アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第十四章 血の饗宴

55. 望みに堕ちる

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『中々面白い状況じゃないか』

 有り得ないはずの声に蒼が手摺り越しに階下を見てみれば、レオニードがゆっくりと階段を上がって来るところだった。

「生きて……――!?」

 レオニードは朔と争い、蒼達がいる場所から落ちて死んだはずだった。それなのに彼が生きて現れたことで蒼は驚きに包まれたが、考えてみれば誰もその死を確認していなかったことに気付く。

 ――そういえば……涼介さんは下から上がってきたはずなのに、レオニードのこと何も言ってこなかった……。

 蒼の知る涼介のの行動を考えると、レオニードが死ぬというのは彼にとって都合が良いはずだ。状況からして朔が手を下したことは明らかなのだから、涼介が知らない振りをする必要はない。つまり死んだと思っていたのは蒼達だけで、実際は生きていて、涼介が通りかかる頃には既に身を隠すなりしていたのだろう。

 蒼がいる場所からはレオニードの表情をよく見ることはできなかったが、はっきりと言葉を発したことから、そこまで重症ではなかったのだろうと推測できた。それなのにすぐに姿を現さなかったことには嫌なものを感じるが、それ以上に蒼の中には安堵が広がっていた――レオニードが生きているということは、朔がまた手を汚してしまったわけではないのだ。

 しかし当の朔本人は、最悪の状況だと考えていた。涼介が完全に敵となった今、レオニードを殺し損ねていたのであれば危険は二つに増える。レオニードがどう動くかは分からないが、もし何かあったとしても今の自分の身体ではどうにかすることなどできそうもない。

 殺したと思った相手が生きていた――以前の朔であれば、蒼のように安堵していたかもしれない。しかし今の彼にはもうそんな余裕はない。自分の命が尽きようとしている時に、何をするか分からない相手が自由に動いているという状況は、朔にとって不都合以外の何物でもなかった。

 ――結局、俺も奴らと同じじゃねぇか……。

 簡単に人を殺すレオニードと、蒼の父親を殺したという涼介。そして涼介のその告白に胸が詰まりそうな想いを感じていた朔だったが、自分にはそんな資格はないのだと気付いて舌打ちをしたい気分になった。

「――あぁ、下の血はレオニードのだったのか。顔色悪いけど大丈夫? 痩せ我慢は良くないんじゃない?」

 そんな朔の心境も知らず、レオニードが死んだとも思っていなかったであろう涼介は、いつもどおりの調子で階下に向かって声を掛けた。

「お前こそサクを殺そうとしているってことは、不安で仕方がないんだろう? 『折角レオニードを出し抜こうとしたのに、踊らされていたのは俺だった』ってな」

 そう言って笑うと、レオニードは蒼に目を合わせた。その口元は相変わらず弧を描いており、涼介の言う顔色の悪さなど微塵も感じさせない。

「サクを助けたいんだろう? ならこっちに来い」
「え……?」

 レオニードの言葉に、蒼は咄嗟に朔の方を見やった。突然のことでどういうことかは分かっていないが、彼の物言いからすると朔が助かるのかもしれない。自分がレオニードとした取引を思い出して、彼は本当に約束を守ってくれるのではないかという期待が生まれた。

「……よせ」

 朔はどうにかそれだけ絞り出すと、睨みつけるようにして蒼の目を見た。朔は未だに蒼とレオニードの間にあったやりとりを知らない。それでもレオニードと手を組んだという涼介の言葉への反応を思い返すと、蒼は意外とすんなり彼の方へ行ってしまうかもしれないとも感じる。それで蒼の無事が確約されるのであればそれでも構わないが、そうなるとは到底思えなかった。

「言っただろう? 俺はサクを守ってやりたいんだってな」

 その甘言に蒼が腰を少しだけ浮かせれば、朔は掠れるような声で「待て」と咎めた。信じるな――重たい口ではうまく言葉に出せなかったが、視線だけでも力強く訴える。しかしそれは蒼にとって、朔がもう話す力もないのだと、焦燥感を募らせるものにしかならなかった。

「でも……! もし本当だったら、朔さんは死なずに済むかも……!」
「こんな状態でどうにかできるわけないわ! アイツがどんな奴かは分かっているでしょう!?」

 見かねたエレナが慌てて声を上げた。朔を助けたいという蒼の気持ちは分からないでもない。しかし以前、同じように輪島を引き合いに出された自分はレオニードの手を取って、後悔しか残らないことをしてしまったのだ。今の蒼が同じ状況で同じ選択をしようとしているのであれば、それを止めたいと思うのは当然だった。

 蒼は朔とエレナの顔を順に見て、顔を俯かせた。確かに彼らの方が自分よりレオニードという人間のことを知っているだろう。そんな彼らが言うなら、その通りなのかもしれない。

 ──それでも……。

「失礼します」
──」

 蒼は朔の返事も待たずに、そっと彼のシャツをめくった。そして広がった光景に思わず息を飲む。予想していたとはいえ、やはり実際に見ると悲鳴が出そうになった。

「やっぱり……」

 朔の腹部は、ナイフを中心として既に焼け爛れていた。

 ──こんなのもう、病院に行ったって……。

 ただの火傷ですら面積によっては相当危険なはずなのに、この傷は身体の内側から焼け爛れているのだ。素人目にもこの状態で生きて、更には言葉を発しているのは異常なことなのだと分かる。もし仮に今から病院に行けたとしても、朔が助かるとは言い難いだろう。

「朔さん」

 蒼はゆっくりと立ち上がると、朔にそっと微笑んだ。

「ちょっと待っててくださいね」
「お前……」
「蒼ちゃん、君がレオニードの言うこと聞く決意をするのは別にいいんだけどさ、さっき言ったこと忘れてない? 朔を助けようとしても阻止するよって」

 そう警告する涼介は蒼よりも階段に近い場所に立っていた。そしてレオニードは、二階へと上がる階段の踊り場にいる。蒼の位置からだと涼介に通してもらえなければ、階段を下りてレオニードの元に辿り着くことはできない。

 だが、今の蒼にとってそんなことは些細な問題でしかなかった。

「レオニードの元へ行くのを『阻止する』ってことは、朔さんが助かる可能性があるんですね?」
「……参ったな」

 涼介が浮かべた苦笑に蒼は確信すると、レオニードの方に向き直る。

「跳びます」

 そう言うなり、蒼は朔がもたれている手摺りを足場にして吹き抜けの方へと飛び降りた。この洋館の階段は壁に沿って二度切り返しコの字になっているため、蒼が飛んだ方向にも階段はある。しかし距離が足りなければ、そのまま吹き抜けを落ち一階の床に叩きつけられてしまうだろう。
 さらに階段に届いたとしても、跳躍距離を伸ばすために手摺りを足場にして、更に高さを増やしているのだ。運動など高校を卒業して以来まともにしていない大人が、怪我をせずに着地することは難しい。

 それでも、蒼は躊躇わずに跳んだ。朔に比べれば自分の怪我など、大したことではないと思っているのもあるかもしれない。だがそれ以上に、跳ぶと宣言した時にレオニードが愉快そうにニヤリと笑ったことが、蒼の中に僅かに残っていた躊躇を取り去っていた。あの顔をしたということは、こちらの意図は伝わっているということなのだろう。そしてその一瞬の安心感が、不思議と朔を思い出させた。

 ──見間違えたって言ったら、本気で怒られそう……。

 初めて体感する長い浮遊感。非現実的な感覚に暢気なことを考えながら、蒼は直後に全身を襲った衝撃に小さく声を漏らした。

 じんじんと、衝撃を受けた部分が鈍く痛む。しかしそれは徐々に治まっていき、どこかに怪我をしたわけではないと判断するには十分だった。

 安心した蒼がゆっくりと目を開けると、視界には自分の身体を支える太い腕が映った。間に合ってよかったと胸を撫で下ろしたが、同時に頭上から聞こえてきたクツクツという不快な笑い声に我に帰る。それに蒼は今の状況を思い出して、慌てて身体に巻き付く腕を引き剥がした。

「別にもう少しこのままでも良かったんだがな」
「私は嫌です。……でも――」

 顔は思い切り顰めたままだったが、蒼の目はレオニードの脇腹を染める赤色を捉えていた。自分を支えるくらいの体力があるということはあまり深い傷ではなかったのかもしれないが、それでも受け止めた時の衝撃でかなりの痛みはあったはずだ。
 レオニードの状況も考えずに勝手にした行動なのに、それでも瞬時に合わせてくれたのだと気が付くと、蒼は顔の力を抜き感謝の気持ちを伝えるため口を開いた。

「――手伝ってくれて、ありがとうございました」
「今うっかり死なれちゃ困るんだよ」

 レオニードのその言葉の意図を、蒼は正しく理解することができなかった。それを知るうちの一人、朔はもう説明する程体力が残っていないし、残る一人である涼介はまだ言う気すらないようで、困った顔をしながら蒼を見ているだけだ。

「さて」

 不意に、レオニードが解放したばかりの蒼の右腕を掴む。蒼は突然のことに驚きを隠せなかったが、咄嗟に引っ張った腕はびくともしない。

「ルカ、持ってこい」

 その声に蒼がレオニードの視線の先を見てみると、物陰から高校生くらいの少年が現れた。

 ──うわ、美少年……。

 朔やエレナとはまた違った雰囲気の顔立ちをしたその少年は、ここにいるということはロシア人だろう。レオニードの発した日本語に反応したということは、日本語を話せるのかもしれない。難が去ったからだろうか、蒼がのんびりとそんなことを考えていると、少年――ルカは背中に隠してあった両手を前に突き出した。

 その瞬間、蒼はレオニードに握られている箇所が、急に冷たくなったように感じた。

 ――もしかして、あれが……。

 ルカの手には、聖杯が持たれていた。
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