アザー・ハーフ

新菜いに

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第十四章 血の饗宴

57. 始まりの杯

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――現在

 ルカの手に持たれた聖杯を見て、本当に二つあったのかと蒼は顔を顰めた。自分の想像は、事実とは異なると思いたかった。聖杯が二つではなく一つしかなかったのであれば、レオニードの話を聞いて考え至ったあの日の真相は、蒼の妄想で終わるはずだったのだ。

 ――やっぱり、涼介さんは……。

 朔を二度、裏切ったのだ。朔の涼介に対する信頼を利用し、自分の願望を果たそうとした。そして今も、朔の前に彼の命を脅かす者として立っている。その事実がどうしようもなく蒼の心をざわつかせた。

 悔しさに奥歯を噛み締めれば、いくらか冷静さが戻ってくる。そうすると、今度は蒼の胸の中に嫌な予感が湧き上がった。

 ──なんで今、これを出すの……?

 例えば自分がまだ朔の近くにいたなら、レオニードに腕をきつく持たれていなければ、頭を過ぎったその考えを追い払えたかもしれない。

 だがこの状況では追い払うどころか、およそ今関係ないはずのエレナの姉のことまでも思い出さずにはいられない。

 ──首を切られて死んだ……。『今うっかり死なれちゃ困る』っていうのも、まさか……。

 その二つが繋がった時、蒼の背筋をつうっと冷たいものが伝った。

「馬鹿な真似はやめなよ、レオニード」

 突然、それまで黙っていた涼介が口を開いた。レオニードの行動を止めるかのような発言に思わず涼介を見上げると、蒼は続く言葉を待った。

「二つとも持ってるってことは、やっぱりルカに俺のこと付けさせてたのか……。でも蒼ちゃんを死なせたら、朔は絶対にお前を許さないよ。そうなればお前が朔と交渉する材料はなくなるから、お前は死ぬまで朔から逃げなきゃならない。何せ抵抗して朔を死なせちゃったりしたら、それこそお前にとっては都合が悪いしね」
「そりゃ確かに困るな。だが、聖杯を正しく使えば何も問題なくなるさ」

 レオニードの言葉に、涼介が眉をぴくりと小さく動かした。

「俺が全く調べていないとでも?」
「……本当、面倒な奴だよ」

 ――嘘は、吐いてないんだ……。

 蒼は涼介とレオニードのやり取りを聞きながら、朔が助かるのだという確信を強くした。彼らは蒼の死後、つまり聖杯を使った後の話をしている。それにも拘わらず、そこに当然のように朔の名前が出されるということは、彼が生き延びる可能性が高いということだ。しかもレオニードにとって朔を死なせると都合が悪いという情報も、蒼の考えを肯定するものだった。

 ならばレオニードのやろうとしていることに、大人しく従った方がいいのだろうか。蒼が状況を探ろうと涼介の様子をこっそりと窺うと、彼にしては珍しく鋭い視線でレオニードを見ているのが分かった。それがどういう心境によるものなのか、蒼に考えられるものは一つしかない。

 ――涼介さんは、レオニードを阻止したい……? じゃなきゃ、朔さんが助かるから……。

 朔が邪魔になるから殺したいと言う涼介の言い分を考えると、そうなのだろう。今この状況で朔が助かれば、彼が涼介の味方をするとは思えない。
 そうなるとやはり自分も涼介を妨害するべきだ、と蒼は小さく唾を飲んだ。蒼自身が助かるためには、涼介とレオニードの争いは好都合だ。彼らが勝手に争っている間に隙をついて逃げ出せばいい。しかし、もしそれで涼介に聖杯が渡ってしまえば、朔を助ける機会はもうなくなってしまうだろう。朔を助けるためなのであれば、レオニードの望み通り、今すぐにでも聖杯の生贄になるべきなのだということは明らかだった。

 ――朔さんを助けるために自分が死ぬ、って……そういう自己犠牲、朔さん嫌いそうだな……。

 それでも朔がいなければ自分はとうに死んでいたはずなのだ、と蒼は彼と出会った時のことを思い返した。誰も来ない廃工場で、助けを呼ぶこともできず、誰にも気付かれることなく、一人寂しく死んでいくはずだった。そういう意味では、涼介が朔を蒼に引き合わせてくれてよかったのかもしれない。お陰でたった一人で死ぬことはなかったし、今ここで死んだとしても、平和な状況ではないが看取ってくれる人がいることは確実なのだ。

 ――自分勝手だけど……。

 目に涙を滲ませながら、蒼は二階を見上げた。角度があるせいで朔の顔を見ることはできないが、そこにいるのは見える。

 姿が見えたからだろうか、不思議と以前程恐怖は感じなかった。廃工場で初めて死にかけた時も、ゲオルギーに殺されかけた時も、恐ろしくてたまらなかった。それなのに、今は妙に落ち着いている。

 ――ただ死ぬんじゃなくて、代わりに助かる人がいるからかな……。

 いつからそんな善人になったのだと自嘲すると、蒼は大きく息を吸った。

「絶対、朔さんを助けてくださいね。嘘吐いたら化けて出ますから」

 二階から視線を移してレオニードを見つめると、蒼は声に力を込めてそう伝えた。レオニードは一瞬目を見開いたが、すぐに呆れたように片眉を上げる。

「蒼ちゃん!」

 焦ったようなエレナの声を聞きながら、蒼はゆっくりと目を閉じた。

「自分で見届けろ」

 低い声が蒼の鼓膜を揺らす。同時に、掴まれた右腕に鋭い痛みが走った。

いたっ……!?」

 その痛みに咄嗟に蒼は目を開いた。いつの間にか引き上げられていた上着の袖。顕になった白い肌がぱっくりと割れ、あっという間に赤く染まる。

 コトン、とナイフが階段に投げ捨てられた音にはっと我に返ると、蒼は目を白黒させながら痛みの元を見つめた。

「え……腕……?」

 てっきり首を切られるものと思っていた蒼には、目の前の状況が飲み込めなかった。同じように聖杯を使った儀式をしようとして、エレナの姉は首を切られて死んだと聞いている。だが、自分が切られたのは腕だ。深い傷口のため、確かに血が止まらないようにしながら時間をかければ命を落とすことはあるかもしれないが、助かる確率の方がよっぽど高いだろう。

 ――死ななくて、いいの……?

 もしかしたらこれは、レオニードの戯れなのかもしれない。相手を痛めつけながら殺すという男ならば、こうやって一度安心させた上で急に首を狙ってくることだってあるかもしれない。

 蒼はそう思ったが、それが無意味な行為でないことは、近くにいたルカの行動が証明していた。彼は手に持っていた聖杯で、蒼の腕から流れる血を受け止めているのだ。

「言っただろう、お前には今死なれたら困るんだよ」

 蒼には、その言葉を咀嚼することができなかった。それは彼女が思考を放棄したからではない。彼女の思考を、妨げるものがあったからだ。

 ぽた、と最後の一滴が聖杯を満たすと同時に、蒼は全身を何かが通っていく感覚に襲われた。それは彼女の足の裏から脚、胴体と通り抜け頭の先から抜けていったが、元の感覚を取り戻した時にはもう、その場の空気が変わっていた。

 ぞわり、蒼の背筋に悪寒が走る。たった今自分の身に起きたことも嫌な感覚を覚えるものだったが、それは一瞬のことだった。だが今まさに蒼が感じているのは、ねっとりと身体に纏わりつくような、今まで感じたことのある寒気が比べ物にならない程に不快で、悍ましく、身の竦むような感覚だった。

「な、何……?」

 ざわざわと身体中に違和感を覚えて腕を見てみれば、産毛が逆だっているのが見て取れた。全身の毛が逆立つ――身をもって体験することとなったそれに、蒼の耳の奥からはドクドクと心臓が脈打つ音が響いている。

「来たな」

 何が、とは聞くまでもなかった。レオニードが小さく呟くと同時に、その場の空気が更に重たくなったのだ。

 ――何か、いる……。

 姿は見えないのに、蒼には確かにそう感じられた。気配の元を探そうと周りに視線を配ると、レオニードも涼介も、心做しか緊張に顔を強張らせているように思える。
 蒼の位置からでは相変わらず朔の顔は見えないが、代わりに見えたエレナはどこか辛そうな表情を浮かべているし、輪島に至っては困惑と恐怖に包まれているのか、キョロキョロと視線を泳がせ落ち着きがない。唯一ルカと呼ばれた少年だけはつまらなそうな顔だったが、時折周囲を探るように目を動かしていることから、同じように感じていると考えて間違いないだろう。

 ――こんな、急に……?

 ただ聖杯に血を注いだだけで、始まるものなのか。映画で見るような仰々しい儀式を想像していた蒼は、突然始まったそれに呆気に取られるしかなかった。それに悪魔というものを喚ぶからには姿が見えるものだと思い込んでいたが、ただ“そこにいる”という気配を強く感じるだけで、一向に姿を現す様子はない。

「一体、どこに……」
にいるだろう」

 蒼が漏らした問いに、レオニードが答える。先程までの緊張はもうなくなっており、今はいつものように口元に笑みを浮かべていた。

「杯は用意した。俺と契約しろ」

 レオニードが宙に向かって話しかけた途端、その気配は一層強くなった。まるで呼吸ができなくなりそうな程濃密な気配を感じると同時に、蒼は自分の身体の異変に気付いた。

「何、これっ……!?」

 突如襲ってきた激しい頭痛。ガンガンと頭が割れそうなくらいに酷い痛みに、蒼は思わずしゃがみ込んだ。両手で頭を抱え込むが、何の意味もなさない。

「どういうことだ!?」

 蒼の耳にレオニードの怒声が響く。それが自分に向けられた言葉でないことは自然と理解できた。何故なら頭痛の中でも蒼にはのだ、レオニードが話している相手の声が。

 ――『お前は契約の権利を持たない』……?

 何語かは分からないが、不思議と意味を理解することができたその言葉は、レオニードの発言に対する返事だろう。この声とレオニードの会話は噛み合っていることから、彼にもこの声が聞こえているに違いない。

「ならこの腹の傷をどうにかしろ!」

 続けられた言葉に、蒼は少しだけ痛みが和らいだ頭を押さえながら勢い良くレオニードの方に向き直った。

「話が違うじゃないですか……!」

 レオニードは朔を助けると言っていたのだ。悪魔と契約を結ぶなら、その後に朔の怪我を治してくれるのだろうと思っていた。
 だが、その契約は断られた。ならばレオニードは朔の傷を癒やすために動くべきだ。それなのに自分の身体の方を先に要求するというのはどういうことだろうか。代償が必要なはずなのに、朔の方が時間がないのに、何故彼は朔のことを後回しにするのだろうか。

 蒼の中に言い知れない黒い感情が湧き上がる。まるで自分のものとは思えない程に禍々しい感情が、どんどん膨れ上がっていた。

 ――どうして朔さんを助けてくれないの? どうして約束を破るの?

 沸々と湧き上がる感情に身を委ねそうになった時、急に強さを増した頭痛とレオニードに返された返事により、蒼は我に返った。

「え……?」

 その途端、蒼の顔から感情が抜け落ちた。レオニードも同様に、彼にしては珍しく顔を苦々しく歪めている。

 ――『生きていない身体は、治せない』……?

 その意味が、蒼には分からなかった。
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