アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第十一章 不審と誘惑

44. 用意された道標

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 慣れない冷たい感触で、蒼は目を覚ました。

 レザーのような感触のそこは程よいクッションが効いており、蒼の身体を優しく支えている。あまりの寝心地の良さに再びまどろみの中に身を委ねそうになった蒼だったが、意識が覚醒してくるにつれて呼び起こされる記憶に、はて、と違和感を覚えた。
 最後の記憶――それは、エレナと公園にいる記憶だった。急に眠くなったところまでは覚えている。ということは、この寝床は公園のどこかだろうか――蒼は考えを巡らせたが、公園にそれらしいものがあるとは思えなかった。ならば自宅だろうか。公園の近所にある自宅であれば、クッションの効いた寝床があるかもしれない。
 しかし蒼の把握している限り、自宅にもこの感触を持つものはなかった。

 ――じゃあ、ここはどこ……?

 ここに来て漸く蒼はその重たい瞼を開いた。滲んだ視界が次第にはっきりとしていく中、目の前に人の姿を捉える。「朔さん……?」、口からは無意識のうちに朔を呼ぶ言葉が零れていた。

「見間違えるほど似てないと思うけどな」
「え……!?」

 聞いたことのない声に、蒼は慌てて身体を起こした。
 一瞬視界に映った見覚えのない革張りのソファに驚きつつも、そのまま声のした方に目を向ける。ローテーブルを挟んだ向こう側の大きなソファに、体格の良い外国人男性が座っていた。その体格や日本人離れした顔の造形は確かに朔を彷彿とさせるものはあるが、意識がはっきりとしている今であれば見間違えることはないだろう。唯一、緑がかった瞳だけは彼と似ていると表現しても良かったが、寝起きの歪んだ視界でそんな小さなものを捉えられるとは思えなかった。

「誰、ですか……?」
「名前は知ってるって聞いてるぞ?」
「名前……?」

 そう言われても、と蒼は眉根を寄せた。相手の外見に反して成立している日本語での会話に少しだけ気分は落ち着き始めていたが、その素性が分からなければ居心地が悪いのには変わりない。
 自分にこんな年頃の外国人の知り合いなどいただろうか。いや、男の口振りからすると知り合いではないのだろう。知り合いではなくて、名前だけ知っている――一つだけ思い当たった名前に、蒼の背筋に冷たいものが流れた。

「レオ、ニード……?」
Молодецマラヂェッツ
「まら……?」

 聞き返そうとした蒼だったが、相手――レオニードの顔を見て思わず口を噤んだ。ニヤリとした笑顔は端正な顔立ちを際立たせるものだったが、その瞳はぞっとする程冷たく、自分が弱者であると瞬時に蒼に理解させるものだったのだ。

 ――何か一つでも間違えば、殺される……。

 自然と思い出したのは、ゲオルギーに襲われた時の恐怖。廃工場で一人、死に直面した時の絶望。
 一瞬にして怯えに包まれた蒼を嘲笑うかのように、レオニードはその笑みを深めた。クツクツとどこか聞き覚えのある声で笑いながら、「そんなに怯えるなよ」と言葉を続ける。

「取って食いやしないさ」
「……今は、ですよね?」
「へぇ、意外と賢いな」

 レオニードは大袈裟に目を見開いて蒼を見やる。
 一方で蒼はと言えば、“今は”という自身の言葉が否定されなかったことに安心する反面、どうにかしなければと焦燥感に苛まれていた。
 蒼は、朔と涼介の電話でのやり取りを知らない。だからレオニードが何故自分を攫ったのか、全く検討が付かなかった。しかしその理由を考えようとすると、どうしても先にエレナの顔が頭に浮かぶ。
 レオニードに姉を殺されたはずの彼女が何故――状況から考えて、エレナは蒼を連れ去るのに加担していると見て間違いないだろう。
 だが彼女がそれを手伝う理由が分からない。目の前の人物ならばその答えを持っているのだろうが、状況が全く分からないのだ。そんな中で下手にエレナの名を口にして良いものかも分からず、彼女のことについては何も聞くことができなかった。

「――なんで、私を……?」

 結局蒼が聞けたのは、自分を攫った理由だった。自分を攫って何か彼らにメリットがあるのだろうか――考えたところで、レオニードのことを殆ど知らない蒼に分かるはずもない。

「お前、サクと一緒にいるんだろう?」
「え……」

 何故、知っているのか――蒼は朔とのやり取りを思い返した。

 ――涼介さんが、朔さんのことをレオニードに知られないようにしているはずじゃ……?

 確かにそう言っていたはずだ。だからレオニードが朔の名前を知っていることなど、有り得ないはずだった。

 ――涼介さんが嘘を……? でも……。

「リョウスケはうまく隠してるつもりみたいだけどな」
「……なら、なんで知ってるんですか」
「お前はあいつの話を信じてるのか?」
「どういう意味です……?」

 レオニードの言葉は、涼介が朔に嘘を吐いていないことを示したはずなのに、続けられたのはそれを否定するものだった。しかも蒼の質問の答えにすらなっていない。いや、もしこれが答えだとするのであれば、“涼介の話を信じるのか”というのは、“涼介の話は信じるに値しない”ということを意味するのでは――蒼はそこまで考えて、慌てて首を横に振った。
 相手はレオニードなのだ、彼の言葉こそ信じてはいけない。それにもしレオニードの言葉を信じるのであれば、涼介は今も朔のことを騙していることになる。

 ――そんなこと、あっていいはずがない……。

 怒りに近い感情を感じたからか、蒼の中の恐怖が薄れ始めていた。蒼はキッとレオニードを見据えると、「少なくとも――」と口を開く。

「――貴方の話よりかは信用できます」
「へぇ?」
「貴方は人殺しです。ミハイルさんを殺して、しかも涼介さんのことは何か弱味を握って言うことを聞かせようとして。そんな人、どうやっても信用なんて出来ません」

 自分を睨みつけながらそう言う蒼を、レオニードは目を細めて見ていた。言い終わった蒼が少しだけ不安を滲ませたように口をキュッと引き締めるのが更におかしく、気付けば自分の口端が上がっているのを感じる。
 を使えば、簡単にあいつらを仲違いさせられそうだ――我ながら良い拾い物をしたものだと思うと、レオニードはより一層笑みを深めた。

「お前、アオって言ったな」
「……はい」
「お前の信用できない奴ってのは確かに俺もそうかもしれないが、そのままリョウスケにも当てはまるぞ?」

 レオニードの言葉に、蒼の表情が固まった。
 そのまま当てはまる――それは涼介が人殺しで、人の弱味を握って思い通りにするような人間だということだ。相手がレオニードだとは分かっていても、どうしても蒼にはその言葉を無視することができない。昨日否定しきれなかった涼介への疑いが、まだ蒼の中で燻っていた。

 そんな蒼の様子を、レオニードはやはり笑みを浮かべたまま見ている。蒼が涼介を完全に信用しているわけではないと確信すると、一言、言葉を発した。

「手を組まないか?」


 § § §

「ごめん、待たせた」

 当然のように蒼の自宅前へとタクシーでやってきた涼介を見ながら、朔は顔を顰めた。

 ――本当にアイツの家知ってたのか……。

 今までの話から涼介が知らないはずはないと理解はしていた。しかし改めて蒼のことを調べていた証拠を見せつけられると、彼がレオニード側にいるのだと実感して苦々しい想いが込み上げる。

「このあたり大体探した?」
「あっちはまだ」

 自分の中の嫌な感情に蓋をして、朔はまだ探していない方向を顎で示した。過ぎたことを考えても仕方がないし、今は蒼を探すことに集中すべきなのだ。朔が余計な感傷を飲み込むようにごくりと喉を動かした時、「電話ってまだ繋がる?」と涼介が質問が重ねた。

「お前に連絡する前にかけたっきりだな」
「ってことは一時間くらい前か。切られたとか、電源切れてますって音声が流れたわけじゃないんだろ?」
「あぁ」
「なら携帯のことがバレてないか、そういうのを気にするほど危ない奴ではないか、かな。レオニードならさっさと電源切るだろうし」

 蒼がレオニードに連れ去られた可能性が低くなったと判断したのか、少しほっとした様子で涼介が言う。
 しかし朔はその言葉を聞きながら、自分が携帯電話の文化に不慣れなことに気付かされ複雑な気分になっていた。そして、偶然とはいえそう何度もかけなくて良かったと胸を撫で下ろす。相手が誰であれ何度もかけていたら、その分だけスマートフォンの存在に気付かれる可能性が高まるのだということは考えるまでもなかった。

「蒼ちゃんって携帯の場所、パソコンとかタブレットとかから追えるようにしてないかな?」
「あ?」
「そっか、朔は最近携帯持ったばっかだったっけ……。えっと、携帯って失くすと困るだろ? だから他の端末からGPSで追跡できるように前もって設定しておけるんだよ」

 涼介の説明を聞きながら、朔は頭を鈍器で殴られるような衝撃を覚えていた。

 ――何をやってるんだ、俺は。

 GPSという言葉を聞いて、やっと思い出したのだ。蒼が先日涼介と会う際に、朔のスマートフォンから彼女の位置情報を追えるようにしたことを。
 朔はスマートフォンを取り出すと、蒼に教えられたアプリを起動した。その様子に何をしているか気が付いたのか、涼介が「見ていい?」と聞きながら画面を覗き込む。

「……これ、蒼ちゃんの携帯の場所?」
「……あぁ」

 なんて間抜けなんだと思いながら、朔は気まずそうに答えた。これでもし今回のことは蒼の不注意なのだとしても、自分は何も言えない。そう思って少しだけおかしくなったが、無言でスマートフォンの画面を見つめる涼介にただならぬものを感じて気持ちを引き締めた。

「知ってる場所か?」
「……今朝までいたよ」

 朔は先程までの軽くなった気持ちも忘れて、一瞬にして頭の中が冷やされる感覚に襲われていた。涼介が普段どこにいるかなど知らなかったが、その声色から十中八九レオニードに関係のある場所だと思い至る。
 涼介は苦々しい表情を浮かべながら数歩下がると、頭を抱えるようにして近くの家の壁に寄りかかった。

「そこは、レオニードが拠点にしている場所だ」
「……だろうな」
「はっ! 完全にこっちをおちょくってる」

 自嘲するように笑う涼介は、いつもと違って全く余裕が見受けられなかった。先程まで今回の件とレオニードは無関係という考えに傾き始めていたのも大きいだろう。
 しかし何故おちょくっているということになるのか分からなかった朔は、「どういうことだ?」と説明を求めた。

「俺は今朝までそこにいて、朔に連絡するために奴らの目の届かない場所まで出掛けたんだよ。で、その隙に蒼ちゃんを連れてきたんだろ? どう考えても俺の行動を読んだ上でやってるよ。未だに蒼ちゃんの携帯の電源が切られてないのも、敢えてそうしてる可能性の方が高い。どうせどっかのタイミングで、蒼ちゃんの携帯から俺にかけてくるつもりだったんだろうな」

 一気にそう言い終わると、涼介は顔を顰めたまま黙り込んだ。
 朔は珍しい涼介の様子に何とも言えず、次はどうするべきか、と一人考えを巡らす。

 蒼の居場所が分かったのだ。しかも安全な場所ではなく、当初懸念したとおりレオニードの元にいる。儀式の生贄として連れ去られたのであれば、助けなければいずれ彼女は命を落とすことになるだろう。そうなった時、蒼の死に何かを感じる以上に状況は悪いはずだ。蒼が死ぬ時、それはレオニードが再びあの聖杯を使う時なのだ。

 だから勿論、朔の中で蒼を助けないという選択肢はなかった。だが、どうやって助ければいいのだろう。涼介の言うとおり今の状況が全てレオニードに仕組まれているのだとすれば、そのまま乗り込んだとして勝算などあるだろうか。

 ――つっても、正面から行く以外に方法なんてなさそうだな……。

 涼介がまだレオニードに信用されていたのであれば、彼の動き次第で蒼を助けることはできただろう。しかし今回のことは、どう考えても涼介を敵と見做して行動している。レオニード側に伝手などない朔には、正面突破以外の方法などあるはずもなかった。

 どれくらいそうしていただろうか。恐らくそう何分も経っていないだろう、重い沈黙を破ったのは涼介だった。
 いや、正確には彼のポケットで着信を告げるスマートフォンだ。
 黙り込んでいた涼介は弾かれたようにポケットからそれを取り出すと、その画面を見るなり眉間に皺を寄せた。そして、苦笑するように口を歪める。その表情で、朔には着信相手が誰なのか分かった。

『どうせどっかのタイミングで、蒼ちゃんの携帯から俺にかけてくるつもりだったんだろうな』

 少し前の涼介の言葉が朔の脳裏に蘇る。本当にそのとおりになったことに驚きつつ、朔は自分に目配せしてくる涼介に頷いてみせた。

「もしもし?」

 至っていつもと変わらない声色で涼介が電話に出た。表情とは全く違うその声に、大したものだと朔は舌を巻く。

「――気分って? ……お前にしては、随分丁寧にやったじゃないか。……へぇ?」

 レオニードの声が聞こえてこないのがもどかしい。朔が焦れたように涼介を睨めば、涼介は口の動きだけで「ごめん」と言って、少し離れたところに移動してしまった。

 涼介の声まで聞こえなくなり、朔の中で苛立ちが募る。涼介が自分の存在をレオニードに知られたくないと思っていることは理解しているつもりだった朔だが、全く状況が追えなくなったことに舌打ちをしたくなった。恐らく涼介としては、途中で朔のそういった行動の音がレオニードに聞こえてしまうのを気にしているのだろう。頭では理解できたが、そのまま気持ちも追いつくかというとそうとは限らない。

 暫くして、涼介は電話を切った。すぐに朔の元に戻るかと思いきや、そのまま考え込むようにして動かずにいる。

「おい、リョウ」

 朔の声にも自然と怒りが混ざる。涼介ははっとしたように顔を上げると、困ったような顔をして朔に向き直った。

「多分レオニードの奴、今日中に蒼ちゃんのこと殺すつもりだよ」
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