ルール

新菜いに/丹㑚仁戻

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孤立

〈四〉かくれんぼの終わり

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『無理だろこれ……』

 二階にある教室の、教卓の陰。自分の息遣いしか聞こえない空間で、蓮の口からは諦めたような乾いた笑いが零れた。
 無邪気に笑っていた少女は自分が鬼になってすぐに姿を消した。ずっと怯えていたヒロも、もうその恐怖から解放されているのだろう――少し前に聞こえてきた音を思い出して、蓮は辛そうに眉根を寄せた。

(俺が先に〝あいつ〟を見つけたから……)

 鬼となった蓮が最初に見つけたのは〝あいつ〟だった。浅黒い肌に正気を失ったかのような虚ろな目、そして全身を返り血に染めたあの男。
 〝あいつ〟を先に見つけてしまったせいで、〝あいつ〟がまた鬼となった。鬼となって、ヒロを殺した。

(ヒロ……ごめん……)

 自責の念で気持ちが押し潰されそうだった。だからもう、諦めたいのかもしれない。

(なんで今更気付くんだよ……)

 蓮は両手で頭を抱え込んで、そのまま乱暴に掻き毟った。
 階下から響いたヒロの悲鳴を聞いた時、あの鬼に殺される条件に気付いてしまったのだ――何故タケルは殺されたのに、直後に見つかった自分たちは平気だったのか。何故先程は平気だったのに、今見つかったヒロは殺されてしまったのか。

(俺たちはずっと……)

 知っていたのだ、自覚していないだけで。だから自覚した今なら、鬼に殺されないはずだったのに。
 
 もうそれを、自分が実行することはできない。

 せめてもう少し早く気付いていれば今も自分の隣にはヒロがいたはずだ。このかくれんぼがいつまで続くかは分からないが、それでも逃げ続けることはできただろう。

 あいつの足音が聞こえてきた時、自分もまた死ぬのだ――じわじわと恐怖が蓮を蝕んでいく。
 なんでこんなところに来てしまったのか。なんでこんなことになってしまったのか。ここに来たのは自分の責任かもしれないが、こんなことになるだなんて思っていなかった。
 〝ハツネチャン〟とのかくれんぼを終えたら、すぐに帰れるはずだった。

(ヨウ君だって帰ってきたんじゃねーのかよ……)

 タケルが話を聞いたというヨウ。彼が生きて帰ってきたからこそ、タケルはこの場所の話を聞いたのだ。
 彼も同じ目に遭ったのだろうか。その時にから無事に済んだのだろうか。そこまで考えて、いや、と蓮は頭を振った。

(ヨウ君は多分〝あいつ〟には会ってない、〝ハツネチャン〟と遊んだだけだ。あの子としか遊んでないから、にかくれんぼを終えられたんだ……)

 そう考えると、やはり自分たちが何かしてしまったのだという結論に辿り着く。その何かとはきっと、ここでしてはいけないとされる〝余計なこと〟だ。それが何なのかは分からないし、この状況では知ることもできないだろう。

(もう、腹を括るしか……)

 生き残るための方法が残っていないのだ。ならばできるだけ恐怖を感じる時間が短くて済むようにしたい。
 そしてそれは他人の手ではなく、自分の手で――教卓の陰から道具にできそうなものを探していた時、ふと蓮の脳裏に従姉妹の姿が過ぎった。

『そうだ、佳織……』

 佳織には既にこの旧校舎のことを話してしまっている。明確な位置は教えていないが、自分に何かあったと思えばどうにか探し出そうとするだろう。それだけ彼女には行動力があるし、こうと決めたら絶対にやり遂げようとする意思の強さもある。その時に佳織が自分たちと同じ何か〝余計なこと〟をしてしまえば、同じ目に遭うかもしれない。
 ――だが、大丈夫だ。対処法さえ知っていれば、佳織が殺されることはない。前提条件としてここに来る時のルールを知っている必要があるが、佳織の性格であれば可能な限りの情報は集めてから来るだろうし、それを極力守ろうとするだろう。
 だからきっと、彼女は大丈夫。たとえになったって、殺されさえしなければもう一度またかもしれない。そうすれば、生きてここから帰ることができる。

 自分の命を終わらせるための道具を探していた蓮の目は、いつしか近くにある黒板を映していた。軽く腰を上げて見てみれば、黒板と一緒に古いチョークもある。

(急いで書けば、きっと間に合う)

 床板を踏み締める音が、少しずつ蓮の方に近付いていた。


 § § §


『――もういいよ』

 隣から聞こえてきた無邪気な声に、亜美はサァッと血の気が引くのを感じた。

(なんで答えるの!?)

 この鬼には見つかったら殺されてしまうのだ。初音は幽霊だからそれでも問題ないのかもしれないが、かつては自分だって〝りょうた君〟に殺されたはずなのにどうして平然と答えられるのだろう――一気に考えて、違う、と亜美は心の中で叫んだ。

 そんなことはこの際どうでもいい。それよりも今考えなければならないのは、どうすれば殺されずに済むかということだ。
 見つかっても殺される前に逃げ出せれば、まだどうにかなるかもしれない。そのためにはこの恐怖で竦んでしまった身体をどうにか動かさなければならない。

(動け動け動け……!)

 必死に自分に言い聞かせて、足に力を込めようとした時だった。

 ガタンッ――大きな音と共に、隠れていた机が後ろに引かれる。予想外のことに亜美が身体のバランスを崩しかけると、頭上から影が落ちた。

「見つけた」
「ッ……!!」

(殺される……!!)

 亜美の中に一気に絶望が広がった時、ドンッ、と再び大きな音が背後から聞こえてきた。

「アウトぉ!!」

 高い声が響いたかと思うと、固まる亜美の腕が誰かに引かれる。咄嗟にそれを拒もうとしたが、「立って!」という紗季の声に亜美の身体は勝手に動き出していた。

「逃げるよ!!」

 菜月が叫ぶ。教室の外に走り出しながら自分がいたところへと視線を向ければ、男が蹲っているのが見えた。直前に聞こえたあの音は、菜月が鬼を椅子か何かで殴った音だったのだ。

(助かっ――ッ!?)

 鬼から逃げ出せそうなことに安堵したのも束の間、今度は教室の外に出ようとしたところで赤い血溜まりが亜美の目に飛び込んできた。そこには見慣れているはずの制服を纏った身体が倒れていたが、その姿は記憶の中にあるものとあまりにも違う。

(たま……!)

 不自然に切り離されてしまった友人の身体に、亜美の胃の中から熱が込み上げる。それを我慢しながら廊下の先を見てみれば、さらにもう一人の友人も同じような姿で倒れていた。

(やっぱり……佳織も……)

 はっきりと惨状を見てしまったせいで、亜美は再び身体の自由を失った。佳織にはこの状況に巻き込まれた恨みもあったが、本当ならそれはいつもどおりのちょっとした喧嘩で済むはずだった。こんなふうに死んで欲しいなどと微塵も思っていなかった。

「亜美、菜月、しっかりして!」

 紗季の声にはっとすると、菜月も同じような表情を浮かべているのが分かった。彼女もまたこの状況に動けなくなっていたのだ。
 紗季も酷く顔色が悪かったが、それでも今は他に優先しなければならないことがあるため無理をしているのだろう。亜美は自分と菜月の意識を恐怖から引き戻してくれた紗季に感謝しながら、佳織たちから離れるように廊下を走り出した。

 朽ちかけた廊下は走りにくかったが、それがかえって亜美にあの光景を忘れさせる。とにかく今は鬼から逃げ切らなければならない――握った手に力を込め直した時、教室での菜月の行動を思い出した。

(――そういえば……)

「アウトって何……!?」

 確か菜月はそんなことを言っていなかっただろうか。自分の知っているかくれんぼにはない彼女の行動を問うと、紗季に促され階段に足をかけた菜月は「そういうルールなかった!?」と前を見たまま声を上げた。

「アウトって言われて鬼にタッチすると、そこからかくれんぼは同じ鬼で仕切り直しになるんだよ! そしたら数える時間は稼げる!」

 階段を上りながら菜月が答える。亜美はそのルールを初めて聞いたが、もし有効ならば菜月の言うように改めて隠れる時間は稼げるだろう。
 見つかっても殺されずに逃げることができる――先程初音から聞いた話もあって、亜美の中には僅かに希望が生まれた。

「そんなルールあるんだね。おもしろそうだからアリにしよう」

 聞こえてきた声に紗季の方を見れば、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。しかし亜美の隣を見て、ぎくりと顔を固める。

(まさか……)

 今の声は紗季のものではないのでは――そう思って恐る恐る彼女の視線の先を見れば、そこにはまた初音の姿があった。

「つ、着いてきてたの?」
「うん、いっしょにかくれようと思って。だめ?」

(駄目に決まってる……!)

 初音は今しがた自分が見つかる原因を作ったのだ。そんな彼女に着いて来られたら、折角頭に浮かんだ逃げ切るための算段が崩れてしまうかもしれない。
 だが、だからと言って初音の言葉を断る勇気は亜美にはなかった。このかくれんぼは彼女のものなのだ、それなのに初音の機嫌を損ねたら何が起こるか分からない。
 亜美がどうしようというふうに菜月と紗季に目配せすると、彼女たちも考えは同じなのか、「いいんじゃないかな……?」と控えめな言葉が返された。

「わたしもいっしょにいいの?」
「……いいよ。一緒に隠れよう」

 この際もう仕方がない。もし仮に初音が一緒にいなかったとしても、鬼に見つからないとは限らないのだ――亜美は無理矢理自分を納得させた。それに、初音には聞きたいこともある。

「『アリにしよう』って、アウトのやつ?」
「うん、そうだよ」
「もうそのルールになってるの?」

 初音の返事に、紗季が質問を重ねる。すると初音は「うん」と大きく頷いた。

「なら六時まで逃げ切れるかも!」

 亜美が声を上げれば、菜月は「六時?」と聞き返してきた。自分と初音の会話は小声だったため、彼女にはすべては聞こえていなかったのだろう。紗季も「そういえば六時までとかなんとか言ってたね」と言いながら亜美の言葉の続きを待っている。

「このかくれんぼは六時までなんだって! だからそれまでアウトで仕切り直しっていうのを繰り返してれば、どうにか逃げ切れるかもしれない!」

 亜美は二階の近くの教室に入り、黒板の上の時計を指差した。一階の教室で見たものと同じ時を刻む時計は、今もしっかりと動いている。

「あと四十分……うん、これならいけそうかも。みんなお互いを助けられる位置に隠れよう」

 菜月の提案に頷きながら、紗季が何かに気付いたかのように「ねえ」と声を上げた。

「その黒板、何か書いてない?」

 紗季の指差す方には、確かに白いチョークで書かれた横書きの文字があった。しかし相当古いのか、それとも誰かが触ったのか、ところどころ掠れていてうまく読むことができない。

「『一ノてフくわるな』……なんだろこれ?」
「この〝わ〟って〝れ〟じゃない? 〝わ〟ほど丸みないよ」
「『一ノてフくれるな』? 意味分かんない」

 紗季に訂正されながらも読んでみたが、亜美には意味が分からなかった。「悪戯じゃない?」、菜月が興味なさそうに言う。

「肝試しする人いるんでしょ? 特に意味はないと思うけど」
「ああ、そっか」

 菜月の言葉を亜美は納得できたが、紗季は違うのは明らかだった。黒板を見つめたまま難しい顔をしていたかと思うと、自信なさそうに口を開く。

「これ、『一人でかくれるな』じゃない?」
「え、どこが?」
「〝ノ〟と〝フ〟は隣の文字との間隔が空いてるから、本当はここに何かあったんだよ。この場所で『くれるな』って続く言葉があるとすれば、『かくれるな』……『一人でかくれるな』って書いてあったなら、この文字同士の微妙な隙間が埋まるでしょ」
「確かにそうかもしれないけど……考えすぎじゃない? それにもしそうだとしても地元の子がみんな知ってる言葉だったら、書いてあっても不思議じゃないと思うんだけど……」

 口では否定しながらも、あまりに真剣な紗季の様子に亜美はこの文字が気になり始めていた。もしかしたら何か意味があるのかもしれない――そう思って再び考えようとしたが、微かに聞こえてきた低い声のせいでその思考は打ち切られた。

「これ……数え始めてる……」

 菜月の声に、紗季が「急いで隠れよう」と声を上げた。黒板の文字は気になるようだが、それよりも隠れなければ殺されるという問題の方が明らかに重要なのだ。亜美も紗季に首肯を返して周りに目をやった。
 今亜美たちがいる教室は、一階で隠れていた場所よりも隠れられる物陰が少なかった。教卓は一台あるが、机はあちらこちらに散らばっている。廊下側の壁にはどこかの教室の板戸が立てかけられていていたが、あの隙間には一人しか入れないだろう。

(隠れられるのは教卓とあの扉……二人だけ……?)

 亜美がどうすればいいのか考えようとした時、菜月が散らばった机を集めて教室の奥に壁を作り始めた。他の教室にも似たようなものはあったが、それよりも明らかにわざとらしい。

「そこに隠れるの? こんなの『ここに隠れてます』って言ってるようなものじゃ……!」

 咄嗟に声を上げれば、菜月は「別にいいじゃん」と言い放つ。

「誰かが見つかったら殺される前に『アウト』ってやればいいでしょ? むしろ下手に出づらい場所に隠れるより、こういう場所の方がさっと出れて助け合える」
「あ……そっか……」

 自分たちは普通のかくれんぼをしているわけではないのだ――菜月の言葉に、亜美は自分の置かれた状況を再認識した。

「『アウト』ってやる時は、見つかった人から近い人から順番にやろう。同時に残り二人見つかっちゃったらどうにもならない」

 紗季が確認するように言うと、亜美と菜月はうんと大きく頷いて各々隠れ始めた。


 § § §


(――……まだここには来ない)

 亜美は静かに深呼吸をしながら、スマートフォンを取り出した。いつの間にか画面は真っ暗のまま反応しなくなっており、時計としてどころか何にも使えなくなってしまっている。聞けば菜月と紗季のものも同じ状態らしい。紗季の話では初音とのかくれんぼ中は電波が入らないだけだったようなのだが、今はどういうわけか電源すらも入らなくなっていた。

(紗季と合流するまでは使えてたけど……電波はどうだったかな)

 記憶を辿ったが、あの時は冷静ではなかったせいで全く覚えていなかった。第一、眠っていた紗季のスマートフォンを使った時は正常に動いていたのだ。恐らく今はにいるせいで自分のものも使えなくなっているだけで、壊れたわけではないのだろう。
 もし自分たちがあの時の彼女と同じ状況なのであれば、本当の世界で眠っている自分の手には同じように正常な状態のスマートフォンがあるはずだ――そう考えると、気にしたところで仕方がないという気もしてくる。それにそういった普通とは違うことを考えれば考えるほど自分のいるこの場所がやはり異常なのだと実感させられるようで、亜美は顔を顰めると思考を打ち切って制服のポケットの中にスマートフォンを突っ込んだ。

(でも、ここが現実じゃないなら……たまたちも生きてる……?)

 ふとそう思ったが、確かめる手段がないことに気付き亜美は首を小さく横に振った。ここから解放されなければ現実の彼女たちがどうなっているかは分からない。だが、だからと言って鬼に殺されるという選択はしたくはない。
 現実では生きているという確証があればまだ違ったが、そうではないのだ。ここでの死はそのまま現実での死に繋がっている可能性がある以上、迂闊なことはできない。それに死んだように眠っていた紗季の姿を思えば、現実では生きているだなんて希望は持てそうにもなかった。

(とにかく逃げ切らないと……)

 鬼の数える声が止んで、どのくらい経っただろう。時間を確認したくても亜美の隠れている教卓の裏からは時計を見ることができない。だからスマートフォンを見てみたのだが、それも役には立たなかった。
 一階では亜美の隣にいた初音は、ここに二人分のスペースはないと分かったらしく、比較的広い机の陰に隠れた菜月のところに行ったようだ。そしてそれは、菜月が最初に鬼に見つかる可能性が高いことを意味していた。

(きっと初音ちゃんはまた『もういいよ』って答える……)

 恐らく紗季も、菜月本人もそれは分かっているだろう。だから亜美はいつでも抜け出せるように心の準備をしながら、いつ来るか分からない鬼の足音を待っていた。
 その時――

(ッ……来た!)

 ギシ、ギシ、と遠くから音が響く。この反響の仕方は階段だろうか。亜美たちのいる教室は階段から一番近くにあるため、鬼が来るのも時間の問題だろう。

 遠くから響いていた音は、どんどん近くなっていった。広い空間に反響するような音は弱まり、代わりに廊下を軋ませる音が大きくなっていく。その音は亜美たちの隠れる教室のすぐそこまで来たところで一度止まったが、少し間を置いて再びゆっくりと近付き始めた――教室に入ってきたのだ。

(最初に見つかったのが菜月なら私が、紗季なら菜月が一番に助けに行く)

 いつでも動けるように、亜美はこの後の動きを頭の中で繰り返した。紗季の言っていたとおり、見つかった者を助けようとしてうっかり残り二人が同時に見つかってしまったらそこで終わりなのだ。助けに行く順番を間違えてはいけない。

「――もういいかい?」

 低い、男の声が響く。亜美はぎくりと身体を固まらせたが、すぐに別の声がその緊張を無理矢理ほどいた。

「もういいよ」

(やっぱり……!)

 初音の声だ。ならば最初に見つかるのは彼女と共にいる菜月――亜美はすぐに立ち上がれるように足に力を入れた。と同時に、ガタンと乱暴に机をどかす音が響く。

「見つけた」

 それが自分に向けられたものではないと確信を持った瞬間、亜美は教卓の陰から飛び出した。
 直後に目に飛び込んできたのは、赤黒く汚れた衣服に身を包んだ男の背中。

(こいつが佳織たちを……!!)

 亜美の中に怒りが湧き上がる。その怒りのまま男に触れるため腕を振りかぶり、大きく息を吸った。

「アウト――ッ!?」

 亜美の腕が男に触れることはなかった。腕を振り下ろそうとした時、男がくるりと後ろを振り返ったのだ。
 浅黒い肌の、やつれた顔が亜美の方を向く。ぼんやりとした視線は焦点が定まっていないように見えるのに、その濁った色の瞳は確かに自分を見ているのが分かった。

(まずいッ……!)

 だらんと伸びた男の手の中で鈍い色に光るそれを見て、亜美の顔からは血の気が一気に引いた。男の持つ少し大きめの包丁にはべったりと赤いものがついており、それが何のための道具かは考えなくても分かる。分かるせいで、身体が動かなくなる。

「もういいかい?」

 問うと同時に、男が空いている方の手を自分へと伸ばしてきた。逃げなくてはならないと分かっているのに、まるで金縛りに遭ったかのように身体が言うことを聞かない。

(逃げられ――)

「アウト!」

 亜美が諦めかけた時、板戸の陰から飛び出してきた紗季が男をドンッと横から突き飛ばした。男はそのまま数歩よろけたが、突然ピタリと不自然に動きを止める。

(仕切り直しだから……?)

 助かった安堵と不自然さへの警戒で、亜美は男から目を離すことができなかった。紗季たちと逃げた方がいいと分かるのに、どういう状況か分からないせいで男の行動が気になってしまうのだ。
 そしてそれは紗季たちも同じようで、彼女たちもまた緊張の滲んだ面持ちで男を見ていた。

「――あ、六時だ」

 居心地の悪い静寂を、机の陰から顔を出した初音が破る。

「六時……?」

 彼女の声にはっとした亜美が時計を見ると、その針が縦にまっすぐ伸びているのが分かった。

(六時だ……)

 それは初音の言っていた、このかくれんぼが終わる時間。その瞬間、亜美は自分の身体から一気に力が抜けるのを感じた。

「に、逃げ切った……?」

 菜月の声に彼女の方を見れば、その顔には安堵を浮かべているのが分かる。

「六時までなら、もう終わりでいいんだよね?」

 紗季もほっとしたような表情をしていたが、確認するように初音に尋ねていた。
 問われた初音は「うん、そうだよ」と言って、男の方に身体を向ける。

「じゃあわたしは終わるね。またね、りょうた君」

 そう言って手を振った初音は、そのままふっと姿を消した。

「消えた……?」

 突然のことに亜美は驚いたが、そもそも初音は幽霊だ、と思い出した。見えていることがおかしいのだから、急に見えなくなったって不思議ではない。それに初音が姿を消したということは、このかくれんぼが終わったことを意味しているのだろう。

(じゃあ、この鬼も……?)

 亜美が期待を込めて男の方を見れば、視界の端で紗季と菜月も同じようにしているのが分かった。

(この人が消えれば、解放される……)

 解放されれば、こうして命の危険に怯える必要もないのだ――今か今かとその瞬間を待ちわびていると、低い声が亜美の鼓膜を揺らした。

「いーち……にーい……」

(え……?)

 何故消えないのだろうという疑問は、浮かぶと同時に消えた。男の声の内容が分かってしまったからだ。

 これは数を数えているのではないか――引き攣った顔で紗季たちに目をやれば、表情を固めた友人たちを目が合う。

(なんで……六時で終わりなんじゃ……!)

 その時、亜美の頭の中に初音の言葉が響いた。

『わたしは六時までだよ』

(『わたし』……? まさか……)

「六時で終わるのは……初音ちゃんだけ……?」

 亜美の呟きに紗季と菜月が勢い良く振り返る。お互いに見合わせた顔が、みるみる恐怖に歪んでいく。

 このかくれんぼに終わりなどなかったのだ――そう思うと、亜美の中の恐怖はみるみる膨らんでいった。
 初音に勝たなければここから逃れられないのに、その初音はもうどこかへと帰ってしまった。彼女のいない間に鬼になろうにも、見つかっただけで殺される相手にどうしたらいいかも分からない。
 少し前までは、まだ希望があった。殺されるかもしれないという恐怖があっても、このかくれんぼの終わりまで逃げ切ればいいと分かっていたから。

 だが、それももうない。それなのに自分を殺そうと追ってくる相手から、いつまでも逃げられる気もしない――ドクドクと心臓が激しく騒ぎ立てる。浅くなった呼吸が、亜美から冷静さを奪っていく。

「――ッもう嫌……!!」
「亜美!」
「どこ行くの!?」

 背中から紗季たちの声がするのは分かっていた。
 それでも――

(逃げ切るだなんて無理だ……!)

 恐怖から逃げ出すように、亜美は一人でその場から走り出した。




【 孤立してはいけない・完 】
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