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最終章 願いの代償
65. 本当に望むもの
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――六年前
「お前、サクとどういう関係なんだ?」
涼介がレオニードと酒を飲み交わしていると、レオニードが思いついたように口を開いた。何の話だ、と暫く涼介はその意味を理解することができなかったが、ややあってから彼の言うサクというのが人の名前だと気付く。するとその途端、自分の心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じた。
「なんで……」
――なんでお前が、朔を知っている?
朔の名前がレオニードの口から出るはずがない。そう思って涼介が訝しげにレオニードを見返せば、彼は意外とばかりに片眉を上げ、ニヤリと笑った。
いつも見ているその表情は、レオニードが心の底から楽しんでいる時に見せるものだ。だからこそ、涼介の背をぞわりと嫌な予感が撫で付けた。この後にレオニードの口から放たれるのがどんな言葉にしろ、自分にとっては良くないものだ――そう、瞬時に察したからだ。
「なんだ、知ってるわけじゃないのか」
「……何をだよ」
「サクは、俺の弟だ」
「は……?」
ぐらりと、頭を鈍器で殴られたかのような感覚がした。
――朔が、レオニードの弟……?
涼介の頭から血の気が引いていく。酒で火照っていたはずの身体は一気に冷たくなり、手に持っていた氷入りのグラスが熱を持っていると錯覚しそうになる。
朔がレオニードの弟だなどと、そんなことがあっていいはずがない。
「何言って……」
否定しようとしたが、うまく言葉が出ない。自分の顔が引き攣るのを感じたが、まるでそこだけ別の誰かのものになってしまったかのように言うことを聞かない。
朔とレオニードの関係など、考えたことも無かった。確かに彼らは珍しい同じ色の瞳を持っているが、それは朔もまたロシア人の血を引いているからだと思っていた。それくらいしか、彼らの共通点はなかったのだ。
「お前の大嫌いなうちの親父の、可愛い可愛い末っ子だよ」
揶揄かうようにレオニードが嘲笑う。涼介がヴォルコフに対してどういう感情を抱いているか、分かった上でやっているのだろう。
つまりこのやり取り自体、レオニードにとっては遊戯のようなものらしい。今ここで何か反応を返せば、彼を愉しませるだけなのだ。それが分かっていても、涼介にはただただ瞳を揺らすことしかできなかった。
「だって……そんな……華さんも、そんなこと一言も……」
「その華って女が、親父に頼んでるらしい。父親だと名乗ってくれるなってな」
「ヴォルコフが、華さんの頼みを聞いてるのか……?」
「そういう存在ってことだろ。悪趣味だよな、俺と殆ど歳の変わらない女なんて」
涼介の耳には、もうろくにレオニードの言葉は届いていなかった。
――朔も、華さんも……俺の家族じゃ……。
自分の努力で得たと思っていた。だからこそ、大事にしようと思っていた。そんな大切なものが、本当は大嫌いな人間のものだった。
涼介は身体の内側がざわつくような不快な感覚を覚えながらも、まるで脳が機能を停止してしまったかのように、もう何も考えることができなかった。
§ § §
昨日のことのように思い出せる鮮明な記憶。しかしそれは涼介にとって、決して良いものではない。耳にこびりついたレオニードの言葉に、涼介はそっと目を伏せた。
『俺がヴォルコフの子供だから、あいつに復讐するために俺に近付いたのか……?』
朔に言われたばかりの言葉が胸に突き刺さる。そんなことあるわけないと、すぐに否定したかった。けれど、言えなかった。
――俺に、その資格はあるのか?
レオニードに真実を告げられるまでは、自信を持って答えられただろう。だがあの日から、朔をヴォルコフの息子として意識してしまっていたのは事実だ。
意識したと言っても、ヴォルコフを彼に重ねたことはない。ただ、自分のものではないのだと。自分は朔と華の本当の家族にはなれないのだという絶望感だけを、味わい続けていたのだ。
それはどんなに頭の中から追い出しても、ふとしたことがきっかけで簡単に戻ってくる。背を向けようとしても、影のように涼介について離れなかった。
だから、あんな簡単な誘いに乗ってしまったのだ。
リーザの言葉が罠だと、考えれば分かったはずだ。自分の仕事内容を考えれば聖杯をどうするかなど言う必要はないし、リーザが口を滑らす性格とも思えない。
それなのに彼女の口から聖杯の移動の話を聞いた時、もしかしたらこれで自分の中に巣食う絶望感から逃れられるかもしれないと思った。そう思ってしまったから、気付かなかった。
『――信じてる』
聖杯の移動の話をした後、別れ際にそう言ったリーザが苦しそうな表情をしていたことに。仕事で何度か同じ時を過ごす中で、彼女もまた自分にとっては友人と言える存在になっていたのに。
たった一つの受け入れ難い事実に、あらゆるものから目を逸らしていたのは他でもない、自分自身なのだ。
「なんで俺の周りにはヴォルコフの関係者ばっか集まるのかなぁ……。あいつのせいで俺は普通に暮らせなくなったのに……大事だと思ったものも……自分で手に入れたと思ったものまで、全部奴に関わりがあるんだ……」
悲痛さを押し殺したような声で、涼介が絞り出した。
──リョウは、後から気付いた……?
朔の頭が、すっと冷えていく。涼介の発言に自分の考えが間違っていたのかもしれないと気付いて、呼吸が浅くなるのが分かった。
「お前……俺のこと、いつ知ったんだ……?」
涼介が言っているものが何を指すのかは分からない。だが朔は漠然と、それに自分も含まれているのではないかと思った。もしそうなら、それは最初から朔の素性を知って近付いた者の言葉では有り得ない。
――嘘じゃなかった……? 全部、本物だった……?
自分に見せた表情も、優しさも、全て。嘘だと思ったのは勘違いで、本当は涼介が本心からそうしてくれていたのだとしたら。
都合の良い解釈だとは自覚していた。それでも、そう思ってしまうのは止められない。今の涼介の姿も嘘かもしれないと頭の片隅で考えつつも、自分の知る彼が作り物ではなかった可能性があるのなら、それを信じたくなるのは当然のことだ。
だが同時に、朔を後悔が襲った。もし涼介が自分に見せていた姿が本物なのであれば、やはり彼は兄であろうとしてくれていたのだ。疑心暗鬼に陥った自分は、そんな相手にとんでもないことを言ってしまったのではないか。たとえ涼介のしたことが許されないことでも、兄としての彼を否定するのは本意ではないのに。
「もうどうでもいいだろ、そんなこと。それに今話したって、どうせあの日をやり直せば全部無かったことになる」
はっとして朔が顔を上げれば、涼介は完全に落ち着きを取り戻した様子でそこに立っていた。すっかり見慣れた、他人のような涼介だ。
それに朔は状況を思い出すと、腕に力を込めた。腕から伝わる蒼の身体は、少しずつ冷たくなっていっているように感じる。時間がない──そう思い直し、涼介を睨みつけた。
「そんなことさせねぇって言ってんだろ」
「蒼ちゃんが助からなくていいわけ?」
「お前……」
「邪魔しないでよ、朔。俺を敵視するお前なら、いらない」
そう言って、涼介は手にしていた聖杯を放り投げて朔に襲いかかった。宙を舞う聖杯に気を取られた朔は、一瞬のことに動けない。
辛うじて腕に抱えた蒼を庇おうと咄嗟に自分の半身を差し出したが、涼介の狙いは朔なのだ。涼介はレオニードの首から回収していたナイフを取り出すと、朔の首を狙って切りつけた。
二人の間を鮮血が舞う。
しかし涼介はその量に狙いが外れたことに気付くと、続けざまにナイフを振りかぶった。今度こそ外さないように──そう思って、狙いをつけるため一瞬で朔の全身を観察する。
直後、その動きが止まった。
「なんで……」
涼介の目は、朔の腕を見ていた。そこにある真新しい傷口に囚われてしまったかのように、目を離すことができない。
ぱっくりと割れた肌からは、真っ赤な血が滴り落ちている。涼介にとっては珍しくもない光景だったが、それでも彼の動きを止めるには十分だった。
――切り傷だけ……?
そんなはずはない、と慌てて手に持つナイフに視線を移す。先程レオニードの命を奪ったばかりのこのナイフは、間違いなく銀でできているのだ。それなのに、銀に触れたはずの朔の肌に火傷が戻らないという状況が、涼介を混乱させていた。
――もしかして、本当に彼女が……?
少し前に二階に戻って来る時、涼介は耳を打つ朔の大声に驚かされた。勿論、その声の大きさだけではない。死にかけていた彼が、助ける方法などもう残されていなかったはずの人間が、そんなことなどなかったかのように声を張り上げていたからだ。
その驚きは彼らに声を掛ける直前に、朔の姿を見てより大きくなった。自分が刺した傷だけでなく、シャツで見えないが腹部にあったであろう火傷までも、彼の様子から考えて消えているのだと分かったからだ。
その状況に、一つの可能性が頭を過ぎった。
――蒼ちゃんが治したのは、傷だけじゃなかった……?
そんなこと、有り得ない。だが今の状況は、涼介の脳裏に浮かんだ可能性が現実に起こっているのだと示している。
涼介は無意識のうちに、朔の腕の中でぐったりとしている蒼を見つめていた。彼女の半身を覆う火傷ができた経緯を、涼介は詳しくは知らない。一階でルカ達の対処をしていた時に聞こえてきた会話を思い出す限りだと、確か彼女は自分たちと同じ方法で朔の傷を治そうとしたはずだ。だがもしそうなのであれば、たとえ傷は治せても蒼が火傷を負う理由はない。そして、朔の身体が元に戻る理由もない。
――血の持ち主だから、普通と違う事が起きた……?
涼介が知る限り、血の持ち主――契約の権利を持つ者に現れる異常は二つある。まず一つ目が、精神汚染。聖杯にその血を注いだ人間は、どういうわけか精神を侵され、いずれ他人の言葉が届かなくなる。そうなった人間を殺すのが、涼介がリーザから頼まれた仕事だった。
そして二つ目は、願いがなくとも悪魔の声が聞こえること。契約者なのだから当然だろう、確証はないがもしかしたらこの声が精神汚染を引き起こしているのかもしれない。
涼介が知っているのは、これだけだった。リーザがやっていたのは、正常な精神を保ったまま人間が悪魔と契約するための実験――何度か彼女の仕事に立ち会って得た情報はこれだけだ。だから、今の朔と蒼の状況は涼介にも理解できていなかった。
――でも……もし蒼ちゃんが、向こうの朔を取り返せたのだとしたら……。
あの日以来、置いてきぼりになってしまった向こう側の自分達。それを蒼が取り返したのだとしたら。
蒼が今死にかけているのは、その肩代わりをしたからではないか。朔自身が払っていたはずの半分の命の、帳尻を合わせるために。
――契約しなくても取り戻せる……? いや、そもそも契約したところで本当に時間は戻るのか……?
リーザの実験に付き合っていたが、結局成功者は出なかった。だから契約した先にあるものを涼介は知らない。それは恐らくリーザも同じだろう。
――島を壊す、人の命を助ける……それくらいは確かにできるかもしれない。けど、命を助けるのだって不十分だったじゃないか……。
半分地獄にいるようなもの――レオニードの言葉が脳裏に浮かぶ。彼がそう思い至ったのは、時折襲われる、何かに引きずり込まれるような感覚の先を辿ったからだ。
『あれは俺だな』
レオニードのその言葉が信じられなかった。だがその一方で、納得できたのも事実だ。この身体が物をすり抜けられるのは、結局境界が曖昧だからではないのか。半分しかこちらになくて、もう半分はレオニードの言う地獄のような場所にあるのだとしたら。
――そんな俺達は、生きてるって言えるのか?
もし、地獄というものが本当にあるのなら。半身を地獄においたまま不十分な形でこの世に留まっている自分たちは、果たして生きていると言えるのだろうか。
そこまで考えた時、涼介の頭を蒼の言葉が過ぎった。
『生きてないって……そんなの嘘です! 悪魔だかなんだか知らないけど、勝手なこと言わないでよ……!』
まだレオニードが悪魔とやり取りをしていた時。その会話を聞いて、蒼が上げた怒声。
あの時蒼が叫んでいた相手は悪魔のはずだ。そんな相手にあの流れでそう憤るということは、生きていないから助けられないとでも言われたのだろうか。そう考え至ると、涼介の口からは乾いた笑みが零れた。
聖杯の力は、その程度なのだ。一度代償として取られかけた命は、聖杯を使っても半分しか取り返せない。そして取り戻した半分も、聖杯の悪魔の感覚では生きているとは言えないらしい。
時間を巻き戻すという願いなら違うかもしれない。だがそれによって取り戻そうとしているのは、同じく願いの代償として取られてしまった命なのだ。
――うまくいっても、俺たちみたいな生き残りを増やすだけ……?
それも、希望的観測だ。自分たちの時にはまだ、身体が辛うじて生きていた。だが既に全部取られてしまった彼らの肉体は、もうとっくに死んでいる。朔がどうしたかは分からないが、少なくとも自分やレオニード達は見かけた遺体の埋葬すらしていないのだ。炭となった身体が長期間風雨にさらされて、元のまま残っているとは思えなかった。
――俺のしようとしたことは、全部無駄だった……?
失敗を取り返すため、そのために邪魔になるものは全て切り捨てた。やり遂げたら彼らは生き返る――そう、根拠のない言い訳を自分に言い聞かせて。
だが、それも結局うまく行かなかった場合。
朔に恨まれ、レオニードも、華まで死なせて……。
――俺のしたかったのは、こんなことだった?
涼介はそっと朔を見た。突然動きを止めた自分に、朔は困惑したような顔でこちらを見つめている。それに不思議と出会ったばかりの朔の姿が思い出されて、涼介の中には一つの考えが浮かんだ。
――俺がしたかったのは……ただ……。
ごくり、と一つ唾を飲む。愚かな自分に残されたのは、この方法しかない。
「――朔、蒼ちゃんを頂戴」
そう言うやいなや、涼介は驚きに目を見開く朔と一気に距離を詰めた。咄嗟に振り払おうと伸びてきた朔の腕を掴み、できたばかりの傷に指を突っ込む。
痛みで動きを止めた朔の隙を突いて、涼介はその腕から蒼を奪い取った。意識のない身体は重たかったが、朔を蹴りつける反動を使って距離を取る。
「リョウ!」
朔の怒声が響き渡る。しかしそれを気に留めることなく、涼介は蒼の右半身へと手を伸ばした。血塗れの身体はぬるりと滑って、自分が今触れているのが外側なのか内側なのか分からなくなる。
「そういや前に、なんで俺が島から出たがってたか聞いてきたよな――」
自分に駆け寄る朔を見て、涼介は無意識のうちに笑みを零していた。
「――島から出たら、全部受け入れられるんじゃないかって思ったんだよ」
次の瞬間、涼介の腕を焼けるような痛みが襲った。
「お前、サクとどういう関係なんだ?」
涼介がレオニードと酒を飲み交わしていると、レオニードが思いついたように口を開いた。何の話だ、と暫く涼介はその意味を理解することができなかったが、ややあってから彼の言うサクというのが人の名前だと気付く。するとその途端、自分の心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じた。
「なんで……」
――なんでお前が、朔を知っている?
朔の名前がレオニードの口から出るはずがない。そう思って涼介が訝しげにレオニードを見返せば、彼は意外とばかりに片眉を上げ、ニヤリと笑った。
いつも見ているその表情は、レオニードが心の底から楽しんでいる時に見せるものだ。だからこそ、涼介の背をぞわりと嫌な予感が撫で付けた。この後にレオニードの口から放たれるのがどんな言葉にしろ、自分にとっては良くないものだ――そう、瞬時に察したからだ。
「なんだ、知ってるわけじゃないのか」
「……何をだよ」
「サクは、俺の弟だ」
「は……?」
ぐらりと、頭を鈍器で殴られたかのような感覚がした。
――朔が、レオニードの弟……?
涼介の頭から血の気が引いていく。酒で火照っていたはずの身体は一気に冷たくなり、手に持っていた氷入りのグラスが熱を持っていると錯覚しそうになる。
朔がレオニードの弟だなどと、そんなことがあっていいはずがない。
「何言って……」
否定しようとしたが、うまく言葉が出ない。自分の顔が引き攣るのを感じたが、まるでそこだけ別の誰かのものになってしまったかのように言うことを聞かない。
朔とレオニードの関係など、考えたことも無かった。確かに彼らは珍しい同じ色の瞳を持っているが、それは朔もまたロシア人の血を引いているからだと思っていた。それくらいしか、彼らの共通点はなかったのだ。
「お前の大嫌いなうちの親父の、可愛い可愛い末っ子だよ」
揶揄かうようにレオニードが嘲笑う。涼介がヴォルコフに対してどういう感情を抱いているか、分かった上でやっているのだろう。
つまりこのやり取り自体、レオニードにとっては遊戯のようなものらしい。今ここで何か反応を返せば、彼を愉しませるだけなのだ。それが分かっていても、涼介にはただただ瞳を揺らすことしかできなかった。
「だって……そんな……華さんも、そんなこと一言も……」
「その華って女が、親父に頼んでるらしい。父親だと名乗ってくれるなってな」
「ヴォルコフが、華さんの頼みを聞いてるのか……?」
「そういう存在ってことだろ。悪趣味だよな、俺と殆ど歳の変わらない女なんて」
涼介の耳には、もうろくにレオニードの言葉は届いていなかった。
――朔も、華さんも……俺の家族じゃ……。
自分の努力で得たと思っていた。だからこそ、大事にしようと思っていた。そんな大切なものが、本当は大嫌いな人間のものだった。
涼介は身体の内側がざわつくような不快な感覚を覚えながらも、まるで脳が機能を停止してしまったかのように、もう何も考えることができなかった。
§ § §
昨日のことのように思い出せる鮮明な記憶。しかしそれは涼介にとって、決して良いものではない。耳にこびりついたレオニードの言葉に、涼介はそっと目を伏せた。
『俺がヴォルコフの子供だから、あいつに復讐するために俺に近付いたのか……?』
朔に言われたばかりの言葉が胸に突き刺さる。そんなことあるわけないと、すぐに否定したかった。けれど、言えなかった。
――俺に、その資格はあるのか?
レオニードに真実を告げられるまでは、自信を持って答えられただろう。だがあの日から、朔をヴォルコフの息子として意識してしまっていたのは事実だ。
意識したと言っても、ヴォルコフを彼に重ねたことはない。ただ、自分のものではないのだと。自分は朔と華の本当の家族にはなれないのだという絶望感だけを、味わい続けていたのだ。
それはどんなに頭の中から追い出しても、ふとしたことがきっかけで簡単に戻ってくる。背を向けようとしても、影のように涼介について離れなかった。
だから、あんな簡単な誘いに乗ってしまったのだ。
リーザの言葉が罠だと、考えれば分かったはずだ。自分の仕事内容を考えれば聖杯をどうするかなど言う必要はないし、リーザが口を滑らす性格とも思えない。
それなのに彼女の口から聖杯の移動の話を聞いた時、もしかしたらこれで自分の中に巣食う絶望感から逃れられるかもしれないと思った。そう思ってしまったから、気付かなかった。
『――信じてる』
聖杯の移動の話をした後、別れ際にそう言ったリーザが苦しそうな表情をしていたことに。仕事で何度か同じ時を過ごす中で、彼女もまた自分にとっては友人と言える存在になっていたのに。
たった一つの受け入れ難い事実に、あらゆるものから目を逸らしていたのは他でもない、自分自身なのだ。
「なんで俺の周りにはヴォルコフの関係者ばっか集まるのかなぁ……。あいつのせいで俺は普通に暮らせなくなったのに……大事だと思ったものも……自分で手に入れたと思ったものまで、全部奴に関わりがあるんだ……」
悲痛さを押し殺したような声で、涼介が絞り出した。
──リョウは、後から気付いた……?
朔の頭が、すっと冷えていく。涼介の発言に自分の考えが間違っていたのかもしれないと気付いて、呼吸が浅くなるのが分かった。
「お前……俺のこと、いつ知ったんだ……?」
涼介が言っているものが何を指すのかは分からない。だが朔は漠然と、それに自分も含まれているのではないかと思った。もしそうなら、それは最初から朔の素性を知って近付いた者の言葉では有り得ない。
――嘘じゃなかった……? 全部、本物だった……?
自分に見せた表情も、優しさも、全て。嘘だと思ったのは勘違いで、本当は涼介が本心からそうしてくれていたのだとしたら。
都合の良い解釈だとは自覚していた。それでも、そう思ってしまうのは止められない。今の涼介の姿も嘘かもしれないと頭の片隅で考えつつも、自分の知る彼が作り物ではなかった可能性があるのなら、それを信じたくなるのは当然のことだ。
だが同時に、朔を後悔が襲った。もし涼介が自分に見せていた姿が本物なのであれば、やはり彼は兄であろうとしてくれていたのだ。疑心暗鬼に陥った自分は、そんな相手にとんでもないことを言ってしまったのではないか。たとえ涼介のしたことが許されないことでも、兄としての彼を否定するのは本意ではないのに。
「もうどうでもいいだろ、そんなこと。それに今話したって、どうせあの日をやり直せば全部無かったことになる」
はっとして朔が顔を上げれば、涼介は完全に落ち着きを取り戻した様子でそこに立っていた。すっかり見慣れた、他人のような涼介だ。
それに朔は状況を思い出すと、腕に力を込めた。腕から伝わる蒼の身体は、少しずつ冷たくなっていっているように感じる。時間がない──そう思い直し、涼介を睨みつけた。
「そんなことさせねぇって言ってんだろ」
「蒼ちゃんが助からなくていいわけ?」
「お前……」
「邪魔しないでよ、朔。俺を敵視するお前なら、いらない」
そう言って、涼介は手にしていた聖杯を放り投げて朔に襲いかかった。宙を舞う聖杯に気を取られた朔は、一瞬のことに動けない。
辛うじて腕に抱えた蒼を庇おうと咄嗟に自分の半身を差し出したが、涼介の狙いは朔なのだ。涼介はレオニードの首から回収していたナイフを取り出すと、朔の首を狙って切りつけた。
二人の間を鮮血が舞う。
しかし涼介はその量に狙いが外れたことに気付くと、続けざまにナイフを振りかぶった。今度こそ外さないように──そう思って、狙いをつけるため一瞬で朔の全身を観察する。
直後、その動きが止まった。
「なんで……」
涼介の目は、朔の腕を見ていた。そこにある真新しい傷口に囚われてしまったかのように、目を離すことができない。
ぱっくりと割れた肌からは、真っ赤な血が滴り落ちている。涼介にとっては珍しくもない光景だったが、それでも彼の動きを止めるには十分だった。
――切り傷だけ……?
そんなはずはない、と慌てて手に持つナイフに視線を移す。先程レオニードの命を奪ったばかりのこのナイフは、間違いなく銀でできているのだ。それなのに、銀に触れたはずの朔の肌に火傷が戻らないという状況が、涼介を混乱させていた。
――もしかして、本当に彼女が……?
少し前に二階に戻って来る時、涼介は耳を打つ朔の大声に驚かされた。勿論、その声の大きさだけではない。死にかけていた彼が、助ける方法などもう残されていなかったはずの人間が、そんなことなどなかったかのように声を張り上げていたからだ。
その驚きは彼らに声を掛ける直前に、朔の姿を見てより大きくなった。自分が刺した傷だけでなく、シャツで見えないが腹部にあったであろう火傷までも、彼の様子から考えて消えているのだと分かったからだ。
その状況に、一つの可能性が頭を過ぎった。
――蒼ちゃんが治したのは、傷だけじゃなかった……?
そんなこと、有り得ない。だが今の状況は、涼介の脳裏に浮かんだ可能性が現実に起こっているのだと示している。
涼介は無意識のうちに、朔の腕の中でぐったりとしている蒼を見つめていた。彼女の半身を覆う火傷ができた経緯を、涼介は詳しくは知らない。一階でルカ達の対処をしていた時に聞こえてきた会話を思い出す限りだと、確か彼女は自分たちと同じ方法で朔の傷を治そうとしたはずだ。だがもしそうなのであれば、たとえ傷は治せても蒼が火傷を負う理由はない。そして、朔の身体が元に戻る理由もない。
――血の持ち主だから、普通と違う事が起きた……?
涼介が知る限り、血の持ち主――契約の権利を持つ者に現れる異常は二つある。まず一つ目が、精神汚染。聖杯にその血を注いだ人間は、どういうわけか精神を侵され、いずれ他人の言葉が届かなくなる。そうなった人間を殺すのが、涼介がリーザから頼まれた仕事だった。
そして二つ目は、願いがなくとも悪魔の声が聞こえること。契約者なのだから当然だろう、確証はないがもしかしたらこの声が精神汚染を引き起こしているのかもしれない。
涼介が知っているのは、これだけだった。リーザがやっていたのは、正常な精神を保ったまま人間が悪魔と契約するための実験――何度か彼女の仕事に立ち会って得た情報はこれだけだ。だから、今の朔と蒼の状況は涼介にも理解できていなかった。
――でも……もし蒼ちゃんが、向こうの朔を取り返せたのだとしたら……。
あの日以来、置いてきぼりになってしまった向こう側の自分達。それを蒼が取り返したのだとしたら。
蒼が今死にかけているのは、その肩代わりをしたからではないか。朔自身が払っていたはずの半分の命の、帳尻を合わせるために。
――契約しなくても取り戻せる……? いや、そもそも契約したところで本当に時間は戻るのか……?
リーザの実験に付き合っていたが、結局成功者は出なかった。だから契約した先にあるものを涼介は知らない。それは恐らくリーザも同じだろう。
――島を壊す、人の命を助ける……それくらいは確かにできるかもしれない。けど、命を助けるのだって不十分だったじゃないか……。
半分地獄にいるようなもの――レオニードの言葉が脳裏に浮かぶ。彼がそう思い至ったのは、時折襲われる、何かに引きずり込まれるような感覚の先を辿ったからだ。
『あれは俺だな』
レオニードのその言葉が信じられなかった。だがその一方で、納得できたのも事実だ。この身体が物をすり抜けられるのは、結局境界が曖昧だからではないのか。半分しかこちらになくて、もう半分はレオニードの言う地獄のような場所にあるのだとしたら。
――そんな俺達は、生きてるって言えるのか?
もし、地獄というものが本当にあるのなら。半身を地獄においたまま不十分な形でこの世に留まっている自分たちは、果たして生きていると言えるのだろうか。
そこまで考えた時、涼介の頭を蒼の言葉が過ぎった。
『生きてないって……そんなの嘘です! 悪魔だかなんだか知らないけど、勝手なこと言わないでよ……!』
まだレオニードが悪魔とやり取りをしていた時。その会話を聞いて、蒼が上げた怒声。
あの時蒼が叫んでいた相手は悪魔のはずだ。そんな相手にあの流れでそう憤るということは、生きていないから助けられないとでも言われたのだろうか。そう考え至ると、涼介の口からは乾いた笑みが零れた。
聖杯の力は、その程度なのだ。一度代償として取られかけた命は、聖杯を使っても半分しか取り返せない。そして取り戻した半分も、聖杯の悪魔の感覚では生きているとは言えないらしい。
時間を巻き戻すという願いなら違うかもしれない。だがそれによって取り戻そうとしているのは、同じく願いの代償として取られてしまった命なのだ。
――うまくいっても、俺たちみたいな生き残りを増やすだけ……?
それも、希望的観測だ。自分たちの時にはまだ、身体が辛うじて生きていた。だが既に全部取られてしまった彼らの肉体は、もうとっくに死んでいる。朔がどうしたかは分からないが、少なくとも自分やレオニード達は見かけた遺体の埋葬すらしていないのだ。炭となった身体が長期間風雨にさらされて、元のまま残っているとは思えなかった。
――俺のしようとしたことは、全部無駄だった……?
失敗を取り返すため、そのために邪魔になるものは全て切り捨てた。やり遂げたら彼らは生き返る――そう、根拠のない言い訳を自分に言い聞かせて。
だが、それも結局うまく行かなかった場合。
朔に恨まれ、レオニードも、華まで死なせて……。
――俺のしたかったのは、こんなことだった?
涼介はそっと朔を見た。突然動きを止めた自分に、朔は困惑したような顔でこちらを見つめている。それに不思議と出会ったばかりの朔の姿が思い出されて、涼介の中には一つの考えが浮かんだ。
――俺がしたかったのは……ただ……。
ごくり、と一つ唾を飲む。愚かな自分に残されたのは、この方法しかない。
「――朔、蒼ちゃんを頂戴」
そう言うやいなや、涼介は驚きに目を見開く朔と一気に距離を詰めた。咄嗟に振り払おうと伸びてきた朔の腕を掴み、できたばかりの傷に指を突っ込む。
痛みで動きを止めた朔の隙を突いて、涼介はその腕から蒼を奪い取った。意識のない身体は重たかったが、朔を蹴りつける反動を使って距離を取る。
「リョウ!」
朔の怒声が響き渡る。しかしそれを気に留めることなく、涼介は蒼の右半身へと手を伸ばした。血塗れの身体はぬるりと滑って、自分が今触れているのが外側なのか内側なのか分からなくなる。
「そういや前に、なんで俺が島から出たがってたか聞いてきたよな――」
自分に駆け寄る朔を見て、涼介は無意識のうちに笑みを零していた。
「――島から出たら、全部受け入れられるんじゃないかって思ったんだよ」
次の瞬間、涼介の腕を焼けるような痛みが襲った。
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