アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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最終章 願いの代償

64. 裏切りと目的

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 涼介が苦しそうに胸を上下させるレオニードを見下ろすと、彼にはもう時間がないのだということが分かった。蒼に刺された首の傷は致命傷となっており、その身体からは少しずつ黒い煙のようなものが立ち上っている。

 これが最期になる――そう思うと、涼介にはどうしても聞かなくてはならないことがあった。

「なあ、レオニード。お前なんであの日、あんなに早くリューダの家にいたんだよ」

 ずっと分からなかった。聞きたくとも、それを尋ねれば涼介もまた計画を無視した行動をしていたのだと言ってしまうようなもの。聖杯を奪う機会を窺うためにレオニードの近くに居続けようとするならば、それは知られてはいけないことだった。

 しかし、それももう終わりだ。レオニードは結局最初から涼介のことを疑っていたし、彼が死んでしまえばもう聞ける機会など二度と訪れない。

 だから、涼介は今聞かなければならなかった。どうして彼が計画とは違う行動をしたのかを。
 予定では、レオニードと合流するのは朝のはずだったのだ。それは涼介自身も建前上、朝まで荷物の見張りから解放されないという事情もあったが、レオニードにも仕事があると聞いていた。
 それなのに涼介だけでなくレオニードまでもが、予定よりも早く合流場所であるリュドミーラの家にやって来ていたのだ。レオニードが約束を守らないことは珍しくないが、涼介にはどうにもそれが偶然だとは思えなかった。

Лиリー……за……」

 レオニードの口から小さく声が零れる。たった二音しかないそれは、通常であれば意味を伝えるのには不十分だっただろう。しかし涼介には、その一言だけでレオニードの言わんとしていることが分かってしまった。

 ──リーザが、レオニードを早く行かせた……?

「……何、それ。ならリーザは……わざと……?」

『暫くこの仕事はお休み。父が聖杯を別のところに持って行きたいらしいから』

 涼介の頭にリーザの言葉が蘇る。それは彼にとって、聖杯を盗もうとするきっかけとなったものだった。
 この言葉がなければ、聖杯を盗もうなどとは思わなかっただろう。移動するということは、一時的に聖杯の警備に隙が生まれやすくなってもおかしくはないということ。ヴォルコフが関わる物でそんな隙ができる可能性は無に等しかったが、涼介は馬鹿なことを思いついてしまった自分を諦めさせるためにも詳細を調べることにした。

 そしてその結果は、涼介を諦めさせるどころか、むしろ彼の背中を後押しするものだった。
 どうやって聖杯を移動するのか、そしてそれは自分が手を出せる方法なのか──それらを調べたところ、聖杯が日本側の倉庫を経由するのだと分かった。そこで涼介は自分と朔を担当にねじ込み、当日を迎えたのだ。

 安全な場所から聖杯を移動しようとすれば途中で盗まれる危険性があるということを、その管理を任されているリーザが考えないはずがない。そして移動を知る涼介が聖杯を盗むかもしれないということも、その時はレオニードに協力を求めるだろうということも、彼らの関係を知るリーザなら当然予想できたはずなのだ。

 そんな彼女が、レオニードが早くリュドミーラの家に行けるよう何かしらの方法で手を回した。それにどんな意味があったのか、普段だったら特に気にも留めないだろう。だが、あの日に限っては何か意味があったはずだと涼介は考えていた。

 そしてその意味とはおそらく、聖杯に関することだ。聖杯を移動する日に、仕事があったというレオニードが早く解放されるよう手配した。ならばリーザは、レオニードと事を起こす危険性がある人物――涼介のことを疑っていたとしてもおかしくはない。レオニードを泳がせて、涼介がクロかシロか判断しようとした可能性もある。

 だが、事前にそういった動きができたということは、盗みを止めるように直接涼介と話をすることもできたはずなのだ。それなのにそうしなかったのは、リーザは涼介が聖杯を盗む事を容認したということ。しかし当然、最後まで目を瞑るとは考えにくい。
 有り得るとしたら、聖杯を手にし言い逃れができなくなった状態の涼介を捕らえるため――確実に、涼介に制裁を加えるためだ。

 ――まさか、リーザがそんなことするなんて……。

 涼介は自分が意外とリーザを信用していたのだと、この時初めて気が付いた。そうでなければ、胸がこんなに痛むはずはない。息が詰まるようなその感覚に、裏切られるのはこういう気持ちなのか、と口元を歪めた。

 ──いや、最初に裏切ったのは俺か……。

 自分が悪いということなど分かりきっていた。しかし自業自得だと言い聞かせても、目元に力が入ってしまうのを止めることができない。

「あいつの……意思じゃ……」

 涼介の考えを読み取ったかのように、レオニードが付け足す。それに少しばかり胸の痛みが引いたものの、次の瞬間には嫌な予感が涼介を襲った。

 リーザの意思ではない――では、誰の意思だったのか。

「ヴォルコフか……」

 涼介の声に、レオニードが小さく笑みを浮かべる。それを肯定と取って、涼介は理解した――ヴォルコフが、リーザを使って涼介にわざと聖杯を盗ませたのだと。

「なんで、そんなこと……」

 ヴォルコフの目的は分からない。分かりたくもない。

 くしゃくしゃに顔を歪めて、涼介は地面を見つめた。恐らくレオニードも気付いていたのだろう。ふっと自嘲するような笑みを零すと、小さく呟く。

「運が、なかったな……」

 聞き覚えのある言葉を最期に、レオニードの身体は真っ黒な炭になった。


 § § §

『――こうなったのは全部あいつのせいじゃないか!』

 珍しく荒げられた涼介の声が、吹き抜けに響き渡る。

 その様子に暫く呆然としていた朔だったが、涼介の言い放った言葉をやっと理解すると、混乱しながらも口を開いた。

「どういうことだ……? どうしてヴォルコフが自分の物をお前に盗ませようとするんだよ!?」

 朔の声に、涼介ははっとしたように顔を上げた。余計なことを言ってしまったと気付いたが、もう止められない。今まで蓋をされていたその感情は勢いを衰えさせることなく、涼介の中で激しく蠢いている。必死に理性で抑え込もうとしたが、その努力も虚しく彼の口は動いてしまっていた。

「知るかよ! どうせ俺がどこまで信用できるか試すとか、そんなしょうもない理由だったんだろ!? あいつの罠に乗った俺も確かに悪いかもしれない……けど奴だって、レオニードの動きを読み切れなくてあんなことになったじゃないか! あいつが余計なことしなければ、こんなことにならずに済んだのに……!」
「リョウ……」
「なんなんだよ本当……どこまで俺の邪魔すれば気が済むんだよ……」

 そう言って、涼介は項垂れるように顔を俯かせた。押し込めていた不満を吐露して、身体から力が全て抜けてしまったかのようにも見える。それなのに、その顔だけは未だ忌々しげに歪んでいた。口や目が小刻みに震えているが、本人が気付いている様子はない。

 朔にとって初めて見る涼介のその顔は、彼の胸に息苦しさを与えるものだった。深い後悔をしているようにも見えたが、それだけではない。彼の表情は、鏡の中で何度も見覚えがある──朔自身が、島を壊した原因に対して浮かべていたのと同じだった。

 ――リョウは、ヴォルコフを憎んでる……?

 今の話を聞く限り、良い印象を持っていることはないだろう。涼介からしてみれば自分の盗みの失敗はヴォルコフのせいなのだ。それどころか盗むことさえ彼に仕組まれたのだと言われれば、怒りや恨みのような感情は湧いて当然だろう。

 だが朔には、涼介のその感情が最近生まれたものだとは思えなかった。そもそもある程度恨みを持った人間が相手でなければ、その人物にとって大事な物を盗むという発想には至らないはずだ。しかもただ盗むだけでなく、倉庫で火事を起こし、自分を裏切るような真似までして。それは、それだけ涼介の恨みが深いのだと言っているようなものではないのか。

「……だから、俺に近付いたのか?」

 気付けば、朔の口からはそんな言葉が漏れていた。自分が涼介を苦しませる男の子供だという事実。そして、目の前の涼介の他人のような言動。朔がまだ受け入れきれていなかったそれらは、彼の考えを悪い方へと引きずっていた。

「……何?」

 どういうことだと言いたげに涼介が朔を見つめる。その顔からはもう憎しみは読み取れなかったが、どこか悲痛さを感じさせる面持ちをしていた。

「俺がヴォルコフの子供だから、あいつに復讐するために俺に近付いたのか……?」
「そんなこと……」

『別に一度も会ったことのない父親が、誰だろうと関係ない』
『朔にはそうかもね。だけど、俺にとっては違う』

 つい先程したばかりの会話が朔の脳裏に蘇る。もし涼介がヴォルコフを恨んでいたのであれば、彼の息子と知って朔に近付くのは意味があることなのだ。今ここにいる涼介が他人のように見えるのも、彼が最初から自分の前で別人を演じていたのなら当然のことだろう。

 ――全部、嘘だった……?

 幼い自分の前に現れ、兄のように接してくれたことも。知らないことばかりの自分に、たくさんのことを根気強く教えてくれたことも。

 ――全部、ヴォルコフに仕返しするため……?

 だから涼介は、自分を裏切ることも厭わなかったのだ。そう考え至ると、頭の奥からぐらぐらとしてくる。それを止めようと朔は自分の顔に手を当てながら、嘲るように笑った。

「……馬鹿だな。俺に何かしたところで、奴がどうこうするわけねぇだろ」

 吐き捨てるように言った言葉が、弱々しく響く。

「……だったらお前はとっくにレオニードに殺されてるよ」

 涼介もまた、力のない声で呟いた。

「レオニードがお前を殺せなかったのは、ヴォルコフが怖いからだ。お前を殺したら奴の怒りを買う、でも逆にお前を守れば、奴に対して交渉材料になる」
「そんなわけ――」
「お前は、間違いなくヴォルコフの息子だよ」

 そう言って、涼介は深く息を吐いた。もしヴォルコフが朔を息子と認めていなければ、こんなことになっていなかったのかもしれない。レオニードが朔のことを知っていたのは、父親から聞かされていたからだと聞いている。それは彼が、朔のことを息子として意識しているということだ。

 そしてレオニードが知らなければ、自分も知らずに済んだ。ずっと知らないままでいたら、あの日の自分があんな選択をすることはなかったのだ。
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