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第三章 すべてが終わり、始まった日
14. 嘘のための嘘
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この倉庫街では、倉庫と倉庫の間には一五〇メートル程の間隔が空いている。一つの倉庫の奥行きが五〇メートルなので、朔がいる第五倉庫から第一倉庫までは八〇〇メートルの距離があった。
朔は黒煙を見て、一目散に第一倉庫の方へと走り出していた。いつもは全く気にならない倉庫間の距離も、この時ばかりは舌打ちをしたくなる。雪や氷で思い切り走れないこともまた朔の苛立ちを強くしていた。
それでもなんとか第一倉庫まで辿り着くと、倉庫から火の手が上がっているのが見えた。既に多くの人が駆けつけており、倉庫の消火活動を開始している。
朔はその様子に目をくれることもなく、辺りを見渡して笹森の姿を探した。騒ぎのせいで人が群がり自由に動くことが難しかったが、炎のお陰で夜だというのに明るく、人々の顔ははっきりと確認することができた。
「――ジジイ!」
暫く探し回ると見慣れた後ろ姿が目に入り、朔は考えるよりも先に声を張り上げていた。
「なんだ、朔じゃねぇか」
朔の声に気付いた相手が振り返る。期待通りの顔に朔はほっと胸を撫で下ろした。
「……随分汚れてるな」
「そりゃあな、出せる荷はギリギリまで出してたからよ」
そう言う笹森の姿は、煤で多少顔が汚れてはいたが怪我はなさそうだ。朔はやっと状況を確認するように倉庫の方を見たが、満天の星空を背景に轟々と燃え盛るその様に、綺麗だという場違いな感想を覚えただけだった。
「よりによって今日とはな。第五を空けただかでいつもより貨物が多いんだよ」
笹森の言葉に、あそこの貨物はここに突っ込んだのか、と朔は一人納得した。実際は第五倉庫以外の四棟の倉庫に分配していた上、倉庫の容量を考えれば一箇所にまとめられないことも容易に想像できる。
しかし今の朔は笹森の無事を確認できたことで思考が鈍っているのか、そこまで考える余裕はなかった。
「お前、今日どこ担当なんだ?」
「第五」
「ああ、お前が。だったらこんなとこいちゃダメだろ」
「分かってる。もう戻るよ」
「しかし朔は運が良かったな。こりゃ俺らは夜通し後始末だ。客が来ねぇから華ちゃんも早く帰ってくるんじゃないか? ロシアの連中も自分たちが関係してる荷があるか確認しなくちゃならねぇからな」
「ババアが早く帰ってこようが、俺はどのみち朝まで荷物のお守りだよ」
そう吐き捨てるように言った朔の様子に笹森は怪訝そうに片眉を上げたが、それ以上は何も聞かなかった。
関係者以外が第五倉庫に運ばれた貨物について知ることは許されないため、聞いても朔は答えられないと分かっていたからだ。
「じゃあな、ジジイ」
「おう、またな」
いつもと変わらない挨拶を交わし、朔はその場を後にした。
§ § §
朔が第五倉庫に戻ると、リョウは出た時と変わらず小さな木箱の前でぼんやりと座っていた。
朔に気付いたリョウは彼が自分の隣までやってくるのを待ち、椅子に腰掛けるのを見ながら「どうだった?」と問いかける。その目に心配の色が見られないのは、朔の様子がいつもと変わらないからだろう。
「ジジイは無事だったよ。みんな徹夜らしいがな」
「あー、今日は第一も貨物多いからな」
ざわり、朔の中に嫌な感覚が生まれた。
「……こっちはどうだった?」
「問題なしっ」
ニカッと笑って「だから大丈夫だって言っただろ?」と胸を張るリョウの顔を、朔は直視できなかった。
思わず視線を落とすと、リョウの足元に少し濡れた跡があるのが目に留まる。
――勘弁してくれよ……。
朔は自分の中に込み上げてくる感情を抑え込み、煙草に火をつけながら木箱を見つめた。
「なぁ、リョウ――」
煙草を吸おうとするのを止められなかったことで、朔の中にあった疑惑が確信へと変わる。リョウの名を呼びながら、視線をゆっくりと彼の方へと向けた。
「――お前、俺に何を隠してる?」
朔の言葉に、リョウの瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。
「何だよ、急に。変なこと言って」
「なら、あれ開けてもいいか?」
そう言って朔は木箱を顎で示した。
リョウは訝しげに「馬鹿言うな」と朔を諌める。
「ヴォルコフの荷物かもしれないんだぞ? そんなん勝手に開けたらどうなるか――」
「殺されるかもな。……俺も、お前も」
朔がリョウを睨みつける。
リョウはヒュッと喉を鳴らし、顔を少し引き攣らせながら朔を見つめていた。
「リョウ、お前なんで最初から第一で何かあったって決めつけてたんだ? ここからすりゃあっちの方向にあるのは確かに全部第一の方だけどよ、実際どこかはずっとこの中にいたんじゃ分からねぇだろ」
「それは、お前が……」
「俺はみんな徹夜らしいとしか言ってない。それなのにお前は『第一も貨物多い』って……まるでなんで徹夜になるのかすら知ってたような口振りだったじゃねぇか」
「…………」
――否定しろよ……。
黙り込むリョウを見ながら、朔はやりきれない気持ちになっていた。
自分が今言ったことはただの推測にすぎない。リョウの発言も、彼が勘だとでも言えば自分は十分納得しただろう。
それなのに何も言い返さないリョウを見て、朔はこれでよかったのだろうかと自分の行動に疑問を感じ始めていた。自分が見ないフリをすれば、何も起こらなかったということになるのではないか。本当は、そうするべきだったのではないか。
――リョウが馬鹿なことをするはずがない……けど、この状況はどう考えても……。
ギリ、と奥歯を噛み締める。一度表に出してしまった疑念はもう隠せない。
朔が何も言えないでいると、リョウが沈黙を破った。
「お前を、巻き込むつもりはなかった」
その肯定も言い訳も含んだ言葉に、朔の頭にカッと血が上った。やはりリョウは木箱の中身を盗んだのだ――受け入れたくなかった事実が朔の心に突き刺さった。
「『巻き込むつもりはなかった』? 十分巻き込んでんだろ! 俺が見張ってたはずなのに荷物が無事じゃねぇんだぞ!?」
「担当表は書き換えてある! 後から調べられてもお前に疑いはかからない!」
「誰に書き換えたんだよ! そいつのことは巻き込んでいいのか!? 大体、第一に火なんてつけてジジイに何かあったらどうするつもりだったんだ!?」
「笹森さんは外にいるように調整してあった!」
「お前さっきからそればっかだな! 自分の周りの人間ばっか庇って、他の連中のことはどうでもいいのかよ!?」
「ああ、どうでもいいね! どうせ俺は朝には島を出るんだ、残った連中のことなんて知るか!」
「リョウ、お前っ……!」
思わず殴りかかろうと立ち上がった朔だったが、すぐにその動きをぴたりと止める。「クソ!」と毒づきながら自分が座っていた椅子を蹴飛ばすと、苛立ちをぶつけるかのように頭を乱暴に掻きむしった。
本当ならリョウのことを思い切り殴り飛ばしてやりたい。それくらい彼の行動は身勝手で、周りを巻き込むものだったのだ。
しかし朔にはリョウを殴れなかった。それは彼が振礼島を出たがっていたことを知っていたというのもある。
だがそれ以上に、自分を巻き込まないために他人を犠牲にしようとしたリョウの行動に、どうしたらいいか分からなくなってしまったのだ。
ポトッ……と、口に咥えた煙草の灰が落ちる。足元に落ちたそれを見て、朔は頭を抱えるようにしてその場に座り込んだ。
「やるならせめてバレないようにやってくれよ……」
もはや何を責めているのかも分からない言葉を、力なく呟く。
「……朔の勘が良すぎるんだよ」
「馬鹿野郎、お前が一言『ここで煙草吸うな』って言ってりゃ気のせいで済ませてたよ」
朔の言葉に「ああ、なるほど」とリョウが困ったように笑った。先程までの勢いを失っているのは朔だけでなく、リョウもまただらんと脱力するように椅子に座っている。
その姿はどこかほっとしているようにも見えて、朔はやるせない思いを感じながら目を逸らした。
朔は自分の中にあったリョウに対する疑いを払拭するため、彼を試したのだ。
朔に大事な荷物の近くで煙草を吸うなと教えたリョウなら、きっと先程の自分の行動を止めるはずだ、と。なのに、リョウはそれをしなかった。
それが意味していたのは、彼がその荷物にはもう価値はないと知っていたということだ。
――俺がリョウを試さなければ……。
何も知らないまま朝を迎えていれば、きっと兄同然の彼との関係が壊れることはなかっただろう。たとえリョウが何も言わず島を出て行ったとしても、朔は「ああ、願いを叶えたんだな」程度にしか思わなかったはずだ。
島の外で暮らすには誰にも知られずに島を出る必要がある。そのためには別れの挨拶などしている場合ではないのだ。
朔はうなだれるように頭を落として、くしゃりと髪の毛を握り締めた。
「――……で、誰に渡した?」
暫く沈黙が続いた後、諦めたように朔が問いかけた。
「誰にも――」
「この期に及んで嘘吐くなよ? お前が外に出たのは分かってんだよ」
そう言って朔は先程よりも乾いてきたリョウの足元を見た。
視線の先にあるものに気付いたリョウは「ほんと駄目だな、俺……」と自嘲気味に笑う。そして諦めたように、ぽつりぽつりと事情を語り始めた。
リョウはロシア人に話を持ちかけられたらしい。大金の代わりにヴォルコフの荷物を盗む手引をしろと言われたそうだ。
簡単に出来ると思ったが、ヴォルコフ側の依頼のせいで朔と二人きりで荷物を見張ることになってしまった。だから担当を別の人間に変えようと思ったが、勘の良い朔が自分の把握しきれないところでその辺をうろついているのも、偶然バレてしまいそうで都合が悪い。
そこで目の届く範囲に留めておいた上で、一時的に朔の目を誤魔化すために第一倉庫で騒ぎを起こすことにしよう。そう考えて、話を持ちかけてきたロシア人と共謀したとのことだ。
「なんで引き受けたんだよ――」
リョウの話を聞き終わった朔は、独り言のように呟いた。
大金が欲しいからといって、ヴォルコフのような相手と揉め事を起こすのは得策ではない。本来のリョウであればそんなことくらい分かっているはずなのに、何故この話に乗ったのか理解できなかったのだ。
「――ヴォルコフに喧嘩売って、本土で生きてけるわけないだろ……」
「はは、そうだよな……やっぱ普通に考えて無理だよな……。でも、なんか分かんねぇけど……このチャンスを逃したら、二度と本土に行くのも無理な気がしたんだ……」
そう力なく笑ったリョウを見て、朔の中にある想いが湧き上がった。
§ § §
深夜零時、雪道の中を朔は再び走っていた。なんで今日はこんなに走り回るんだと愚痴をこぼしたかったが、今の彼にはそんな余裕はない。
――荷物を取り返せば、まだ……。
自分が騙されていたにも拘わらず、朔はリョウを助けようとしていた。
たとえ朝になってリョウがこの島を出たとしても、ヴォルコフの怒りに触れた彼は平和には暮らせないだろう。だが、何も起きていなかったなら話は別だ。リョウが荷物を渡したという例のロシア人からそれを取り返し、どうにか口を封じて元の場所に戻す。そうすればリョウは、無事に本土で暮らすことができる。
――馬鹿か、俺は。
自分を騙した相手を助けるために、必死で駆けずり回っている。そんな自分に思わず笑いそうになるが、身体が動いてしまうのだから仕方ない。
何故ならば朔にとってリョウは、家族も同然なのだ。血の繋がりはないが、兄のように慕い、誰よりも信頼できる相手だったのだ。
いくら盗みのために利用されそうになったと言っても、そう簡単に見捨てられるものではない。確かに憤りや悔しさは感じるが、その命が脅かされるのであれば動かずにはいられなかった。
そんな朔の行動を、リョウも止めようとした。自分で蒔いた種だ、と。朔まで危険なことをする必要はない、と。
朔にもそれは分かっていた。だが気付いた時にはあらゆる鬱憤を込めて「黙っとけ」とリョウを殴り飛ばし、勢いだけで出てきてしまっていた。
しかし勢い良くで出てきたはいいが、朔には探すアテなどなかった。相手はロシア人だからきっとロシア側の土地にいるだろうと考えて白線の北側を走っているが、あまり来ないため土地勘が殆どない。
彼の足元は足跡一つない状態で雪が残っており、とっくに雪が止んだことを考えると、人が滅多に来ない道を走っているのは明らかだ。それくらい、朔はこの辺りを知らなかった。
他に考えられるのは、ヴォルコフの手下のいる場所は避けるだろうということだけだった。彼の荷物を盗むくらいだ、相手が事前にそういった場所を調べていてもおかしくはない。
しかし部外者の朔には、ヴォルコフの仲間をタトゥー以外に見分ける術はなかった。それなのに真冬の気温では大抵の人間は顔くらいしか露出していないから、その目印も役に立ちそうにない。
完全に手詰まりだったが、それでも朔は足を止めることはなかった。残りの手がかりは荷物の中身――聖杯だけだ。材質は分からないが黄金色だったとリョウが言っていたので、それだけを頼りにそこら中を走り回る。
そうして、少し経った頃。
「――こんなところに家……?」
視界の奥、住宅街から離れた寂れた場所に、一軒だけぽつんと佇む小さな家の明かりが見えた。
ロシア側の街の事情はそんなに詳しくないが、あんなところに住まいを構える理由があるだろうか――そう朔が疑問に思った時、彼の背筋を強烈な悪寒が襲った。
「なっ……!?」
状況が理解できないまま一瞬で全身が粟立った。ここはまずい――彼の本能がそう告げた瞬間、それは起こった。
ドンッ……! 突如下から思い切り突き上げられるような感覚。大地が揺れ、地鳴りが響き渡り、あまりの振動に思わず朔はその場に倒れ込んだ。
四つん這いでそれ以上体勢が崩れないようにするのがやっとの状況の中、今度は空から呻き声のような重低音が聞こえてくる。
「なん、だよ……!?」
見上げれば、先程まで晴れ渡っていたはずの空に勢いよく暗雲が立ち込めているところだった。その様子に驚いたのも束の間、強烈な風が吹き始め、空からは大きな雨粒が朔の身体を突き刺すように降り始めた。
季節外れの雨に驚いている余裕などない。揺れと相俟って益々その場に留まるのが精一杯になってきた現状に混乱していると、ザワ……と、再び朔の身体をあの悪寒が襲った。
「なんなんだよこれ……!」
地面に触れた手足から炎が上がっている。その光景に気付くと同時に、炎に焼かれた箇所から耐え難い痛みが襲ってきた。
「うわああぁぁぁああ!!」
炎は瞬く間に朔の全身を包み込む。空からは相変わらず猛烈な雨が叩きつけていたが、炎は全く勢いを弱めることなく朔の身体を焼いていく。
皮が焼け、肉が顕になり、それでも炎は止まらない。いつの間にか喉も焼けたのか、悲鳴を出すこともできなくなっていた。
――ここで死ぬのか……?
両目も焼け爛れ、朔の視界は闇に包まれる。そんな中、彼は冷静に自分の死を悟っていた。
いや、死を悟ったからこそ冷静になったのかもしれない。光を失い、耳には自分の身体が焼かれる音しか入ってこない。
――まだ死にたくない……。
そう思った時、朔はふと嫌な気配を感じた。それはこの状況になる前に、小屋の方を見て感じたものと同じだった。
あの悪寒の正体は何かの気配だったのかと頭の片隅で妙に納得しながら、朔はその気配の方を見た。と言っても、もはや彼にその先を確認する手段はない。本当に見たのかさえも分からなかった。
だがその時、朔は確かに気配の方から声を聞いた。
日本語ともロシア語とも分からない言葉。しかしその声は、朔の中に鮮明に言葉を残す。
――『百の命と引き換えに、その願いを叶えよう』……。
その言葉を理解した瞬間、視力を失ったはずの朔の目の前に黄金色の聖杯が現れた。
なみなみと注がれた赤い液体に、無意識のうちに手を伸ばす。そして伸ばした手が聖杯に触れたように見えた瞬間、プツン……と、朔の意識はそこで途切れた。
朔は黒煙を見て、一目散に第一倉庫の方へと走り出していた。いつもは全く気にならない倉庫間の距離も、この時ばかりは舌打ちをしたくなる。雪や氷で思い切り走れないこともまた朔の苛立ちを強くしていた。
それでもなんとか第一倉庫まで辿り着くと、倉庫から火の手が上がっているのが見えた。既に多くの人が駆けつけており、倉庫の消火活動を開始している。
朔はその様子に目をくれることもなく、辺りを見渡して笹森の姿を探した。騒ぎのせいで人が群がり自由に動くことが難しかったが、炎のお陰で夜だというのに明るく、人々の顔ははっきりと確認することができた。
「――ジジイ!」
暫く探し回ると見慣れた後ろ姿が目に入り、朔は考えるよりも先に声を張り上げていた。
「なんだ、朔じゃねぇか」
朔の声に気付いた相手が振り返る。期待通りの顔に朔はほっと胸を撫で下ろした。
「……随分汚れてるな」
「そりゃあな、出せる荷はギリギリまで出してたからよ」
そう言う笹森の姿は、煤で多少顔が汚れてはいたが怪我はなさそうだ。朔はやっと状況を確認するように倉庫の方を見たが、満天の星空を背景に轟々と燃え盛るその様に、綺麗だという場違いな感想を覚えただけだった。
「よりによって今日とはな。第五を空けただかでいつもより貨物が多いんだよ」
笹森の言葉に、あそこの貨物はここに突っ込んだのか、と朔は一人納得した。実際は第五倉庫以外の四棟の倉庫に分配していた上、倉庫の容量を考えれば一箇所にまとめられないことも容易に想像できる。
しかし今の朔は笹森の無事を確認できたことで思考が鈍っているのか、そこまで考える余裕はなかった。
「お前、今日どこ担当なんだ?」
「第五」
「ああ、お前が。だったらこんなとこいちゃダメだろ」
「分かってる。もう戻るよ」
「しかし朔は運が良かったな。こりゃ俺らは夜通し後始末だ。客が来ねぇから華ちゃんも早く帰ってくるんじゃないか? ロシアの連中も自分たちが関係してる荷があるか確認しなくちゃならねぇからな」
「ババアが早く帰ってこようが、俺はどのみち朝まで荷物のお守りだよ」
そう吐き捨てるように言った朔の様子に笹森は怪訝そうに片眉を上げたが、それ以上は何も聞かなかった。
関係者以外が第五倉庫に運ばれた貨物について知ることは許されないため、聞いても朔は答えられないと分かっていたからだ。
「じゃあな、ジジイ」
「おう、またな」
いつもと変わらない挨拶を交わし、朔はその場を後にした。
§ § §
朔が第五倉庫に戻ると、リョウは出た時と変わらず小さな木箱の前でぼんやりと座っていた。
朔に気付いたリョウは彼が自分の隣までやってくるのを待ち、椅子に腰掛けるのを見ながら「どうだった?」と問いかける。その目に心配の色が見られないのは、朔の様子がいつもと変わらないからだろう。
「ジジイは無事だったよ。みんな徹夜らしいがな」
「あー、今日は第一も貨物多いからな」
ざわり、朔の中に嫌な感覚が生まれた。
「……こっちはどうだった?」
「問題なしっ」
ニカッと笑って「だから大丈夫だって言っただろ?」と胸を張るリョウの顔を、朔は直視できなかった。
思わず視線を落とすと、リョウの足元に少し濡れた跡があるのが目に留まる。
――勘弁してくれよ……。
朔は自分の中に込み上げてくる感情を抑え込み、煙草に火をつけながら木箱を見つめた。
「なぁ、リョウ――」
煙草を吸おうとするのを止められなかったことで、朔の中にあった疑惑が確信へと変わる。リョウの名を呼びながら、視線をゆっくりと彼の方へと向けた。
「――お前、俺に何を隠してる?」
朔の言葉に、リョウの瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。
「何だよ、急に。変なこと言って」
「なら、あれ開けてもいいか?」
そう言って朔は木箱を顎で示した。
リョウは訝しげに「馬鹿言うな」と朔を諌める。
「ヴォルコフの荷物かもしれないんだぞ? そんなん勝手に開けたらどうなるか――」
「殺されるかもな。……俺も、お前も」
朔がリョウを睨みつける。
リョウはヒュッと喉を鳴らし、顔を少し引き攣らせながら朔を見つめていた。
「リョウ、お前なんで最初から第一で何かあったって決めつけてたんだ? ここからすりゃあっちの方向にあるのは確かに全部第一の方だけどよ、実際どこかはずっとこの中にいたんじゃ分からねぇだろ」
「それは、お前が……」
「俺はみんな徹夜らしいとしか言ってない。それなのにお前は『第一も貨物多い』って……まるでなんで徹夜になるのかすら知ってたような口振りだったじゃねぇか」
「…………」
――否定しろよ……。
黙り込むリョウを見ながら、朔はやりきれない気持ちになっていた。
自分が今言ったことはただの推測にすぎない。リョウの発言も、彼が勘だとでも言えば自分は十分納得しただろう。
それなのに何も言い返さないリョウを見て、朔はこれでよかったのだろうかと自分の行動に疑問を感じ始めていた。自分が見ないフリをすれば、何も起こらなかったということになるのではないか。本当は、そうするべきだったのではないか。
――リョウが馬鹿なことをするはずがない……けど、この状況はどう考えても……。
ギリ、と奥歯を噛み締める。一度表に出してしまった疑念はもう隠せない。
朔が何も言えないでいると、リョウが沈黙を破った。
「お前を、巻き込むつもりはなかった」
その肯定も言い訳も含んだ言葉に、朔の頭にカッと血が上った。やはりリョウは木箱の中身を盗んだのだ――受け入れたくなかった事実が朔の心に突き刺さった。
「『巻き込むつもりはなかった』? 十分巻き込んでんだろ! 俺が見張ってたはずなのに荷物が無事じゃねぇんだぞ!?」
「担当表は書き換えてある! 後から調べられてもお前に疑いはかからない!」
「誰に書き換えたんだよ! そいつのことは巻き込んでいいのか!? 大体、第一に火なんてつけてジジイに何かあったらどうするつもりだったんだ!?」
「笹森さんは外にいるように調整してあった!」
「お前さっきからそればっかだな! 自分の周りの人間ばっか庇って、他の連中のことはどうでもいいのかよ!?」
「ああ、どうでもいいね! どうせ俺は朝には島を出るんだ、残った連中のことなんて知るか!」
「リョウ、お前っ……!」
思わず殴りかかろうと立ち上がった朔だったが、すぐにその動きをぴたりと止める。「クソ!」と毒づきながら自分が座っていた椅子を蹴飛ばすと、苛立ちをぶつけるかのように頭を乱暴に掻きむしった。
本当ならリョウのことを思い切り殴り飛ばしてやりたい。それくらい彼の行動は身勝手で、周りを巻き込むものだったのだ。
しかし朔にはリョウを殴れなかった。それは彼が振礼島を出たがっていたことを知っていたというのもある。
だがそれ以上に、自分を巻き込まないために他人を犠牲にしようとしたリョウの行動に、どうしたらいいか分からなくなってしまったのだ。
ポトッ……と、口に咥えた煙草の灰が落ちる。足元に落ちたそれを見て、朔は頭を抱えるようにしてその場に座り込んだ。
「やるならせめてバレないようにやってくれよ……」
もはや何を責めているのかも分からない言葉を、力なく呟く。
「……朔の勘が良すぎるんだよ」
「馬鹿野郎、お前が一言『ここで煙草吸うな』って言ってりゃ気のせいで済ませてたよ」
朔の言葉に「ああ、なるほど」とリョウが困ったように笑った。先程までの勢いを失っているのは朔だけでなく、リョウもまただらんと脱力するように椅子に座っている。
その姿はどこかほっとしているようにも見えて、朔はやるせない思いを感じながら目を逸らした。
朔は自分の中にあったリョウに対する疑いを払拭するため、彼を試したのだ。
朔に大事な荷物の近くで煙草を吸うなと教えたリョウなら、きっと先程の自分の行動を止めるはずだ、と。なのに、リョウはそれをしなかった。
それが意味していたのは、彼がその荷物にはもう価値はないと知っていたということだ。
――俺がリョウを試さなければ……。
何も知らないまま朝を迎えていれば、きっと兄同然の彼との関係が壊れることはなかっただろう。たとえリョウが何も言わず島を出て行ったとしても、朔は「ああ、願いを叶えたんだな」程度にしか思わなかったはずだ。
島の外で暮らすには誰にも知られずに島を出る必要がある。そのためには別れの挨拶などしている場合ではないのだ。
朔はうなだれるように頭を落として、くしゃりと髪の毛を握り締めた。
「――……で、誰に渡した?」
暫く沈黙が続いた後、諦めたように朔が問いかけた。
「誰にも――」
「この期に及んで嘘吐くなよ? お前が外に出たのは分かってんだよ」
そう言って朔は先程よりも乾いてきたリョウの足元を見た。
視線の先にあるものに気付いたリョウは「ほんと駄目だな、俺……」と自嘲気味に笑う。そして諦めたように、ぽつりぽつりと事情を語り始めた。
リョウはロシア人に話を持ちかけられたらしい。大金の代わりにヴォルコフの荷物を盗む手引をしろと言われたそうだ。
簡単に出来ると思ったが、ヴォルコフ側の依頼のせいで朔と二人きりで荷物を見張ることになってしまった。だから担当を別の人間に変えようと思ったが、勘の良い朔が自分の把握しきれないところでその辺をうろついているのも、偶然バレてしまいそうで都合が悪い。
そこで目の届く範囲に留めておいた上で、一時的に朔の目を誤魔化すために第一倉庫で騒ぎを起こすことにしよう。そう考えて、話を持ちかけてきたロシア人と共謀したとのことだ。
「なんで引き受けたんだよ――」
リョウの話を聞き終わった朔は、独り言のように呟いた。
大金が欲しいからといって、ヴォルコフのような相手と揉め事を起こすのは得策ではない。本来のリョウであればそんなことくらい分かっているはずなのに、何故この話に乗ったのか理解できなかったのだ。
「――ヴォルコフに喧嘩売って、本土で生きてけるわけないだろ……」
「はは、そうだよな……やっぱ普通に考えて無理だよな……。でも、なんか分かんねぇけど……このチャンスを逃したら、二度と本土に行くのも無理な気がしたんだ……」
そう力なく笑ったリョウを見て、朔の中にある想いが湧き上がった。
§ § §
深夜零時、雪道の中を朔は再び走っていた。なんで今日はこんなに走り回るんだと愚痴をこぼしたかったが、今の彼にはそんな余裕はない。
――荷物を取り返せば、まだ……。
自分が騙されていたにも拘わらず、朔はリョウを助けようとしていた。
たとえ朝になってリョウがこの島を出たとしても、ヴォルコフの怒りに触れた彼は平和には暮らせないだろう。だが、何も起きていなかったなら話は別だ。リョウが荷物を渡したという例のロシア人からそれを取り返し、どうにか口を封じて元の場所に戻す。そうすればリョウは、無事に本土で暮らすことができる。
――馬鹿か、俺は。
自分を騙した相手を助けるために、必死で駆けずり回っている。そんな自分に思わず笑いそうになるが、身体が動いてしまうのだから仕方ない。
何故ならば朔にとってリョウは、家族も同然なのだ。血の繋がりはないが、兄のように慕い、誰よりも信頼できる相手だったのだ。
いくら盗みのために利用されそうになったと言っても、そう簡単に見捨てられるものではない。確かに憤りや悔しさは感じるが、その命が脅かされるのであれば動かずにはいられなかった。
そんな朔の行動を、リョウも止めようとした。自分で蒔いた種だ、と。朔まで危険なことをする必要はない、と。
朔にもそれは分かっていた。だが気付いた時にはあらゆる鬱憤を込めて「黙っとけ」とリョウを殴り飛ばし、勢いだけで出てきてしまっていた。
しかし勢い良くで出てきたはいいが、朔には探すアテなどなかった。相手はロシア人だからきっとロシア側の土地にいるだろうと考えて白線の北側を走っているが、あまり来ないため土地勘が殆どない。
彼の足元は足跡一つない状態で雪が残っており、とっくに雪が止んだことを考えると、人が滅多に来ない道を走っているのは明らかだ。それくらい、朔はこの辺りを知らなかった。
他に考えられるのは、ヴォルコフの手下のいる場所は避けるだろうということだけだった。彼の荷物を盗むくらいだ、相手が事前にそういった場所を調べていてもおかしくはない。
しかし部外者の朔には、ヴォルコフの仲間をタトゥー以外に見分ける術はなかった。それなのに真冬の気温では大抵の人間は顔くらいしか露出していないから、その目印も役に立ちそうにない。
完全に手詰まりだったが、それでも朔は足を止めることはなかった。残りの手がかりは荷物の中身――聖杯だけだ。材質は分からないが黄金色だったとリョウが言っていたので、それだけを頼りにそこら中を走り回る。
そうして、少し経った頃。
「――こんなところに家……?」
視界の奥、住宅街から離れた寂れた場所に、一軒だけぽつんと佇む小さな家の明かりが見えた。
ロシア側の街の事情はそんなに詳しくないが、あんなところに住まいを構える理由があるだろうか――そう朔が疑問に思った時、彼の背筋を強烈な悪寒が襲った。
「なっ……!?」
状況が理解できないまま一瞬で全身が粟立った。ここはまずい――彼の本能がそう告げた瞬間、それは起こった。
ドンッ……! 突如下から思い切り突き上げられるような感覚。大地が揺れ、地鳴りが響き渡り、あまりの振動に思わず朔はその場に倒れ込んだ。
四つん這いでそれ以上体勢が崩れないようにするのがやっとの状況の中、今度は空から呻き声のような重低音が聞こえてくる。
「なん、だよ……!?」
見上げれば、先程まで晴れ渡っていたはずの空に勢いよく暗雲が立ち込めているところだった。その様子に驚いたのも束の間、強烈な風が吹き始め、空からは大きな雨粒が朔の身体を突き刺すように降り始めた。
季節外れの雨に驚いている余裕などない。揺れと相俟って益々その場に留まるのが精一杯になってきた現状に混乱していると、ザワ……と、再び朔の身体をあの悪寒が襲った。
「なんなんだよこれ……!」
地面に触れた手足から炎が上がっている。その光景に気付くと同時に、炎に焼かれた箇所から耐え難い痛みが襲ってきた。
「うわああぁぁぁああ!!」
炎は瞬く間に朔の全身を包み込む。空からは相変わらず猛烈な雨が叩きつけていたが、炎は全く勢いを弱めることなく朔の身体を焼いていく。
皮が焼け、肉が顕になり、それでも炎は止まらない。いつの間にか喉も焼けたのか、悲鳴を出すこともできなくなっていた。
――ここで死ぬのか……?
両目も焼け爛れ、朔の視界は闇に包まれる。そんな中、彼は冷静に自分の死を悟っていた。
いや、死を悟ったからこそ冷静になったのかもしれない。光を失い、耳には自分の身体が焼かれる音しか入ってこない。
――まだ死にたくない……。
そう思った時、朔はふと嫌な気配を感じた。それはこの状況になる前に、小屋の方を見て感じたものと同じだった。
あの悪寒の正体は何かの気配だったのかと頭の片隅で妙に納得しながら、朔はその気配の方を見た。と言っても、もはや彼にその先を確認する手段はない。本当に見たのかさえも分からなかった。
だがその時、朔は確かに気配の方から声を聞いた。
日本語ともロシア語とも分からない言葉。しかしその声は、朔の中に鮮明に言葉を残す。
――『百の命と引き換えに、その願いを叶えよう』……。
その言葉を理解した瞬間、視力を失ったはずの朔の目の前に黄金色の聖杯が現れた。
なみなみと注がれた赤い液体に、無意識のうちに手を伸ばす。そして伸ばした手が聖杯に触れたように見えた瞬間、プツン……と、朔の意識はそこで途切れた。
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