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新菜いに/丹㑚仁戻

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最終章 転がり落ちていく先は

【第十四話 選択】14-2 動け……!

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「キョウ!」

 レイフに投げられたキョウの身体は、鴨居に引っかかった障子戸の残骸や雨戸の端を巻き込みながら部屋の外へと飛んでいった。
 雨音を遮るように、ドンッと地面を殴るような着地音が響く。受け身すら取れていなかったキョウはそのまま動かなくなって、微かに上下する胸だけが彼の生存を私に教えた。

「やだ……キョウ、起きて! キョウ――うぁッ!?」

 痛みに構わずお腹に刺さった刀ごと起き上がろうとすれば、背中を固い何かによって乱暴に押さえつけられた。「勝手に動かないでね」、その声でレイフの義足に踏み付けられたのだと悟って、私は奥歯を噛み締めながら彼を見上げた。

「そんな顔されても困るな。ところで流石にあのままじゃあの子死んじゃいそうだね。生きているうちに痛めつけておいた方が怪我もはっきり残るからそうしたいんだけど……ちょっと彼連れてくるから動かないで待っててくれる?」
「もうやめて……キョウは人間なの! これ以上やったら本当に死んじゃう……!」
「あそこに放置しても死ぬと思うよ。何箇所か骨は折れてるはずだし、そうでなくたってこの季節に雨に打たれ続ければ――ッ!?」

 レイフが言葉を切った理由はすぐに分かった。気配が一つ増えたからだ。
 外から来たそれはキョウの前で真っ黒な霧の塊みたいに集まって、見慣れた姿を形作る――壱政様だ。こっちにはいるはずのない壱政様が、キョウを観察するように彼の前でしゃがんでいた。

 なんで。どうして。
 疑問は浮かぶけれど今はそんなことどうでもいい。壱政様が来たならキョウは助かる。今すぐ彼を病院に連れていけば間に合うかもしれない。

「壱政様! キョウを助けて……!」

 私の声は聞こえているはずなのに、壱政様はその場から動かなかった。こちらに意識を向けることすらせず、キョウの傍でしゃがんだまま彼を見ているだけ。
 私からは背中しか見えないからどんな表情をしているのか分からない。雨音が邪魔でその息遣いも聞こえないから、彼の心情を推し量ることすらできない。
 
「――情けない」

 少しの間キョウの傍にいた壱政様は、そう呆れたように言うと静かに立ち上がった。雨に濡れた緑色の髪は黒に近く、束になったそれを鬱陶しそうにかき上げながら身体をこちらに向ける。

 顕になった目元には機嫌悪そうに力が入っていた。「キョウは……!」、私が尋ねると壱政様は咎めるように私を一瞥する。その目線の示すものが分からなくて、でも黙れと言われたことは分かって。私が次の言葉を探すより先に、壱政様はレイフへと視線を移していた。

「外から来たね。もしかして帰ったふりしてた?」

 レイフの問いに、そういえば、と私の頭の中にも同じ疑問が浮かんだ。
 最近は目的地がこの屋敷だったから、いつも壱政様は屋敷内の通路を使って外界とノクステルナを行き来していた。だけど今、彼は外からやってきたのだ。執行官であれば屋敷の通路を使わずとも行き来は可能だから別におかしなことじゃない。
 だけど彼はしばらくノクステルナから戻ってこれないと言っていたはずだ。それなのにここにいるということは、レイフの言うとおり――私が答えを見つけた時、壱政様が「そんなところだ」とそれを肯定した。

「しかしお前は案外気が短いんだな、レイフ。数日中に仕掛けてくるよう誘ったつもりだったが、まさか俺が離れてすぐとは……念の為様子を見に来たらだ」

 壱政様が口元に笑みを浮かべる。だけど目元は鋭いまま。よく見るその顔はいつもよりも数段冷たくて、自分に向けられたものでないと分かるのに身体が強張る気がした。

「やっぱり勘を信じて正解だったな。そんなにはっきりと僕のこと疑ってたんだ?」
「各地に従属種を増やして執行官の人手を割かせていただろ? 外界でもノクステルナでも、それぞれの土地の状況に完璧に合わせた増やし方だった。お前の昔の仕事の仕方と同じだ」
「なるほど、もっと雑にやればよかったのかな。……ってことはもしかして、ここで一葉をハンターと関わらせていたのは目くらまし?」
「ちょうどお前を観察する口実にもなるしな。馬鹿な連中がノクステルナからこちらに渡る手引きもしていたんだろうが、流石にこの屋敷の設備は使わなかったか」

 壱政様はそんなに前からレイフを疑っていたのか――二人の会話が全て理解できたわけではないけれど、私の役割はハンターを黙らせることだけではなかったのだということは分かった。
 私という執行官が近くにいれば、それだけでレイフの気を引ける。そうすれば調査を続ける壱政様達の動きを誤魔化せる。レイフが勘を信じなければ、今も彼は自分が疑われているとは思っていなかったのかもしれない。

 これじゃあ私に詳細を教えられないわけだ。今にして思えば、昨日の男が主犯かもしれないと言ったのも嘘だったのだろう。私が少しでも怪しまれてしまえばレイフに操られて情報を全部取られてしまうから、彼に知られたくないことを私に言えるはずがない。
 だからと言ってレイフに操られない序列の執行官をここに送り込めばそれこそ怪しまれる。私の動きのせいで当初の予定とは変わったかもしれないけれど、私をここに滞在させるだけでも意味があったのだろう。

「それにしても、ここまで急に動くとはお前らしくないな。昨日の男と面識でもあるのか?」
「……こんなところ見られたらもう隠しようもないね。そうだよ、面識ってほどじゃないけど聞く人が聞けば僕だと分かる情報は持ってると思う。例えば君とかね、壱政。僕を疑っている人なら、簡単に僕と結びつけるはずだ」
「それでこんな派手にこの二人に手を出したってことは、守ったふりでもするつもりだったか」
「流石。じゃあ僕が今どうしたいか分かる?」

 ハンターに襲われた私とキョウを守ろうとしたけれど、守りきれず自身も深手を負った――そのレイフの筋書きはあくまで全てが終わった後に他の人に発見される必要がある。だけどその前に壱政様が来てしまった今、彼の目論見はもう成立しない。
 なら今のレイフにできることは一つしかない。

「俺を殺したいんだろ? 一葉を盾にでもするつもりか?」
「まあね。いくら君でもこの子は見捨てられないだろ」
「考えが甘いな、レイフ。――……自分の子供を殺すのは初めてじゃない」

 言い切ると同時に壱政様が地面を蹴った。次の瞬間には私達の目の前、既に抜かれた刀身がレイフに向かう。

「借りるよ」
「ぅぐッ!?」

 痛みに襲われたのは私のお腹。直後に響いた金属音が、レイフが私の刀を引き抜いて壱政様の斬撃を受けたのだと物語っていた。

 カチャ、小さな音が鳴る。私が音の出どころを見つける前に、レイフの左膝が壱政様を狙った。

「なッ……!?」

 零れたのは私の声だった。突然首を後ろに引かれたせいだ。ぐんと切り替わる視界の中で見えたのは、レイフの蹴りを後ろに跳んで避けた壱政様。

 一体何が起こったの? その答えは考える前に分かった。

 身体が浮いている。首への力は襟を後ろに引っ張られたせい。
 視界の端には壱政様の刀の鞘があった。……ああ、これで襟を引っ掛けられたんだ。この人、自分が避けるついでに私のことまで投げやがった――浮かんだ文句は三度の銃声とカンカンッという甲高い音が掻き消した。

 いつの間にかレイフの手には銃があって、その銃口は壱政様の方を――彼の後ろへと飛ばされた私の方を向いていた。
 その銃はさっきキョウが落としたもの。恐らくレイフが膝蹴りの時に蹴り上げていて、それに気付いた壱政様は私が狙われないようにしてくれたのだ。じゃなきゃ彼はとっくにそこから動いているだろう。その場に留まっているのは、レイフの放った銃弾を斬り落としたから。

 そう理解した直後、私の身体は畳の上にドサリと落ちた。痛いけれどこれくらいなら大丈夫。問題はお腹の怪我とそこから流れる血だ。死ぬことはないだろうけれど、元々の怪我だって治っていなかったから少し前に予想したとおり私はその場で起き上がることさえできなかった。

「壱政の嘘吐き。一葉が死んでも構わないみたいなこと言っといて、思いっきり庇ってるじゃないか」
「邪魔だから退けただけだ」
「そんなこと言って……一発はわざと受けたんだろ? 斬っても破片が一葉に当たりそうだったから」

 壱政様の背中のせいで、私の位置からはレイフの顔が見えない。だから彼が何を指して言っているか分からなかったけれど、壱政様の左腕からぽたりと落ちた雫が私に状況を理解させた。

「壱政様……それ……! ッキョウの銃は駄目です! 弾に何か仕掛けがあるから……!!」
「だろうな」

 事も無げに言った壱政様は、右手に刀を持ったままその指で左の肩あたりに触れた。グチャ、と湿った小さな音が鼓膜を撫でる。でもその音は数秒で止んで、壱政様は肩の傷から取り出したそれを無造作に投げ捨てた。

「何の毒だと思う?」
「さあ? 弾にまだ残ってたから大したことないだろう。そこの奴だって生きてるしな」

 壱政様が示したのは最初にキョウが撃った男だった。身体が無事なことから生きているのは確かだろう。だけど彼の苦しむ様を見た私には、大したことないという壱政様の言葉に同意することはできなかった。

「そうは言うけどさ、効いてるのは見た目で分かるよ? その左腕、使い物になるの?」

 長袖の服から出た壱政様の左手首より下は、最初の男のように赤黒く変色していた。よく見ればより肩に近い首にも同じような症状が出ている。色の濃さも範囲も倒れた男に比べたらマシだけど、身体に異常が出ていることは考えるまでもなかった。

「お前の右足と似たようなもんだ、気にするな」
「だったらその腕斬り落として欲しいなぁ。こっちは膝下がないんだから」
「贅沢言うな」

 壱政様が嘲るように言えば、今度はレイフが先に動き出した。
 銃弾を一発放って壱政様に避けさせる。避けた壱政様はそのままレイフの方へと飛び込み、下から刀で斬り上げた。

 だけどその刃は簡単に止められた。まるでそう来ると分かっていたと言わんばかりにレイフが私の刀で待ち構えていたから。
 すぐに二人の刀は離れたけれど、また互いにそれを振るって受け止め合う。そうして何度も何度も斬り合っているのに、どちらの刃も相手に届かない。

 互角――ではない。明らかに壱政様の方が剣技は上だ。たとえ片腕が使えなくても確かに彼が押す瞬間がある。でもそのたびにレイフが銃を使うから、あと少しというところで壱政様は体勢を崩されてしまうのだ。

「流石に二発目を食らうのは怖そうだね」

 レイフが笑ったのは、壱政様が大きく後退したからだ。
 「ハッ……」、壱政様が小さく息を吐く。笑ったようにも聞こえるけれど、今のは多分違う。彼の息が上がっているのだ。
 でも壱政様がこんなに早く息を切らせるとは思えなかった。だから考えられる理由は一つだけ――先に受けた銃弾のせいだ。いつもと同じように動いているように見えていたのに、やっぱりその毒が身体に回ってしまっている。

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる……当てられないお前はなんだ?」

 壱政様が仕掛ける。一太刀目はレイフに避けられて、続けざまにもう一太刀を大きく振るう。
 ――だけど振り切る直前、壱政様の身体がぐらりと揺れた。まるで限界が来たとでも言わんばかりに力を失って、よろけた身体を止めるために乱暴に左足を前へと踏み出す。
 その隙を、レイフが狙わないはずがない。

 銃声が轟く。……それなのに、狙われたはずの壱政様がその場に倒れることはなかった。

「……斬り落として欲しいのは君の腕だったんだけど」

 ぼとり、重い音を立ててレイフの左腕が畳に落ちた。直前まで下を向いていたはずの壱政様の刀の切っ先は、今は右上の方で振り切られたような状態になっている。
 刀を下ろしながら壱政様はレイフの腕を拾うと、銃を持ったままのそれを適当な動作で外へと放り投げた。

「贅沢を言うなって言っただろ。なんで俺がお前のために自分の腕を斬り落とさなきゃならん」
「本当そういうところ……。全く、いくら万全じゃなくても君と小細工なしで斬り合いなんてしたくないんだけど」
「安心しろ。すぐに終わる」

 先に斬り込んだのはどちらだったのか。ほぼ同時に振られた刀が再び金属音を奏で始めた。
 だけど、これももう長くは続かないだろう。壱政様の動きはどんどん鈍く、けれどその呼吸はより速くなっていった。レイフは片腕を失ったけれど、あれくらいでは何も変わらない。

「動け……!」

 このままじゃ壱政様がやられてしまう――脳裏に浮かんだ少し先の光景に、私は力の入らない両腕を畳に突っ張ってどうにか上半身を持ち上げた。
 大した重みも支えていないはずなのに、笑ってしまうくらい腕が震えている。立ち上がろうと脚を動かせば、バランスが崩れて畳へと突っ伏した。

 私が動かないといけないのに、どうしてこんな時に限ってまともに動けないのだろう――悔しさに視界が滲む。
 負けたらきっと壱政様の命はない。私もそのまま殺される。
 キョウだって同じだ。今はまだ生きているかもしれないけれど、ここでレイフを倒さなきゃ私達は全員死ぬしかない。
 それなのに私の身体は言うことを聞いてくれない。身体中に力を込めながらも前方に視線を戻せば、壁の方に追い込まれている壱政様が見えてゾッと背筋に寒気が走った。

「壱政様!」

 レイフが刀を振り下ろす。その刃の向かう先にいる壱政様は少し下を向いていて、全く動く様子がない。

「言っただろ――」

 その声に重ねるように、銃声が空気を揺らした。壱政様の口が、ゆっくりと孤を描く。

「――すぐに終わる」

 そう壱政様が言い終わった時、レイフの手から刀が落ちた。
 振り切られなかった刀身に新たな血はついていない。壱政様が何かした様子もない。
 それなのにレイフは一歩、二歩と後ろに下がって、お腹のあたりを押さえながら後ろを向いた。

「……ああ……忘れてた」

 状況の把握できない私もまた彼の視線を追う。その先は未だ雨の降る外。
 そこには真っ暗闇の中、銃をレイフに向けて構えるキョウの姿があった。

「キョウ、無事で……!!」

 私の声にキョウがこちらへと顔を向けた。ゆるく細められた目は優しくて、私を安心させてくれようとしているのだと分かる。
 駆け寄りたいのに、身体が動かない。私がじれったさを感じている間にもキョウはゆっくりと左腕を下ろしていって、私に向けていた視線を壱政様達の方へと戻していた。

「お前なら俺にやられるより、見下している人間にやられた方が屈辱を感じるだろう?」

 壱政様がおかしそうに笑う。さっきまで上がっていたはずの呼吸はすっかり元通りで、覚束ないように見えた足元はそれが見間違いだったと思えるくらいしっかりとしていた。

「まさか全部わざと……? はは……どおりで君相手にうまく行き過ぎだと――ッ!?」

 レイフの言葉を遮ったのは壱政様だった。彼のお腹を、壱政様が刀で刺したから。

「ッ……普通に動けるんじゃん……本当、嘘吐き……」

 壱政様が刀を引き抜けば、レイフはその場に崩れ落ちた。はだけた着物から覗く皮膚は赤黒く染まり、真っ黒になった血管が浮き出ている。レイフのお腹からはどくどくと血がたくさん流れていて、あっという間に畳を真っ赤に染めていった。

「終わったのか……?」

 雨音の混じってキョウの声が聞こえる。彼はこちらに向かってふらふらと歩き出したけれど、数歩歩いたところでがくんとよろめいた。

「ッキョウ!!」

 倒れたキョウを支えたのは壱政様だった。私にできるのは這うようにしてそこに近付くことだけ。どうにか雨の降り込むところまでやってくると、近くで見たキョウの顔色の悪さに愕然とした。

「死んじゃうの……?」

 声が震える。目元に熱が集まる。いつもだったら「勝手に殺すな」だとか、「ふざけるな」とか言われそうなのに、意識を失ったキョウの口が動く様子はない。

「まだ生きてる。一葉、どうする?」

 淡々とした声で壱政様が問いかけてくる。どうする、だなんて。この場で思いつく意味は一つしかない。
 今のキョウはかつての私と同じだ。傷だらけになって、死にかけて――生きるためには人間を捨てなければならない。瀕死の重症でも、まだ息があるうちなら吸血鬼になることで助かるかもしれない。

 でも、それも賭けだった。吸血鬼になるためには時間がかかる。キョウがあとどれくらい生きられるかにもよるけど、十分な時間を確保できなきゃ吸血鬼化は高確率で失敗し、彼は従属種になってしまうだろう。
 けれど何もしなければ、きっと彼は助からない。壱政様が聞いてくるということはそういうことだ。病院に運んだところで助かる見込みがないから、私にどうするかと聞いているんだ。

 だけどそんなこと、私が選んでいいの? キョウの人生なのに。彼はこっち側には連れてこられない人なのに。
 私のした選択が、キョウをこの先ずっと苦しめるかもしれない――それを彼に強いる覚悟が、受け止める覚悟が、私にはあるのだろうか。

「早く決めろ。手遅れになるぞ」

 壱政様が私を急かす。手遅れになるという言葉が、重くのしかかる。

「私は――――」
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