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最終章
第72話 それくらい知っているよ
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ラミア様の紫色に染まった瞳。今日何度も同じ色を見ているはずなのに、それは今までで一番鮮烈な印象を私に与えた。
――耳の奥でノックの音がする。その扉を叩いたのは、少し前までぎこちない様子を見せていたノエで。
ノックの後に微かに聞こえたのは、低い、女の人のような声。
ノエが扉を開く。広い部屋、たくさんの本。その先に窓。
窓の前には、紫色の光に照らされた華奢な人型のシルエット。
ここはラミア様の部屋だ。ラミア様と、初めて会った日の記憶。
そう、思い出したのに。
窓の前にいたのは、知らない人だった。
この部屋の主であるラミア様よりも小柄で、長い髪は紫色の光を透かしたような色。
紫の瞳が私を射抜く。その瞬間、その人はラミア様になった。
「――何……これ……」
突然頭の中に浮かんできた光景に混乱する。そういえばあの日、私は一瞬自分の意識が飛んだのを確かに感じた。
あれは緊張のせいかと思っていたけれど、もしかして違ったんじゃないか――そう思いながら目の前のラミア様に視線を戻せば、そこにはもう彼女はいなかった。
代わりに立っていたのは、さっき見た光景の中にいた人。
真っ白の長い髪を風に遊ばせ、赤い宝石を嵌め込んだような瞳を持つ顔は薄く微笑んでいるのに、冷たい。身を包む白い衣服は、その人の性別を曖昧にしていた。華奢な身体に丸みはなく、けれど衣服から出ている首や腕が骨ばっているわけでもなく。思春期を迎える直前の少年のようにも見えるのに、色香の漂う大人の女性のようにも見える。顔立ちから判断しようにも、作り物のようにただただ美しいだけでどちらとも取れなかった。
けれど一番目を惹かれたのは、その白い肌から放たれているような、とても儚い雰囲気。
「お母、さん……――ッ!?」
自分の口から出た言葉にびくりと肩を揺らす。違う、この人はお母さんじゃない。見た目が全然違うじゃないか。
そう分かっているのに、この人の放つ空気は寂しさに泣くお母さんにとてもよく似ていた。泣いている時のお母さんと違って顔には笑みを浮かべ、表情だけでは寂しさなんて微塵も感じさせないのに。
この人は一体――。
「アイリス……?」
驚きを含んだスヴァインの声が私の疑問に答えを与える。
確認するようにノエを見れば、私の視線に気付いた彼は小さく首肯してみせた。
「でも……じゃあ、ラミア様は……?」
だってラミア様とアイリスは別人のはずだ。ラミア様だと思っていたこの人がアイリスなら、本物のラミア様はどこにいるの?
「本物のラミアはとうに死んでいるよ。ちょうどいいから借りていたんだ」
ラミア様とは全く違う声が私に答える。その声はあの日扉の外で聞いた声とよく似ていた。
なら、私が今までラミア様だと思っていたのは全てアイリスだったってこと? ――状況から考えるときっとそうなのだろう。本物のラミア様がもう死んでしまっているなら、私と会えるはずがない。
アイリスをラミア様だと思っていたのは私だけだろうか。いや、違う。ノエは知っていたみたいだけれど、少なくともスヴァインはラミア様がアイリスになったのを見て驚いていた。だから彼もまた、認識を歪められていたのだ。
だったら、他の人達は?
「ニックさん達はこのこと……」
「知るはずがないだろう? このノクステルナの子供達は全員、私をラミアだと思い込んでいるんだから」
「じゃあ、アレサさんも……?」
アレサさんはラミア様の実の娘だ。それなのに母親の死を知らず、全く違う人を母親だと思わされているということだろうか。
私の問いにアイリスは目を三日月のように細め、「勿論」と軽やかに頷いてみせた。
「ラミアのふりをするのはなかなか面白かった。あの子は考え方が私とまるで違うから、最初の頃はあの子になりきって何かするたびに、周りが違和感を抱くかどうかいつも楽しみでね。だから敢えて認識を歪めるのは最小限にしていたのだけれど、アレサですらはっきりと違うと確信が持てなかったくらいだから、私は相当上手くやったんだと思う」
そう語るアイリスの声は、本当に楽しいことを話すかのように弾んでいた。口にしている内容は周りを騙していたという話なのに、子供が好きな遊びについて語るような姿を見ていたら自分の頭が混乱していくのが分かる。けれどアイリスは気付かないのか、それとも全く気にならないのか、私に構うことなく言葉を続けた。
「ああ、全員と言ってしまうと少し違うか。スヴァインやラーシュ達には時々ラミアのふりをせずに会っていたし……あと、ノエだけはラミアが私だと知っていたから。この子は私がラミアとなってから唯一血族に引き入れた、私の代わりだからね」
だからノエはラミア様のところにいたのか――疑問にすらなっていなかった小さな違和感が、全て繋がっていく。
なんで教えてくれなかったんだろうと思ったけれど、そういえばノエは周りを騙しているとは言っても、一言もラミア様個人を騙しているとは言っていなかったと思い出した。
多分これも、言えないことだったんだろう。私がノエの手伝いとしてアイリスに認められた後だったら違ったのかもしれないけれど、そうじゃないのにラミア様の正体を漏らすのはきっと危険があったんだ。そうじゃなければ、さっきラミア様だと思って彼女に駆け寄ろうとした私を、あんなふうに止めはしないだろう。
色々な記憶が繋がってすっきりしているはずなのに、それを喜ぶことはできなかった。だってこの人がしていたのはそんな楽しいことじゃない。ただ自分の正体を隠すだけでなく、アレサさんや他のラミア様の子達の気持ちをないがしろにしたその行為は、お母さんに自分を夫だと思わせていたスヴァインと同じ許し難いもので。
それに――。
『この子は私がラミアとなってから唯一血族に引き入れた、私の代わりだからね』
ノエのことを指したこの言葉が、凄く嫌だと思った。
「ノエをそんなふうに言わないで」
私が睨みつければ、アイリスは小首を傾げた。
「本人も承知しているのに?」
「だとしても! 全員騙すような人にノエのことをそんなふうに言って欲しくない!」
「ノエは私だよ。自分のことをどう言おうが勝手だろう」
「ノエはノエだよ! そうやって一人ひとりのことちゃんと見ようとしないから、スヴァインが何のためにラーシュとオッドを殺したのかも分からないんじゃないの!?」
私の声が響く。ノエが小さく「ほたる……何言って……?」と不思議そうにする声が聞こえた。
「スヴァインが二人を殺したのは、あなたのため――ッ!?」
張り上げた声は、首への衝撃のせいで最後まで続けられなかった。
「ほたる!」
今度ははっきりと、ノエの焦るような声が聞こえる。なんでだろうと考えれば、私の首にはスヴァインの手がかけられていて。強い力でぎりぎりと締め付けられて、声を出すことも、息をすることすらもできない。
「よせ、ノエ」
「ッふざけんな!」
怒声に目だけをそちらに向ければ、アイリスの制止を無視してこちらに向かってくるノエの姿。
その姿を捉えた瞬間、首にかかる力が強くなる。それに気付いたと同時に身体が浮いて、宙に放り出されていた。
「投げんなよ……!」
驚いたようなノエの声が聞こえた直後、身体が何かにぶつかって止まった。咽せながら状況を確認すれば、私を支えているのは彼の胸だと分かった。
ああ、スヴァインに投げられたのか――状況を理解した時、アイリスが「それくらい知っているよ」と言うのが聞こえた。
「知ってるって……じゃあなんでその気持ちを分かってあげないの!? なんで殺そうとするの!?」
ノエに抱き留められたまま声を上げる。
スヴァインが自分のためにラーシュとオッドを殺したと知っていたのに、どうしてノエに彼を殺せと言うのだろう。しかもその事実を、ノエに言わないで――さっきのノエの不思議そうな声は、きっとそういうことだ。ノエにスヴァインを殺せと言うくせに、本当のことを教えていないんだ。
そう気付くと、更に怒りが増した。返事を求めるようにアイリスを睨みつけたけれど、私の問いに答えたのはアイリスではなかった。
「俺がそれを求めていないからだ」
どういうことか分からなくて、スヴァインの方に視線を向ける。
「ラーシュ達からアイリスを奪いたかったのも、アイリスの憂いを払いたかったのも、どちらも俺の望み。だが、それだけだ。アイリスに見返りは求めていない」
「見返りって……気持ちを分かってもらおうとするだけなのに?」
「見返りだろう、自分の都合でした行動を相手に認めてもらいたいという欲求は。頼まれたわけでもないのに、どうして見返りを期待する?」
「何それ……」
言っていることが分からない。
だってそれは当然の欲求じゃないの? 相手を思ってした行動をその人に認めてもらいたいと思うのは、普通のことじゃないの?
勿論認めろとその欲求を押し付けるのはおかしいことだって私にも分かる。でも相手のことが大事なら、その気持ちを相手に分かってもらいたいと思うのはそんなにおかしいことなのだろうか。
私が子供だから分からないの? みんなそれが普通なの?
「人間の尺度で私達を測ってはいけないよ、ほたる。――そしてノエ、お前もね」
スヴァインの言葉に繋げるようにアイリスが口を開く。その視線はもう、ノエを捉えていた。
「一体何を企んでいるのかな? スヴァインをおびき寄せたいだけならこんな騒ぎを起こす必要はなかったはずなのに。クラトス達を殺すためだとしても、ここまで後始末が面倒な方法じゃなくてもお前ならもっと上手くやれただろう? そうしたら私だってわざわざ様子を見に来ようとは思わなかったのだけれど。……もしかして、お前は――」
アイリスがにっこりと口角を上げる。
「――私を殺したいのかな?」
ぞっと、背筋に怖気が走った。ノエは表情を強張らせていて、私を支える腕に力が込もる。
「……別に今殺したいわけじゃないっすよ、この状況は事故みたいなもんなんで。――でもまァ、近いうちにアンタを殺さなきゃいけないとは思ってましたけどね」
「ノエ……!?」
そんなの聞いていない、と思わずノエの顔を見上げる。アイリスを殺す用意をするのは保険だとさっき言ったばかりなのに、今の言葉はそれと意味が変わってしまう。
どういうことか教えて欲しかったけれど、ノエの視線はずっとアイリスに向けられたままだった。
「なんで私を殺したいんだろうね。お前には憎まれるようなことをした覚えはないのだけれど」
「そうっすね。ただ、アンタはいつか俺やほたるを殺すでしょ? 今すぐじゃなかったとしても、俺らがアンタの意に沿わない行動を取ったら」
「当たり前だろう。心配するということは、そんな予定があるのかな?」
「まァ、アレサやクラトス達を殺す気はもうないっすね」
「……確かにそれは良くないね」
そう言って、アイリスは顔にかかった髪を払った。一瞬手で隠れた瞳は、次の瞬間にはほんの少しだけ薄暗くなっていて。
それなのに顔は笑ったままだから、目の印象と表情が合わなくて酷く不気味だった。
「ノストノクスは私が作ったわけではないけれど、法を司るものに対して敵対心を抱くあの子達は血族を危険に晒す。折角ラーシュとオッドの喧嘩が終わったのに、あの子達が本気で動けばまた同じようなことになりかねない」
「二人を止めようともしなかったくせによく言うよ」
「止める必要はなかったからね。今ここにいるお前達以外、全ての血族はみんなあの二人の子でもあるから。だからあの戦争も二人の責任の範囲だよ」
アイリスの言葉に、私を抱くノエの腕の力がぐっと強くなった。
「じゃあ俺が今までアンタに言われて殺してきた奴らはどうなんだよ!? あいつらだってラーシュ達の子だろ!?」
「お前に始末させたのは、二人の責任の範囲から出てしまった子達だ。例えば中立を宣言したのに仲間割れの火種となろうしていた子達とか――まあ二人が死んでしまってからは、全員その対象になったけれど」
そこまで言うと、アイリスはふうと息を吐いた。「過ぎたことはどうでもいいんだよ」と小さく呟いて、暗い瞳をノエに向ける。
「過去のことより今の話をしよう――ノエ、お前はどうして私の言うことが聞けないのかな。今までどおり私として私のために動いていれば何も問題はなかったのに、なんで急にそれをやめたくなったんだろう」
問いかけられたノエには、もうさっきまでの苛立ちは感じられなかった。ふっと鼻で笑うように息を漏らして、静かに口を開く。
「……馬鹿らしくなったんすよ、自分も含めていつかアンタに消されるかもしれないだなんて考えながら生きるのが。直接アンタに逆らおうとしたわけじゃないのに、当然の疑問を持つことすらも許されないなんていつの時代だよってね」
「今に始まったことじゃないだろう? お前はずっと、それを受け入れてきたじゃないか」
言いながら、アイリスはゆっくりと首を傾げる。
「お前は私なのに、どうして急に人間みたいな行動をし始めた? どうして我欲のために、秩序に逆らおうとする?」
それは心底不思議だと言わんばかりの表情だった。けれどその顔を見ていると、どういうわけか身体が冷たくなっていくような気がする。
「人間と深く関わったせいでそうなったのかな? ――ほたるを自分で殺せば、元に戻る?」
アイリスの赤い瞳が紫色に染まった瞬間、ドンッと身体が前に押された。
強い力のせいで大きく飛ばされる。地面に倒れ込んだ後に振り返れば、右手を突き出したノエがそこで固まっていた。
そして少し長い前髪の隙間から見えたその瞳は、何故か彼の綺麗な青ではなくなっていて。
「ノエ……?」
呼んでも、ノエはぴくりともしなかった。
――耳の奥でノックの音がする。その扉を叩いたのは、少し前までぎこちない様子を見せていたノエで。
ノックの後に微かに聞こえたのは、低い、女の人のような声。
ノエが扉を開く。広い部屋、たくさんの本。その先に窓。
窓の前には、紫色の光に照らされた華奢な人型のシルエット。
ここはラミア様の部屋だ。ラミア様と、初めて会った日の記憶。
そう、思い出したのに。
窓の前にいたのは、知らない人だった。
この部屋の主であるラミア様よりも小柄で、長い髪は紫色の光を透かしたような色。
紫の瞳が私を射抜く。その瞬間、その人はラミア様になった。
「――何……これ……」
突然頭の中に浮かんできた光景に混乱する。そういえばあの日、私は一瞬自分の意識が飛んだのを確かに感じた。
あれは緊張のせいかと思っていたけれど、もしかして違ったんじゃないか――そう思いながら目の前のラミア様に視線を戻せば、そこにはもう彼女はいなかった。
代わりに立っていたのは、さっき見た光景の中にいた人。
真っ白の長い髪を風に遊ばせ、赤い宝石を嵌め込んだような瞳を持つ顔は薄く微笑んでいるのに、冷たい。身を包む白い衣服は、その人の性別を曖昧にしていた。華奢な身体に丸みはなく、けれど衣服から出ている首や腕が骨ばっているわけでもなく。思春期を迎える直前の少年のようにも見えるのに、色香の漂う大人の女性のようにも見える。顔立ちから判断しようにも、作り物のようにただただ美しいだけでどちらとも取れなかった。
けれど一番目を惹かれたのは、その白い肌から放たれているような、とても儚い雰囲気。
「お母、さん……――ッ!?」
自分の口から出た言葉にびくりと肩を揺らす。違う、この人はお母さんじゃない。見た目が全然違うじゃないか。
そう分かっているのに、この人の放つ空気は寂しさに泣くお母さんにとてもよく似ていた。泣いている時のお母さんと違って顔には笑みを浮かべ、表情だけでは寂しさなんて微塵も感じさせないのに。
この人は一体――。
「アイリス……?」
驚きを含んだスヴァインの声が私の疑問に答えを与える。
確認するようにノエを見れば、私の視線に気付いた彼は小さく首肯してみせた。
「でも……じゃあ、ラミア様は……?」
だってラミア様とアイリスは別人のはずだ。ラミア様だと思っていたこの人がアイリスなら、本物のラミア様はどこにいるの?
「本物のラミアはとうに死んでいるよ。ちょうどいいから借りていたんだ」
ラミア様とは全く違う声が私に答える。その声はあの日扉の外で聞いた声とよく似ていた。
なら、私が今までラミア様だと思っていたのは全てアイリスだったってこと? ――状況から考えるときっとそうなのだろう。本物のラミア様がもう死んでしまっているなら、私と会えるはずがない。
アイリスをラミア様だと思っていたのは私だけだろうか。いや、違う。ノエは知っていたみたいだけれど、少なくともスヴァインはラミア様がアイリスになったのを見て驚いていた。だから彼もまた、認識を歪められていたのだ。
だったら、他の人達は?
「ニックさん達はこのこと……」
「知るはずがないだろう? このノクステルナの子供達は全員、私をラミアだと思い込んでいるんだから」
「じゃあ、アレサさんも……?」
アレサさんはラミア様の実の娘だ。それなのに母親の死を知らず、全く違う人を母親だと思わされているということだろうか。
私の問いにアイリスは目を三日月のように細め、「勿論」と軽やかに頷いてみせた。
「ラミアのふりをするのはなかなか面白かった。あの子は考え方が私とまるで違うから、最初の頃はあの子になりきって何かするたびに、周りが違和感を抱くかどうかいつも楽しみでね。だから敢えて認識を歪めるのは最小限にしていたのだけれど、アレサですらはっきりと違うと確信が持てなかったくらいだから、私は相当上手くやったんだと思う」
そう語るアイリスの声は、本当に楽しいことを話すかのように弾んでいた。口にしている内容は周りを騙していたという話なのに、子供が好きな遊びについて語るような姿を見ていたら自分の頭が混乱していくのが分かる。けれどアイリスは気付かないのか、それとも全く気にならないのか、私に構うことなく言葉を続けた。
「ああ、全員と言ってしまうと少し違うか。スヴァインやラーシュ達には時々ラミアのふりをせずに会っていたし……あと、ノエだけはラミアが私だと知っていたから。この子は私がラミアとなってから唯一血族に引き入れた、私の代わりだからね」
だからノエはラミア様のところにいたのか――疑問にすらなっていなかった小さな違和感が、全て繋がっていく。
なんで教えてくれなかったんだろうと思ったけれど、そういえばノエは周りを騙しているとは言っても、一言もラミア様個人を騙しているとは言っていなかったと思い出した。
多分これも、言えないことだったんだろう。私がノエの手伝いとしてアイリスに認められた後だったら違ったのかもしれないけれど、そうじゃないのにラミア様の正体を漏らすのはきっと危険があったんだ。そうじゃなければ、さっきラミア様だと思って彼女に駆け寄ろうとした私を、あんなふうに止めはしないだろう。
色々な記憶が繋がってすっきりしているはずなのに、それを喜ぶことはできなかった。だってこの人がしていたのはそんな楽しいことじゃない。ただ自分の正体を隠すだけでなく、アレサさんや他のラミア様の子達の気持ちをないがしろにしたその行為は、お母さんに自分を夫だと思わせていたスヴァインと同じ許し難いもので。
それに――。
『この子は私がラミアとなってから唯一血族に引き入れた、私の代わりだからね』
ノエのことを指したこの言葉が、凄く嫌だと思った。
「ノエをそんなふうに言わないで」
私が睨みつければ、アイリスは小首を傾げた。
「本人も承知しているのに?」
「だとしても! 全員騙すような人にノエのことをそんなふうに言って欲しくない!」
「ノエは私だよ。自分のことをどう言おうが勝手だろう」
「ノエはノエだよ! そうやって一人ひとりのことちゃんと見ようとしないから、スヴァインが何のためにラーシュとオッドを殺したのかも分からないんじゃないの!?」
私の声が響く。ノエが小さく「ほたる……何言って……?」と不思議そうにする声が聞こえた。
「スヴァインが二人を殺したのは、あなたのため――ッ!?」
張り上げた声は、首への衝撃のせいで最後まで続けられなかった。
「ほたる!」
今度ははっきりと、ノエの焦るような声が聞こえる。なんでだろうと考えれば、私の首にはスヴァインの手がかけられていて。強い力でぎりぎりと締め付けられて、声を出すことも、息をすることすらもできない。
「よせ、ノエ」
「ッふざけんな!」
怒声に目だけをそちらに向ければ、アイリスの制止を無視してこちらに向かってくるノエの姿。
その姿を捉えた瞬間、首にかかる力が強くなる。それに気付いたと同時に身体が浮いて、宙に放り出されていた。
「投げんなよ……!」
驚いたようなノエの声が聞こえた直後、身体が何かにぶつかって止まった。咽せながら状況を確認すれば、私を支えているのは彼の胸だと分かった。
ああ、スヴァインに投げられたのか――状況を理解した時、アイリスが「それくらい知っているよ」と言うのが聞こえた。
「知ってるって……じゃあなんでその気持ちを分かってあげないの!? なんで殺そうとするの!?」
ノエに抱き留められたまま声を上げる。
スヴァインが自分のためにラーシュとオッドを殺したと知っていたのに、どうしてノエに彼を殺せと言うのだろう。しかもその事実を、ノエに言わないで――さっきのノエの不思議そうな声は、きっとそういうことだ。ノエにスヴァインを殺せと言うくせに、本当のことを教えていないんだ。
そう気付くと、更に怒りが増した。返事を求めるようにアイリスを睨みつけたけれど、私の問いに答えたのはアイリスではなかった。
「俺がそれを求めていないからだ」
どういうことか分からなくて、スヴァインの方に視線を向ける。
「ラーシュ達からアイリスを奪いたかったのも、アイリスの憂いを払いたかったのも、どちらも俺の望み。だが、それだけだ。アイリスに見返りは求めていない」
「見返りって……気持ちを分かってもらおうとするだけなのに?」
「見返りだろう、自分の都合でした行動を相手に認めてもらいたいという欲求は。頼まれたわけでもないのに、どうして見返りを期待する?」
「何それ……」
言っていることが分からない。
だってそれは当然の欲求じゃないの? 相手を思ってした行動をその人に認めてもらいたいと思うのは、普通のことじゃないの?
勿論認めろとその欲求を押し付けるのはおかしいことだって私にも分かる。でも相手のことが大事なら、その気持ちを相手に分かってもらいたいと思うのはそんなにおかしいことなのだろうか。
私が子供だから分からないの? みんなそれが普通なの?
「人間の尺度で私達を測ってはいけないよ、ほたる。――そしてノエ、お前もね」
スヴァインの言葉に繋げるようにアイリスが口を開く。その視線はもう、ノエを捉えていた。
「一体何を企んでいるのかな? スヴァインをおびき寄せたいだけならこんな騒ぎを起こす必要はなかったはずなのに。クラトス達を殺すためだとしても、ここまで後始末が面倒な方法じゃなくてもお前ならもっと上手くやれただろう? そうしたら私だってわざわざ様子を見に来ようとは思わなかったのだけれど。……もしかして、お前は――」
アイリスがにっこりと口角を上げる。
「――私を殺したいのかな?」
ぞっと、背筋に怖気が走った。ノエは表情を強張らせていて、私を支える腕に力が込もる。
「……別に今殺したいわけじゃないっすよ、この状況は事故みたいなもんなんで。――でもまァ、近いうちにアンタを殺さなきゃいけないとは思ってましたけどね」
「ノエ……!?」
そんなの聞いていない、と思わずノエの顔を見上げる。アイリスを殺す用意をするのは保険だとさっき言ったばかりなのに、今の言葉はそれと意味が変わってしまう。
どういうことか教えて欲しかったけれど、ノエの視線はずっとアイリスに向けられたままだった。
「なんで私を殺したいんだろうね。お前には憎まれるようなことをした覚えはないのだけれど」
「そうっすね。ただ、アンタはいつか俺やほたるを殺すでしょ? 今すぐじゃなかったとしても、俺らがアンタの意に沿わない行動を取ったら」
「当たり前だろう。心配するということは、そんな予定があるのかな?」
「まァ、アレサやクラトス達を殺す気はもうないっすね」
「……確かにそれは良くないね」
そう言って、アイリスは顔にかかった髪を払った。一瞬手で隠れた瞳は、次の瞬間にはほんの少しだけ薄暗くなっていて。
それなのに顔は笑ったままだから、目の印象と表情が合わなくて酷く不気味だった。
「ノストノクスは私が作ったわけではないけれど、法を司るものに対して敵対心を抱くあの子達は血族を危険に晒す。折角ラーシュとオッドの喧嘩が終わったのに、あの子達が本気で動けばまた同じようなことになりかねない」
「二人を止めようともしなかったくせによく言うよ」
「止める必要はなかったからね。今ここにいるお前達以外、全ての血族はみんなあの二人の子でもあるから。だからあの戦争も二人の責任の範囲だよ」
アイリスの言葉に、私を抱くノエの腕の力がぐっと強くなった。
「じゃあ俺が今までアンタに言われて殺してきた奴らはどうなんだよ!? あいつらだってラーシュ達の子だろ!?」
「お前に始末させたのは、二人の責任の範囲から出てしまった子達だ。例えば中立を宣言したのに仲間割れの火種となろうしていた子達とか――まあ二人が死んでしまってからは、全員その対象になったけれど」
そこまで言うと、アイリスはふうと息を吐いた。「過ぎたことはどうでもいいんだよ」と小さく呟いて、暗い瞳をノエに向ける。
「過去のことより今の話をしよう――ノエ、お前はどうして私の言うことが聞けないのかな。今までどおり私として私のために動いていれば何も問題はなかったのに、なんで急にそれをやめたくなったんだろう」
問いかけられたノエには、もうさっきまでの苛立ちは感じられなかった。ふっと鼻で笑うように息を漏らして、静かに口を開く。
「……馬鹿らしくなったんすよ、自分も含めていつかアンタに消されるかもしれないだなんて考えながら生きるのが。直接アンタに逆らおうとしたわけじゃないのに、当然の疑問を持つことすらも許されないなんていつの時代だよってね」
「今に始まったことじゃないだろう? お前はずっと、それを受け入れてきたじゃないか」
言いながら、アイリスはゆっくりと首を傾げる。
「お前は私なのに、どうして急に人間みたいな行動をし始めた? どうして我欲のために、秩序に逆らおうとする?」
それは心底不思議だと言わんばかりの表情だった。けれどその顔を見ていると、どういうわけか身体が冷たくなっていくような気がする。
「人間と深く関わったせいでそうなったのかな? ――ほたるを自分で殺せば、元に戻る?」
アイリスの赤い瞳が紫色に染まった瞬間、ドンッと身体が前に押された。
強い力のせいで大きく飛ばされる。地面に倒れ込んだ後に振り返れば、右手を突き出したノエがそこで固まっていた。
そして少し長い前髪の隙間から見えたその瞳は、何故か彼の綺麗な青ではなくなっていて。
「ノエ……?」
呼んでも、ノエはぴくりともしなかった。
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