氷の森で苺摘み〜女装して継母のおつかいに出た少年が王子に愛される話〜

おりたかほ

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第十九章 地下牢

1 夜の木漏れ日※

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1 夜の木漏れ日


 ケイトの記憶から、僕が消えた。ピノが指先をぱちんと鳴らしただけで、あっけなく。

 僕の命の一部が、星みたいに輝きながら、ピノの手の中にあった。

 僕は魂を売ってしまった。ケイトの中の僕も死んでしまった。

 僕はしばらく、苦しくて何も考えられなかった。ケイトに忘れられることが、こんなに辛いとは思わなかった。

 ケイトがあの優しい眼差しで僕を見てくれることは二度とない。全ては僕が望んだこと。

 ピノにしがみついて声に出して泣いて、ようやく、落ち着くことができた。

 ケイトのいない世界なんて、僕には何の意味もない。そのことに気がついたのは、涙が止んでからだった。

「ザクロと話を付けたら、僕と暮らしてくれる?」

 僕にキスし、髪をまさぐりながらピノはささやいた。

 僕はもう、今すぐ森に行っても構わない気持ちだった。

 ザクロさんに会って、僕のルーツを聞き出して、それで、何だっていうんだろう。

「うん」

 僕は空っぽのまま頷いた。

 ピノは僕を押し倒すと、さらに深くくちびるを重ねてきた。僕はされるがままになっていた。

 月も星も巡るし、数時間後には太陽ものぼる。僕が何者であっても。ケイトが僕を知らなくても。

 今すぐにでも、氷の森に消えてしまいたい。

「ダメだよ、アリオト・ビョルン!」

 突然、ピノは僕を突き放すと大きな声で叫んだ。

「もっと喜べ!」

 そんな命令、聞いたこともなかった。でも、僕はハッとした。

 目の前にいるピノの苦しそうな顔に、この時、ようやく気が付いたんだ。

 せっかくピノが色々やってくれたのに、僕は泣いたりして悪かった。

 喜ぶのは難しかった。でも、微笑むことならできた。それは、名前を呼ばれて命じられたからじゃない。ピノが僕のためにしてくれたこと全てへの感謝からだった。

 気分が悪いと言うピノが心配になって、僕は身を起こした。でもピノは、顔をしかめて飛び退いてしまった。

 ピノは僕に、とにかくもう二度とあんな顔で泣くなと言って怒るんだ。僕は努力するよと答えて苦笑した。

 その時だった。

「誰かいるのか?」

 生垣の迷路の奥から、ゆらゆらとカンテラの光が近付いてくる。

 ピノはすでに白いイタチに姿を変えていた。僕の腕を駆け上ってくると、首元にくるりと巻き付いた。まるで毛皮の襟巻きみたいだ。

 誰だろう。お城の見回りの人だろうか。僕は固唾を飲んで、近付いてくる光の奥を見やった。

「あれ、もしかしてオトさん……?」
「……え?」

 声の主は掲げていたカンテラを胸元まで下げた。灯に照らされて見えたのは、この間、ジュンを訪ねた時に兵舎を案内してくれた近衛兵さんだった。

「近衛兵さん!」

 僕はほっとして、こんばんはを言った。指で首元のピノをポンポンと撫で、大丈夫だよと囁く。

「ちょ、こんな暗いところで何してるんすか!」
「ごめんなさい……」
「いや、謝ることはないですけどね。危ないですよ? あ、もしかして隊長もご一緒ですか」

 僕は首を振った。僕が無断でここに来てしまったとわかると、隊長が心配しているのではないかと近衛さんは言った。

 そういえば、この近衛さんはジュンの熱烈な信奉者なんだった。

「お願い。ジュンには言わないで」
「じ、ジュン……」

 小姓が主人を呼び捨てするのは変だったのだろうか。近衛さんは夜目にもわかるくらいに顔を赤らめた。

「近衛さんはどうしてここに? 見回りですか?」
「うん、いや、まあそんなとこ」

 近衛さんは何となく目を泳がせて口を濁した。聞かれたくなかったのかもしれない。困らせるつもりはなかったので、僕は話を変えた。

「僕はね、春の女神様が見たくて来たんだ」
「春の女神……」
「知ってる?」
「もちろんですよ。案内しましょうか?」

 神殿の中には勝手に入るわけにいかないと諦めていたところだった。僕はよろこんで近衛さんの後に付いて行った。

 近衛兵舎の時もそうだったけど、近衛さんはとっても饒舌だ。名前はニケと言うそうだ。

 ニケは庭を抜ける間にも、神殿の作りや彫刻についていろいろ教えてくれた。

 その間にも、ピノは大人しく首に巻きついている。きっと襟巻きになりきっているんだ。

「ピノ、動いても大丈夫だよ」

 小さい声で言うけど、ピノは全然動かない。よほどニケを警戒しているか、あるいは、寝てしまったのかもしれない。

 あったかいし、呼吸と小さな鼓動はちゃんとしているので、僕はそっとしておくことにした。

「はいどうぞ」

 近衛さんは神殿の扉を開けてくれた。

「わあ……」

 そこは不思議な神殿だった。普段ミサをする教会とはまるで違った。説教壇も参拝席もなく、どこが正面なのか分からない。

 柱と天井の梁には、四隅に植えられた神木が生きたまま使われていた。蔦が這い、苔も生え、落葉もする。その巨木と共存するようにして、古い石造の神殿は立っていた。

 壁には、ステンドグラスと彫刻が所狭しと嵌め込まれている。見上げると、天井にまで星座の彫刻と絵画が続いていた。

 僕は口を開けたまま神殿の中を見渡した。首が痛くなるくらい見上げていた。この中から春の女神様を探すのは至難の業かもしれない。

「気持ちはわかりますけどね、ちょっと足元を見てくださいよ」

 ニケは笑いながら僕の足元を指さした。ツヤツヤした石床の中央には、大きな羅針盤のようなものが描かれていた。

「矢印の方向を辿っていくと、四方に柱があるでしょ」
「うん……確かに」
「東西南北に、それぞれ、春夏秋冬の女神様がいると言われてんすよ」

 ニケは、東の柱の前に僕を連れて行ってくれた。天井まで伸びた太い柱の中央に、白い大理石で彫られた女神様がいた。

「あれが、春の女神様って呼ばれています。騎士たちは東を向いて、あの乙女に見守られながら叙勲の式を受けるんです」

 僕は女神様の顔を見上げた。美しい若い女神様だった。大理石の白い優しい目で、僕を見下ろしていた。父さんは、あの女神様に母さんの面影を見たんだ。

 僕はひざまずいて、祈りを捧げた。

 石像を見ても、母さんの顔はやっぱり思い出せない。

 だけど、ここにこうしていると、夜なのに木漏れ日に包まれているような気持ちになった。

 不思議なんだけど、木漏れ日が揺れるたびに、僕はいつも母さんの眼差しを思い出すんだ。

「消えたいなんて言ってごめんなさい」

 父さんは僕たちを愛してくれた。母さんもそう。

 そして僕も、確かにケイトを愛したんだ。

 その事実だけは、絶対になくならない。たとえ、記憶は消えてしまったとしても。絶対に消えない何かは残る。

「ケイトが幸せでありますように」

 離れても、消えても、僕は君が大好き。たった三日間のうちに、君は、僕の一生を貫く全てになった。

「ずっとずっと大好きだよ」

 僕は女神様にだけ聞こえるように呟いた。そして、心が凪いでくるまで、ずっとそうしていた。





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