに」
「助けてもらったのに、そんなことしないわ。
でも、そうね。他の貴族だったらわからないわね。
私は思わず謝ってしまったけれど」
「謝った?」
「だって、その通りだったもの。
泳げもしないのに一人で近寄るなんて馬鹿だったわ」
「もう~そこがリンネア様だけど。
じゃあ、もう湖のそばには行っちゃだめだからね!」
「わかっているわ」
あの時、怒鳴られて驚いたけれど、不思議と嫌な気持ちはなかった。
本当に私のことを心配してくれていると思ったからだ。
日に焼けた黒髪の少年の右頬にはざっくりと切られた痕があった。
何をしたらそんな怪我を負うことになるのかと思ったけれど、
私を助けた後はすぐにどこかに走って行ってしまった。
貴族なんかに関わりたくなかったのかもしれない。
びしょぬれになって助けてくれたのだから、何かお礼をすればよかったけれど、
その後の私は熱を出してしまってそれどころではなかった。
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