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第三章 虚実
〈一〉見えない鳴き声
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真夏の東京都心はまるで地獄だ。ジリジリと凶暴な日差しが肌を焼くし、日陰に入っても全身を包む熱は変わらない。頻繁に吹くビル風は完全に温風で、これでどうやって身体を冷やせと言うのだろう。ここ最近バイトを掛け持ちしていたせいで久しぶりに丸一日空いたのに、どうして折角の休みにこんなところを歩かなければならないのかと自問自答したくなった。
幸いなのは、この暑さをもたらしている密集したビル群の中には建物内を通り抜けられるものがあることだ。そこはまさしく天国で、じっとりと汗ばんだ身体を冷やしてくれる。そうやって休み休み駅から少しずつ距離を伸ばせば、最近来た覚えのある大型のセレクトショップに辿り着いた。
「どこ見たんだっけ……」
キョロキョロとあたりを見渡して、僕は割と新しいはずの記憶を手繰り寄せた。
ここでは――そうだ、欲しい物があって来たわけじゃない。あの日僕はバイト先のヘルプで自宅から遠いこのあたりの店舗に来た。その時に時間が読めていなくて早く着きすぎてしまったから、近くにあったこの店で商品を見るフリをしながら出勤まで時間を潰したはずだ。
実際に来たことで曖昧だった記憶が蘇ってくる。これは期待できるぞと思いながら、そのまま店内を歩き続けた。
僕は今、あの日の自分の行動を再現している。何故なら例の倉庫にいた理由が全く思い出せないからだ。それどころかあの日の記憶自体、あまりはっきりしていない。だからせめて自分がいつ気絶させられたのかを知るために、どこまでの記憶ならあるのかこうして探っているのだ。
それくらいしか、僕にはできることがなかった。
高校時代の僕が、東海林卓の妹である東海林美亜の死に関わっている――そんな妄想を未だに信じていそうな奴の名前なんて分からないから手の出しようがない。第一これをどうにかしなきゃいけないと思ったのは、東海林卓殺害の犯人にされないためだ。だったらそんな昔の不確かなことよりも、まずは東海林を殺していないと証明することが先決だった。
でも、それが難しかった。どれだけ記憶を辿ってもあの夜のことが思い出せない。あの場所にいた理由も、身体中を怪我していた理由も分からない。全身の打撲は真犯人にやられたのか、それとも全く関係のない奴にやられたのかすらも見当がつかなかった。そんな分からないことだらけでは、自分がやっていない証拠など探しようもない。
真犯人を探し、更に自分の無実を証明すること――言葉にすると簡単なのに、僕は早速躓いてしまった。だから僕は藁にもすがる思いで自分の失くした記憶を探し始めたのだ。
「――バイトの後はどうしたんだろ……」
店の入り口で靴を履き直しながら、僕は記憶を辿った。
あの日の僕はセレクトショップで時間を潰した後、無事バイトに行っていたようだ。最初は思い出せなかったけれど、忘れ物を取りに行くふりをしてこうして店に来たら思い出すことができたし、他の店員からの確認も取れた。
これはいい兆しだ。頭で考えるだけでは思い出せなくても、その場所に行けば記憶を取り戻すことができる。
ただ問題なのは、実際に行動に移してからでないと思い出せないということだ。しかも闇雲に行動すればいいというわけではなく、その行動があの日のものと一致していなければ僕の記憶は蘇らないらしい。なんて厄介なんだと思ったが、記憶を刺激するという意味では仕方がないことなのかもしれない。
だからこそ今、僕は頭を悩ませていた。いつバイトに行ったかはシフト表やタイムカードを見れば明らかだけど、それ以外の自分の行動はどこにも記録されていない。つまりそこは自力で考えなければならないからだ。
あの日の僕が終電に間に合う時間にタイムカードを切っていたのはさっき確認した。普段とは違う店舗に臨時で出勤しただけだから何もおかしいことはない。店からしたら一番混む時間帯にだけ人手が足りればいいし、余計な交通費をかけないためには僕のように終電を逃したら徒歩では帰れない人間にはさっさと帰って欲しいのだ。
だから僕は店の望み通り、身支度を済ませた後すぐに帰ろうとしただろう。それなのにどういうわけか、その時の記憶がなかなか蘇らなかった。
店を出るまでの行動が違うのだろうかと思ったが、それはない。この店舗は土足厳禁で、客も店員も入店時には店の入り口で靴を脱ぐ。つまり帰る時には靴を履かなければならないから、あの日も僕はこうしてここで歩くようにしながら足を靴の奥まで突っ込んだはずだ。
「……いや、違う?」
ふと、違和感が胸を過ぎる。〝違う〟というのは、多分今のこの行動に対してだ。
でもそれだと意味が分からない。今の僕は歩きながら靴を履いているだけで、何もおかしいこなんてしていないのだ。
もしかしたら靴の履き方が違うのかと思ったけれど、そういうわけでもないだろう。最近いつも履いているこの青いスニーカーは、紐を少し緩めに結んでいる。だから座って履くなんて有り得ないし、家にもその必要のある靴はない。
「気のせいか……」
もしかしたら他の何かに対する違和感かもしれないと思ってしばらく考えてみたものの、その正体は分かりそうにもなかったから思考を打ち切った。
どこかもやもやとしたものを感じたまま店を出て、来た道を戻って行く。本当は暑さから逃れるためにまたどこかの店で涼みたかったけれど、今はやらないほうがいいだろう。
あの日の僕は終電に乗るために寄り道などしなかったはずだ。そもそも時間帯からして居酒屋以外の大抵の店は閉まっている。コンビニは開いているが、家の方にもあるのだからわざわざ終電を逃す危険を冒してまで行こうと思うわけがない。
でもそれはあくまで夜の話だ。真夏の日中に同じ行動を取るのは思っていたよりも辛くて、さっき感じたもやもやがどうでもよくなるくらい暑さで気が滅入ってくる。せめて冷たい飲み物くらい買っておけばよかったと思いながら、僕はジリジリと肌を焼く熱から逃れるように速歩きで駅へと向かった。
「――おい、アンタ!」
もう駅が見えそうというところで、急に前から来た男に声を掛けられた。あまりに突然だったから誰か別の人に言っているんだろうと思ったのに、僕の方へと駆け寄って来た男はそのまま僕の両肩を勢い良く掴んだ。
「アンタ、この前もここ通っただろ!?」
「この前……? ていうかなんなんですか……?」
男は凄い剣幕だったものの、恐怖をそれほど感じなかったのは相手が縋るような目をしていたからだろうか。だから僕は彼にも事情があるのかもしれないと思ったが、言っていることが抽象的すぎてどう反応したらいいか分からなかった。
「ああ、そうだよな……。二十日……って言っても日付変わったばっかだったから十九日の方がいいか? ――とにかく! 十九日の夜遅くにここらへんを通ったんじゃないか?」
「十九日……」
今日は八月二十三日――四日前のその日付は、僕が今まさに再現しようとしていたあの日のことだ。
そうと気付いた瞬間、僕の中には喜びと緊張が同時に押し寄せた。あの日のことが何か分かるかもしれない。でもそれは僕にとって不都合なことなのかもしれない――全く思い出せないが故の恐怖が、喜ぼうとする僕を引き止める。相手の様子からどちらなのか探ろうとしたが、見覚えのない彼の顔からは何も読み取れなかった。
「確かにその日はバイトがあったので、日付が変わった頃にここを通っていると思います。それが何か?」
「ならこいつを知らないか!?」
逃げ道を残しながら僕が当時ここにいたことを肯定すると、男は期待を滲ませた表情で僕の目の前にスマートフォンの画面を突き出してきた。そこに写っていたのは見知った顔――最近散々見た、東海林卓その人だった。
ああ、この人はあの日の僕と何か関係がある――ドクドクと心臓が早鐘を打つ。でも、まだだ。まだどういう繋がりか分からない。
僕は必死に冷静なふりをすると、ふるふると首を横に振った。
「すみませんが……この人がどうしました?」
東海林の顔はニュースでもちらほらと流れていたはずだが、それだけでは普通顔を覚えられないだろう。僕は彼のSNSを散々見たから覚えているが、この男がそれを知られていい相手なのかは分からない。
男は僕の答えにあからさまに落胆したような顔をすると、冷静さを取り戻したのか、「……急にすみませんでした」と慇懃な態度で頭を下げた。
「俺は里中っていいます。それでこいつは俺の友達で、実はこの間死んじゃったんすけど……最後に会った時、あんたによく似た人を見ていた気がして……」
「僕に? どうしてですか?」
「さあ……。でも共通の友達に聞いたら、もしかしたら恨んでる相手かもって。なんかあいつ昔色々あったみたいで、その時捕まらなかった犯人を今も恨んでるとかなんとか……でもその様子じゃ心当たりはないんすよね?」
「ええ、まあ……」
里中と名乗った男はよく分かっていないようだったが、僕は思い当たることがあって頭が急激に冷えていくのを感じていた。
東海林卓が恨んでいる相手――それはもしかして僕のことなんじゃないか。〝当時捕まらなかった犯人〟だなんて、妹の殺人容疑をかけられた僕の他にいるとは思えない。東海林が僕を恨んでいたのであれば僕を――僕によく似た人を目で追うというのも理解できてしまう。
「あの……そのこと、警察には……?」
言ってから不自然な発言だったと気付いたが、里中はあまり気にならなかったらしい。「ああ」と思い出したような顔をすると、困ったように眉間に皺を寄せた。
「まだ言ってないんすよ。あの時俺も酔ってたから、前に警察と話した時はすっかり忘れてたし……でも後からよくよく考えてみればそんなことがあったなって。つっても酔っ払いの記憶なんて当てにならないから、こうやってあの時見た人を探して本当にあったことなのか確認してからにしようと思ってたんすけど」
「あんたがいるってことは、実際にあったことだったみたいです」と、里中は申し訳なさそうに苦笑を零した。
「驚かせちゃいましたよね。すんません、本当」
「いえ……」
自分の知りたいことが分かったからか、里中は再び頭を下げるとくるりと僕に背を向けて歩き出した。
僕はといえば、その場に立ち止まったまま。もうここに留まる理由なんてないのだからさっさと駅に向かえばいいのに、僕の目は彼の背中に縫い付けられていた。
里中をこのまま行かせていいのだろうか。記憶の確認が取れたということは、警察に僕のことを話すつもりだろう。僕の名前は聞いてこなかったけれど、もしかしたら警察は僕のことを知りたがるかもしれない。その時、彼はきっと僕の容姿を事細かに話すはずだ。
「あの……!」
思わず声をかけると、里中は不思議そうに振り返った。
§ § §
にゃあ、と猫の鳴き声がした。どこからしたのだろうと思ってあたりを見渡したけれど、こんな都会のど真ん中に野良猫なんているはずがない。
空耳だったのか――僕はすっかり汗だくになってしまった額をTシャツの肩口で拭いながら、涼しい電車内を求めて駅へと急いだ。
そういえばあの日もこんな気持ちだった気がする。深夜だというのに蒸し暑くて、バイト先の強すぎるエアコンで冷え切っていたはずの身体はどんどん体温を上げていった。
そうして帰り道の記憶も徐々に取り戻していったけれど、駅に着いた時には落胆で溜息を吐きたくなった。
僕はあの日、やはりバイトの後に電車に乗って帰っていたのだ。となると、こうしてバイト先まで行ってきたのはまるっきり無駄ということになる。確かに里中という東海林卓を知る人物と出会えたが、それだけだ。何も新しい情報なんて得られなかった。だからこの後もこういうことが続くのではと思えて、どんどん気持ちが暗くなっていった。
だって、もし僕が自分の足であの倉庫に向かっていたとしたら――倉庫内にはカメラのようなものはなかったから、僕のあそこでの行動を証明するものはない。それなのに倉庫自体には自分の意思で向かっていたという事実があれば、僕の立場はより一層悪くなるだろう。
胃が捩じ切れそうな気持ちで電車に揺られていると、あっという間に自宅最寄り駅に到着した。とぼとぼと電車を降りて改札を出れば、見慣れた街並みが目に飛び込んでくる。思い出した記憶は――ない。
「……行くか」
あの日の記憶が戻らないということは、気絶したタイミングに近付いているということかもしれない。単に思い出すのが遅れているだけということもあるだろうけれど、そう思っていた方が気が楽だった。
意を決して、僕は家に続く道に背を向けて歩き出した。駅を基準にした時、僕の家とあの倉庫は反対方向にあるからだ。
このまま真っ直ぐ自宅に帰ってもいいが、それだと完全に今日のこの検証は無駄に終わる気がした。大体、自宅と駅までの道で何かあったならとっくに思い出しているはず。それがないのだから、あの日の僕はこちらの道を行ったと考えた方がいいだろう。
以前よく行った居酒屋を通り過ぎて、駅からどんどん遠ざかっていく。けれど一向に記憶は戻らなくて、僕は途中で足を止めた。
これ以上は先はあの倉庫に近すぎる。犯人が現場に戻ってくるかもしれないと考えて警察がこのあたりを見張っていてもおかしくないのだ。そんな中既に名前の挙がっている僕がのこのこと姿を現してしまえば、問答無用で犯人扱いされてしまうかもしれない。そう考えると、行動で記憶を取り戻そうとするのはここで諦めた方がいいのだろう。
結局何も得られないまま、僕の一日は終わってしまった。
幸いなのは、この暑さをもたらしている密集したビル群の中には建物内を通り抜けられるものがあることだ。そこはまさしく天国で、じっとりと汗ばんだ身体を冷やしてくれる。そうやって休み休み駅から少しずつ距離を伸ばせば、最近来た覚えのある大型のセレクトショップに辿り着いた。
「どこ見たんだっけ……」
キョロキョロとあたりを見渡して、僕は割と新しいはずの記憶を手繰り寄せた。
ここでは――そうだ、欲しい物があって来たわけじゃない。あの日僕はバイト先のヘルプで自宅から遠いこのあたりの店舗に来た。その時に時間が読めていなくて早く着きすぎてしまったから、近くにあったこの店で商品を見るフリをしながら出勤まで時間を潰したはずだ。
実際に来たことで曖昧だった記憶が蘇ってくる。これは期待できるぞと思いながら、そのまま店内を歩き続けた。
僕は今、あの日の自分の行動を再現している。何故なら例の倉庫にいた理由が全く思い出せないからだ。それどころかあの日の記憶自体、あまりはっきりしていない。だからせめて自分がいつ気絶させられたのかを知るために、どこまでの記憶ならあるのかこうして探っているのだ。
それくらいしか、僕にはできることがなかった。
高校時代の僕が、東海林卓の妹である東海林美亜の死に関わっている――そんな妄想を未だに信じていそうな奴の名前なんて分からないから手の出しようがない。第一これをどうにかしなきゃいけないと思ったのは、東海林卓殺害の犯人にされないためだ。だったらそんな昔の不確かなことよりも、まずは東海林を殺していないと証明することが先決だった。
でも、それが難しかった。どれだけ記憶を辿ってもあの夜のことが思い出せない。あの場所にいた理由も、身体中を怪我していた理由も分からない。全身の打撲は真犯人にやられたのか、それとも全く関係のない奴にやられたのかすらも見当がつかなかった。そんな分からないことだらけでは、自分がやっていない証拠など探しようもない。
真犯人を探し、更に自分の無実を証明すること――言葉にすると簡単なのに、僕は早速躓いてしまった。だから僕は藁にもすがる思いで自分の失くした記憶を探し始めたのだ。
「――バイトの後はどうしたんだろ……」
店の入り口で靴を履き直しながら、僕は記憶を辿った。
あの日の僕はセレクトショップで時間を潰した後、無事バイトに行っていたようだ。最初は思い出せなかったけれど、忘れ物を取りに行くふりをしてこうして店に来たら思い出すことができたし、他の店員からの確認も取れた。
これはいい兆しだ。頭で考えるだけでは思い出せなくても、その場所に行けば記憶を取り戻すことができる。
ただ問題なのは、実際に行動に移してからでないと思い出せないということだ。しかも闇雲に行動すればいいというわけではなく、その行動があの日のものと一致していなければ僕の記憶は蘇らないらしい。なんて厄介なんだと思ったが、記憶を刺激するという意味では仕方がないことなのかもしれない。
だからこそ今、僕は頭を悩ませていた。いつバイトに行ったかはシフト表やタイムカードを見れば明らかだけど、それ以外の自分の行動はどこにも記録されていない。つまりそこは自力で考えなければならないからだ。
あの日の僕が終電に間に合う時間にタイムカードを切っていたのはさっき確認した。普段とは違う店舗に臨時で出勤しただけだから何もおかしいことはない。店からしたら一番混む時間帯にだけ人手が足りればいいし、余計な交通費をかけないためには僕のように終電を逃したら徒歩では帰れない人間にはさっさと帰って欲しいのだ。
だから僕は店の望み通り、身支度を済ませた後すぐに帰ろうとしただろう。それなのにどういうわけか、その時の記憶がなかなか蘇らなかった。
店を出るまでの行動が違うのだろうかと思ったが、それはない。この店舗は土足厳禁で、客も店員も入店時には店の入り口で靴を脱ぐ。つまり帰る時には靴を履かなければならないから、あの日も僕はこうしてここで歩くようにしながら足を靴の奥まで突っ込んだはずだ。
「……いや、違う?」
ふと、違和感が胸を過ぎる。〝違う〟というのは、多分今のこの行動に対してだ。
でもそれだと意味が分からない。今の僕は歩きながら靴を履いているだけで、何もおかしいこなんてしていないのだ。
もしかしたら靴の履き方が違うのかと思ったけれど、そういうわけでもないだろう。最近いつも履いているこの青いスニーカーは、紐を少し緩めに結んでいる。だから座って履くなんて有り得ないし、家にもその必要のある靴はない。
「気のせいか……」
もしかしたら他の何かに対する違和感かもしれないと思ってしばらく考えてみたものの、その正体は分かりそうにもなかったから思考を打ち切った。
どこかもやもやとしたものを感じたまま店を出て、来た道を戻って行く。本当は暑さから逃れるためにまたどこかの店で涼みたかったけれど、今はやらないほうがいいだろう。
あの日の僕は終電に乗るために寄り道などしなかったはずだ。そもそも時間帯からして居酒屋以外の大抵の店は閉まっている。コンビニは開いているが、家の方にもあるのだからわざわざ終電を逃す危険を冒してまで行こうと思うわけがない。
でもそれはあくまで夜の話だ。真夏の日中に同じ行動を取るのは思っていたよりも辛くて、さっき感じたもやもやがどうでもよくなるくらい暑さで気が滅入ってくる。せめて冷たい飲み物くらい買っておけばよかったと思いながら、僕はジリジリと肌を焼く熱から逃れるように速歩きで駅へと向かった。
「――おい、アンタ!」
もう駅が見えそうというところで、急に前から来た男に声を掛けられた。あまりに突然だったから誰か別の人に言っているんだろうと思ったのに、僕の方へと駆け寄って来た男はそのまま僕の両肩を勢い良く掴んだ。
「アンタ、この前もここ通っただろ!?」
「この前……? ていうかなんなんですか……?」
男は凄い剣幕だったものの、恐怖をそれほど感じなかったのは相手が縋るような目をしていたからだろうか。だから僕は彼にも事情があるのかもしれないと思ったが、言っていることが抽象的すぎてどう反応したらいいか分からなかった。
「ああ、そうだよな……。二十日……って言っても日付変わったばっかだったから十九日の方がいいか? ――とにかく! 十九日の夜遅くにここらへんを通ったんじゃないか?」
「十九日……」
今日は八月二十三日――四日前のその日付は、僕が今まさに再現しようとしていたあの日のことだ。
そうと気付いた瞬間、僕の中には喜びと緊張が同時に押し寄せた。あの日のことが何か分かるかもしれない。でもそれは僕にとって不都合なことなのかもしれない――全く思い出せないが故の恐怖が、喜ぼうとする僕を引き止める。相手の様子からどちらなのか探ろうとしたが、見覚えのない彼の顔からは何も読み取れなかった。
「確かにその日はバイトがあったので、日付が変わった頃にここを通っていると思います。それが何か?」
「ならこいつを知らないか!?」
逃げ道を残しながら僕が当時ここにいたことを肯定すると、男は期待を滲ませた表情で僕の目の前にスマートフォンの画面を突き出してきた。そこに写っていたのは見知った顔――最近散々見た、東海林卓その人だった。
ああ、この人はあの日の僕と何か関係がある――ドクドクと心臓が早鐘を打つ。でも、まだだ。まだどういう繋がりか分からない。
僕は必死に冷静なふりをすると、ふるふると首を横に振った。
「すみませんが……この人がどうしました?」
東海林の顔はニュースでもちらほらと流れていたはずだが、それだけでは普通顔を覚えられないだろう。僕は彼のSNSを散々見たから覚えているが、この男がそれを知られていい相手なのかは分からない。
男は僕の答えにあからさまに落胆したような顔をすると、冷静さを取り戻したのか、「……急にすみませんでした」と慇懃な態度で頭を下げた。
「俺は里中っていいます。それでこいつは俺の友達で、実はこの間死んじゃったんすけど……最後に会った時、あんたによく似た人を見ていた気がして……」
「僕に? どうしてですか?」
「さあ……。でも共通の友達に聞いたら、もしかしたら恨んでる相手かもって。なんかあいつ昔色々あったみたいで、その時捕まらなかった犯人を今も恨んでるとかなんとか……でもその様子じゃ心当たりはないんすよね?」
「ええ、まあ……」
里中と名乗った男はよく分かっていないようだったが、僕は思い当たることがあって頭が急激に冷えていくのを感じていた。
東海林卓が恨んでいる相手――それはもしかして僕のことなんじゃないか。〝当時捕まらなかった犯人〟だなんて、妹の殺人容疑をかけられた僕の他にいるとは思えない。東海林が僕を恨んでいたのであれば僕を――僕によく似た人を目で追うというのも理解できてしまう。
「あの……そのこと、警察には……?」
言ってから不自然な発言だったと気付いたが、里中はあまり気にならなかったらしい。「ああ」と思い出したような顔をすると、困ったように眉間に皺を寄せた。
「まだ言ってないんすよ。あの時俺も酔ってたから、前に警察と話した時はすっかり忘れてたし……でも後からよくよく考えてみればそんなことがあったなって。つっても酔っ払いの記憶なんて当てにならないから、こうやってあの時見た人を探して本当にあったことなのか確認してからにしようと思ってたんすけど」
「あんたがいるってことは、実際にあったことだったみたいです」と、里中は申し訳なさそうに苦笑を零した。
「驚かせちゃいましたよね。すんません、本当」
「いえ……」
自分の知りたいことが分かったからか、里中は再び頭を下げるとくるりと僕に背を向けて歩き出した。
僕はといえば、その場に立ち止まったまま。もうここに留まる理由なんてないのだからさっさと駅に向かえばいいのに、僕の目は彼の背中に縫い付けられていた。
里中をこのまま行かせていいのだろうか。記憶の確認が取れたということは、警察に僕のことを話すつもりだろう。僕の名前は聞いてこなかったけれど、もしかしたら警察は僕のことを知りたがるかもしれない。その時、彼はきっと僕の容姿を事細かに話すはずだ。
「あの……!」
思わず声をかけると、里中は不思議そうに振り返った。
§ § §
にゃあ、と猫の鳴き声がした。どこからしたのだろうと思ってあたりを見渡したけれど、こんな都会のど真ん中に野良猫なんているはずがない。
空耳だったのか――僕はすっかり汗だくになってしまった額をTシャツの肩口で拭いながら、涼しい電車内を求めて駅へと急いだ。
そういえばあの日もこんな気持ちだった気がする。深夜だというのに蒸し暑くて、バイト先の強すぎるエアコンで冷え切っていたはずの身体はどんどん体温を上げていった。
そうして帰り道の記憶も徐々に取り戻していったけれど、駅に着いた時には落胆で溜息を吐きたくなった。
僕はあの日、やはりバイトの後に電車に乗って帰っていたのだ。となると、こうしてバイト先まで行ってきたのはまるっきり無駄ということになる。確かに里中という東海林卓を知る人物と出会えたが、それだけだ。何も新しい情報なんて得られなかった。だからこの後もこういうことが続くのではと思えて、どんどん気持ちが暗くなっていった。
だって、もし僕が自分の足であの倉庫に向かっていたとしたら――倉庫内にはカメラのようなものはなかったから、僕のあそこでの行動を証明するものはない。それなのに倉庫自体には自分の意思で向かっていたという事実があれば、僕の立場はより一層悪くなるだろう。
胃が捩じ切れそうな気持ちで電車に揺られていると、あっという間に自宅最寄り駅に到着した。とぼとぼと電車を降りて改札を出れば、見慣れた街並みが目に飛び込んでくる。思い出した記憶は――ない。
「……行くか」
あの日の記憶が戻らないということは、気絶したタイミングに近付いているということかもしれない。単に思い出すのが遅れているだけということもあるだろうけれど、そう思っていた方が気が楽だった。
意を決して、僕は家に続く道に背を向けて歩き出した。駅を基準にした時、僕の家とあの倉庫は反対方向にあるからだ。
このまま真っ直ぐ自宅に帰ってもいいが、それだと完全に今日のこの検証は無駄に終わる気がした。大体、自宅と駅までの道で何かあったならとっくに思い出しているはず。それがないのだから、あの日の僕はこちらの道を行ったと考えた方がいいだろう。
以前よく行った居酒屋を通り過ぎて、駅からどんどん遠ざかっていく。けれど一向に記憶は戻らなくて、僕は途中で足を止めた。
これ以上は先はあの倉庫に近すぎる。犯人が現場に戻ってくるかもしれないと考えて警察がこのあたりを見張っていてもおかしくないのだ。そんな中既に名前の挙がっている僕がのこのこと姿を現してしまえば、問答無用で犯人扱いされてしまうかもしれない。そう考えると、行動で記憶を取り戻そうとするのはここで諦めた方がいいのだろう。
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