アザー・ハーフ

新菜いに

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第三章 すべてが終わり、始まった日

13. 捨てられた違和感

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 華から遅れること約一時間、ゆったりと身支度を整えた朔は自宅を後にした。
 向かう先は倉庫街。家を出た朔は北に少し進んで大通りへと出ると、通りの大きさに見合わない人通りのまばらなその道を、西へとゆっくり歩いていった。

 振礼島は大きく二つの街に分かれている。南の日本人の街と、北のロシア人の街だ。
 この二つを分断するのが東西を繋ぐ島一番の大通り、通称白線はくせん――かつては正式名称があったと言われるが、現在ではその名を知る者は残っていない。

 今でこそ日本人もロシア人も特に揉めることなく平和に暮らしているが、振礼島にも人種間のいさかいが絶えなかった時期がある。それを終わらせるために当時の有力者達が手を取り合い、それぞれの土地の境界を明確に定め、その境界にあたるこの通りでの一切の争いを禁じることにしたのが始まりだ。
 白線、つまり争いによる一滴の血も流すことを許されない土地。初めの頃こそ小さな小競り合いは起きていたが、そのたびに厳しく罰せられたことから次第に白線上から争いは消えていった。

 そしてこの決まりは、二つの人種が和解するきっかけともなった。
 争いを起こさないように、ここでは人々はお互いに対する敵対心に無理矢理蓋をして接する必要があった。それが相手を知る機会となり、段々と白線以外の場所でも人種が違うというだけの理由から起きる争いは減っていった。
 これを歓迎する人々により、元々人が住むのに適した西側にのみ敷かれていた白線は島の東端にまで伸ばされ、いつからか綺麗に島を二分するようになった。

 とは言え、現在ではかつての意味合いはそれほど強くは残っていない。
 勿論白線上での争いご法度のルールは続いているが、振礼島に住まう者は白線を越えて生活していて、自分の生活スタイルに合わせて相手側の土地に住まいを持つ者さえ珍しくないのだ。

 朔の家は、この白線から南に程近い場所にあった。華の職場が白線上にあるからだったが、朔が普段仕事をする倉庫街も西へ五キロメートルと、双方にとって都合の良い場所だった。

 朔はいつも倉庫街まで徒歩で通っていた。五キロメートルというのは歩きなら遠いとも言える距離だったが、そうしていたのは彼が健康志向というわけではなく、単純にこの島には公共交通機関がなく、さらには車を手に入れることも難しいからだ。
 島に入れられる物資は生活必需品や金になるもの――非合法なものが優先されるため、個人の車というのは後回しになる。島で走っている車は朔が生まれるよりも前に作られたような旧車だらけで、持っているのは大抵安定した職についている人々だった。

 しかし、朔は車がないことを特に不満に思っていなかった。子供の頃の通過儀礼として友人と彼らの親の車を拝借して遊んでいたので車には乗ったことがあるし、運転もその時に覚えたので一通りはできる。
 だが、朔にとってはそれだけだった。自分の生活に必要だと思ったことがなければ、運転が楽しいと思ったこともない。しかも島の車は古いため、頻繁に故障する上にガソリンスタンドも島に一件しかない。
 朔にとって車とは、仕事でなければわざわざ個人で所有する価値のないものだった。

 だから氷点下を下回るこの寒空の下を、こうして雪を踏みしめながら歩くのは何ら苦ではなかった。
 毎日雪かきがされていても、雪国の道路はすぐにその上から雪が降り積もる。雑に撒かれる融雪剤により溶かされた雪は人通りが少ないためすぐに凍り、一見雪に見えても足を置いたらすぐ下が氷だったということは珍しくない。
 慣れない者にとっては転ばずに歩くのがやっとであろう道だったが、生まれた時からこの地で暮らす朔にとっては何も問題がなかった。問題があるとすれば、融雪剤に含まれる塩のせいで黒のブーツが白くなることくらいだ。

 一時間程かけて、朔は倉庫街に辿り着いた。
 港に隣接するこの倉庫街は、第一倉庫から第五倉庫までの五棟の倉庫が建てられている。今日の朔の仕事場は、白線から一番遠くにある第五倉庫だった。

 革手袋を着けた手で上着のポケットから煙草を取り出すと、火を付けて大きく一息、煙を吸い込んだ。普段なら自由に煙草が吸えるが、今回のような仕事の場合には禁じられることもあるのだ。
 煙草を吸いながら倉庫街を奥へと進み、第五倉庫に辿り着くと、入り口横にあるアルミでできたバケツ型の灰皿に吸い殻を投げ入れた。
 搬入用の大きな入り口が閉ざされていたので、その脇にある人間用の扉から中へと入る。

「――なんだよ、これ……」

 倉庫の中に足を踏み入れた朔は、己の目を疑った。
 普段であれば所狭しと貨物が並べられているはず倉庫内が空っぽだったからだ。初めて見る光景に戸惑いながらも、幅一五〇メートル、奥行き五〇メートルのだだっ広い空間の中心にぽつんと佇む人の姿を見つけて、その人物の元へと歩み寄る。

「やべぇよな、これ」

 その人物は朔に気付くと、その表情から思っていることを察したのか同意する言葉を口にした。

「おいリョウ、一体どうなってんだ?」
「今回の貨物のために全部移動したらしいぜ」
「ここ全部使い切るくらいの量ってことか……」

 呆れ果てたように顔を顰める朔に、リョウと呼ばれた茶髪の男が肩を竦めた。
 彼の名前は田湯たゆ涼介りょうすけ、朔がこの仕事を始めた頃からの付き合いで、悪さも仕事もこの人物に教えてもらった朔にとっては兄のような存在だ。

「つーか、人少なくないか? それだけ貨物が多いんだったらもう少しいるはずだろ」
「それな。なんか他の連中は外なんだと」
「はぁ? さすがにここ埋め尽くす程の貨物、俺とリョウだけで見張るなんて無茶だろ」
「俺に言うなよ。俺だってマサさんに聞いただけなんだから」

 リョウの言うマサとは、倉庫街全体の管理を担当している人物だ。近寄りがたい雰囲気を持つ中年の男で、彼が苦手な朔はフルネームすら知らなかった。
 朔はまだリョウに対しては甘えが出るのか、彼と一緒の仕事の時はマサとの連絡を完全に任せてしまう癖がある。リョウもまたそれは分かっているのか、特に諌めることもなく朔と仕事をする際はマサとの連絡係を買って出ていた。

「ま、貨物届いたら俺からマサさんに言ってみるよ」

 流石に朔の言うとおり手が足りないと思ったのか、リョウが片眉を上げながら困ったように呟いた。


 § § §

 二時間後、朔とリョウは倉庫の真ん中で古いパイプ椅子に腰掛けながら、目の前の台に置かれた小さな木箱を睨みつけていた。

「……これのために、ここを空にしたのか?」

 そう不機嫌な声を発したのは朔だ。隣のリョウは顔を引き攣らせながら明後日の方を向いている。

「いやぁ、さすがにこれはびっくり、だよな?」
「金の無駄遣いもいいとこだろ」

 朔の機嫌の悪さを察してか、リョウは気まずそうに彼を見やる。朔がポケットの中に手を入れているのは、寒いからではないだろう。そこに煙草が入っていることをリョウは知っていた。

 二人の言うとは、言わずもがな目の前の状況のことだ。倉庫を空にしたことから大量の貨物が届くと予想していたのに、実際に運ばれてきたのは小さな木箱一つだけだった。
 木箱の大きさは丁度ワインが二本入る程度で、重さ次第だが十分片手でも抱えられそうに見える。

 もはや貨物と呼べる大きさではなく、朔はそんなもののために手間をかけて第五倉庫を空にし、さらには専属の担当者まで付けるクライアントの気が知れなかったのだ。

「ったく、こんなんだったらそこらへん放っときゃいいだろ」
「そう言うなよ、朔。ここまで大掛かりなことやるってことはヴォルコフくらいしかいないだろ? 奴の耳に入ったら面倒だ」
「……迷惑な話には変わりないな」

 ヴォルコフという名を聞いて、朔が苦々しく顔を歪めた。
 ヴォルコフというのはロシア側でこの島の物流を管理している人間の一人だ。かなり大きな権力があるらしく、彼の組織の証である火蜥蜴サラマンダーのタトゥーを入れたロシア人はそこかしこで見かける。

「ま、俺らの仕事は朝までコイツを見守ることだ。対象が小さいなら楽だろ? 割のいい仕事だと思って気楽にやろうぜ」
「……そうだな」

 リョウの言葉に、どこか納得できない様子で朔が答える。確かにこの状況だけ見れば楽な仕事だが、倉庫一つを空にして専属の担当者護衛まで付けるというのは、何かを警戒してのことではないだろうかと思ったのだ。
 しかもヴォルコフはロシア側の人間、彼の大事な荷物ならば手下の多いロシア側の倉庫に保管するのが自然だ。それにも拘わらず、わざわざ日本側に置くのはやはり何か理由があるのではないか。
 そう考えたが、この考えに至らないはずのない男は隣で完全に気を抜いている。朔はその姿に違和感を覚えたが、自分が考えすぎなのかとそれ以上深く考えるのを止めた。

 ――リョウが気楽でいいと言うなら、それでいいんだろう。

 朔のリョウに対する信頼は厚く、時折こうして自身の中の違和感を捨ててしまうほどだった。それでこれまで失敗していればまた話は違ったかもしれないが、リョウが平気だと言う時は決まって朔の懸念は杞憂に終わるのだ。

 二人が小さな木箱の見張りを始めて三十分程経った頃、突然リョウが外を気にし始めた。ゆっくりと顔を左右に動かしているその仕草は、何かを見るためではなく聞くためだと朔にもすぐに分かった。

「どうした?」
「いや、なんか声が聞こえた気がして」
「声?」

 リョウの言葉に朔も耳を澄ます。そうすると小さくだが、外から人が騒ぐような声が聞こえてくることに気が付いた。
 リョウは朔が音に気付いたのを見ると、少しだけ顔を顰めながら朔と目を合わせた。

「なんかあったのかな?」
「さあな、どうでもいいだろ。俺たちの仕事はこれの見張りだ」
「でも……」

 外の様子を全く意に介さない朔に、リョウが戸惑いがちに外と朔を見比べる。

「なあ、あっちって第一の方だろ? 確か笹森の爺さんが今日は第一にいたはずだ」
「……ジジイが?」

 笹森の名前を聞いて、漸く朔は少しだけ動揺を見せた。
 笹森とは朔の家の隣に住む初老の男性のことだ。子供の頃、華が仕事で家を空けるときは彼に世話になっていた朔にとって、祖父のような存在だった。

「ここは俺が見てるから、お前笹森さんとこ行ってこいよ」
「そうは言っても、ここ空けるわけにはいかないだろ」
「大丈夫だよ、少しくらい空けたってバレやしない。それにもし誰か来たら適当にごまかしとくよ」
「けど……」
「いいから行けって。笹森さんに何かあってからじゃ遅いだろ」

 あまりに強くリョウが笹森の身を案じるためか、朔の中には本当に彼の身に何か起きるのではという不安が湧き上がってくる。それはじわじわ朔の心を蝕み、焦燥感をいざなう。

 朔は暫くその場で目を伏せていたが、意を決したようにリョウに目を合わせると、「頼んだぞ」と、その場から走り出した。

 ――大丈夫、リョウなら俺がいなくてもうまくやってくれる。

 朔は自分にそう言い聞かせて倉庫の外へと飛び出した。急いで倉庫の端に行って第一倉庫の方を確認すると、それがあるであろう場所からはもくもくと黒煙が上がっているのが見える。

 ――火事だ……。

 そう気付くやいなや、朔はその場を駆け出していた。
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