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第二十三章 ビョルンの屋敷
5 溺れた小人
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5 溺れた小人
うっすらと呼吸はあったので、僕はお爺さんの脇に手を入れて、岸まで運んだ。
ザクロさんのたくましい腕が、本当にありがたい。前の僕の体だったら、きっとお手上げだっただろう。
お爺さんは小柄とはいえ、気を失って力の入らない体は水にすぐ攫われてしまうし、岸に引き上げようとすれば、濡れた衣服のまとわりついた体は岩のように重たかった。
ぬかるんだ土と枯れ草の上を引きずって、川岸の平らな場所にお爺さんを寝かせた。
賢いファラダは、僕が何も言わなくても水の中を器用に進んで、側まで来てくれた。僕はお爺さんの胸元に耳をつけた。
「心臓が動いてる」
ファラダがそっと口先でお爺さんの体をゆすった。ぴくりと指が動く。
船で溺れた人を助ける方法を、昔父さんに習ったことがあった。
「じ、人口呼吸っていったっけ……」
まさかこんなところで使う日がくるとは思わなかったけれど、そして、ザクロさんの姿でそれをする羽目になるとは思わなかったけど、思い切って実践すべき時だろう。
僕はお爺さんの顎に手を添えて顔を傾け、口を開けさせた。ファラダが珍しくヒイ……ンと鳴いた。僕だってちょっと泣きたい気持ちだったけど、仕方ない。目をつぶってお爺さんの口に自分の口を近付けた。
「ゴホッ!」
僕が息を吹き込む前に、お爺さんは激しくむせはじめた。
「うわあっ」
僕は慌てて顔を離した。
「ごふっ……ゲホゲホゲホッ」
お爺さんの口からはものすごい量の水と泥と枯葉が出てきた。
「大丈夫ですか?」
お爺さんは苦しそうに肺のあたりを抑えて、激しくむせながら上半身をよじった。焦点の合わない目が僕を通り越してどこかを彷徨っている。
その目は、腫れあがった分厚い瞼に覆い隠されていた。それでも声や仕草は、お爺さんというより、やっぱりどことなく若い人のような気もした。
「あ、あり……お……」
僕の肩に縋るようにして何か言いかけて、男の人はうっと口をすぼめた。胃の中から何かが込み上げてきたらしい。
「まだ、喋らない方が」
僕は男の人の背中をさすった。男の人はまだ意識が朦朧としているらしい。いびつに歪んだ骨ばった背中と肩が、僕の腕の中で震えている。
「ありがと……お……ざ……おえっ」
その瞬間、男の人の口から、何か薄茶色のぶよぶよした、油の塊のようなものが飛び出した。
「えっ?」
僕を突き放すようにして、男の人は後ずさった。
僕と男の人の間に落ちたそれは、油ではなく、ヌメヌメとしたヒキガエルだった。男の人は僕以上にショックを受けたような顔でそのカエルを見ていた。
「か、カエルですね」
僕は当たり前のことを言ってしまった。
ヒキガエルは何事も無かったように喉をぷくぷく膨らませて2、3回鳴くと、水の中に帰っていった。
僕も驚いたけど、それ以上に男の人の方が驚いたみたいだ。男の人は、後ろ手をついてワナワナと震えながらそれを見送っていた。
「溺れている間に、飲み込んじゃったのかもしれませんね」
僕は慰めようとして言った。だって、自分の口からヒキガエルが出るなんて相当ショックだろうと思ったから。
でも、そんなバカなことがあるか? といった顔で、男の人は僕を睨んだ。いや、睨んだつもりはなかったのかもしれない。顔つきが元々そういう人のようだ。
「立てますか?」
僕は気を取り直して男の人に手を差し伸べた。男の人はよろよろと立ち上がると、あたりを不安げに見渡した。
「こ、ここは……ふぐっ」
男の人はまた鳩尾に手をやった。元々曲がっている背骨をさらに深く折って、胃の中のものを吐き出した。
すると、それはまたぶるんぶるんのヒキガエルだった。僕は何も見なかったことにして言った。
「寒いでしょう。ひとまず、僕の屋敷に行きましょう」
男の人は口元を手で覆いながら、僕を振り返った。何か言いたそうだけど、またカエルが飛び出すのを恐れているらしい。
「……気にせず吐ききってしまったらどうです?」
男の人はぶんぶんと首を振った。恥ずかしがることないのに。お腹の中にカエルを入れたままにするのは体に悪そうな気がする。
男の人は身振り手振りでここはどこかを尋ねた。
「ここは氷の森のほとりですよ」
僕は上着を脱いで、男の人の体にかけてやった。
「あなたはどうしてこんなところに? 旅の方ですか?」
氷の森から人が来るのは本当に珍しい。この森は恐れられているのだから。
寒くて獲物も取れないし、妖精に道に迷わされて出られなくなるからと、誰も近寄らない。森と反対側の、遠い北の海から時折商人が来るくらいだ。
この辺には大昔の砦や屋敷の廃墟があるだけで、僕の屋敷以外に人の住んでいる家はなかった。
「人をっ、探ぐわっ……し……」
その一言をいう間に、カエルは2匹飛び出ていった。流石に、4匹もお腹にカエルが入っていたなんて信じられない。
僕は呆気に取られていたけれど、不意にピンときた。これは「手品」じゃないか。お城の晩餐会で、大道芸の人が口から何匹もひよこを出すのを見た。
「すごいですね!」
僕は拍手した。しかし、男の人はキッと僕を睨んだ。はあはあと息を切らし、目には涙を浮かべている。
「あれ……手品じゃないんですか?」
男の人は力なく首を振った。唇は真っ青で、気分が悪いらしい。僕はなんとなく申し訳ない気持ちになった。気まずい雰囲気を和らげるように、ファラダがいなないた。
「とにかく、僕の屋敷へ」
男の人は後退り、遠慮するような仕草をした。けれど、こんなところにいたら凍って死んでしまう。
僕はザクロさんの腕力にものを言わせてお爺さんの小さな体を担いだ。
男の人は怒ったように足をジタバタさせた。僕は問答無用で彼をファラダの背に乗せると、手綱を引いて屋敷に向かった。
*****************
屋敷が近づいて来た。男の人はキョロキョロと不審そうに辺りを見回している。いや、不審そうに見えるのは眉間に深く寄ったシワと片方だけ膨らんだまぶたのせいかもしれない。
「もうすぐ着きますよ」
門をくぐって、玄関の前で男の人を下ろした。男の人は傷だらけで、痛そうに顔を歪めたところを見るに、どこか骨折してるみたいだった。
「ここで待っていてくださいね」
僕は男の人を噴水の前に座らせると、屋敷に駆け込んでメアリを呼んだ。
でも、メアリの返事はない。裏庭か厨房で仕事でもしているのだろう。
うっすらと呼吸はあったので、僕はお爺さんの脇に手を入れて、岸まで運んだ。
ザクロさんのたくましい腕が、本当にありがたい。前の僕の体だったら、きっとお手上げだっただろう。
お爺さんは小柄とはいえ、気を失って力の入らない体は水にすぐ攫われてしまうし、岸に引き上げようとすれば、濡れた衣服のまとわりついた体は岩のように重たかった。
ぬかるんだ土と枯れ草の上を引きずって、川岸の平らな場所にお爺さんを寝かせた。
賢いファラダは、僕が何も言わなくても水の中を器用に進んで、側まで来てくれた。僕はお爺さんの胸元に耳をつけた。
「心臓が動いてる」
ファラダがそっと口先でお爺さんの体をゆすった。ぴくりと指が動く。
船で溺れた人を助ける方法を、昔父さんに習ったことがあった。
「じ、人口呼吸っていったっけ……」
まさかこんなところで使う日がくるとは思わなかったけれど、そして、ザクロさんの姿でそれをする羽目になるとは思わなかったけど、思い切って実践すべき時だろう。
僕はお爺さんの顎に手を添えて顔を傾け、口を開けさせた。ファラダが珍しくヒイ……ンと鳴いた。僕だってちょっと泣きたい気持ちだったけど、仕方ない。目をつぶってお爺さんの口に自分の口を近付けた。
「ゴホッ!」
僕が息を吹き込む前に、お爺さんは激しくむせはじめた。
「うわあっ」
僕は慌てて顔を離した。
「ごふっ……ゲホゲホゲホッ」
お爺さんの口からはものすごい量の水と泥と枯葉が出てきた。
「大丈夫ですか?」
お爺さんは苦しそうに肺のあたりを抑えて、激しくむせながら上半身をよじった。焦点の合わない目が僕を通り越してどこかを彷徨っている。
その目は、腫れあがった分厚い瞼に覆い隠されていた。それでも声や仕草は、お爺さんというより、やっぱりどことなく若い人のような気もした。
「あ、あり……お……」
僕の肩に縋るようにして何か言いかけて、男の人はうっと口をすぼめた。胃の中から何かが込み上げてきたらしい。
「まだ、喋らない方が」
僕は男の人の背中をさすった。男の人はまだ意識が朦朧としているらしい。いびつに歪んだ骨ばった背中と肩が、僕の腕の中で震えている。
「ありがと……お……ざ……おえっ」
その瞬間、男の人の口から、何か薄茶色のぶよぶよした、油の塊のようなものが飛び出した。
「えっ?」
僕を突き放すようにして、男の人は後ずさった。
僕と男の人の間に落ちたそれは、油ではなく、ヌメヌメとしたヒキガエルだった。男の人は僕以上にショックを受けたような顔でそのカエルを見ていた。
「か、カエルですね」
僕は当たり前のことを言ってしまった。
ヒキガエルは何事も無かったように喉をぷくぷく膨らませて2、3回鳴くと、水の中に帰っていった。
僕も驚いたけど、それ以上に男の人の方が驚いたみたいだ。男の人は、後ろ手をついてワナワナと震えながらそれを見送っていた。
「溺れている間に、飲み込んじゃったのかもしれませんね」
僕は慰めようとして言った。だって、自分の口からヒキガエルが出るなんて相当ショックだろうと思ったから。
でも、そんなバカなことがあるか? といった顔で、男の人は僕を睨んだ。いや、睨んだつもりはなかったのかもしれない。顔つきが元々そういう人のようだ。
「立てますか?」
僕は気を取り直して男の人に手を差し伸べた。男の人はよろよろと立ち上がると、あたりを不安げに見渡した。
「こ、ここは……ふぐっ」
男の人はまた鳩尾に手をやった。元々曲がっている背骨をさらに深く折って、胃の中のものを吐き出した。
すると、それはまたぶるんぶるんのヒキガエルだった。僕は何も見なかったことにして言った。
「寒いでしょう。ひとまず、僕の屋敷に行きましょう」
男の人は口元を手で覆いながら、僕を振り返った。何か言いたそうだけど、またカエルが飛び出すのを恐れているらしい。
「……気にせず吐ききってしまったらどうです?」
男の人はぶんぶんと首を振った。恥ずかしがることないのに。お腹の中にカエルを入れたままにするのは体に悪そうな気がする。
男の人は身振り手振りでここはどこかを尋ねた。
「ここは氷の森のほとりですよ」
僕は上着を脱いで、男の人の体にかけてやった。
「あなたはどうしてこんなところに? 旅の方ですか?」
氷の森から人が来るのは本当に珍しい。この森は恐れられているのだから。
寒くて獲物も取れないし、妖精に道に迷わされて出られなくなるからと、誰も近寄らない。森と反対側の、遠い北の海から時折商人が来るくらいだ。
この辺には大昔の砦や屋敷の廃墟があるだけで、僕の屋敷以外に人の住んでいる家はなかった。
「人をっ、探ぐわっ……し……」
その一言をいう間に、カエルは2匹飛び出ていった。流石に、4匹もお腹にカエルが入っていたなんて信じられない。
僕は呆気に取られていたけれど、不意にピンときた。これは「手品」じゃないか。お城の晩餐会で、大道芸の人が口から何匹もひよこを出すのを見た。
「すごいですね!」
僕は拍手した。しかし、男の人はキッと僕を睨んだ。はあはあと息を切らし、目には涙を浮かべている。
「あれ……手品じゃないんですか?」
男の人は力なく首を振った。唇は真っ青で、気分が悪いらしい。僕はなんとなく申し訳ない気持ちになった。気まずい雰囲気を和らげるように、ファラダがいなないた。
「とにかく、僕の屋敷へ」
男の人は後退り、遠慮するような仕草をした。けれど、こんなところにいたら凍って死んでしまう。
僕はザクロさんの腕力にものを言わせてお爺さんの小さな体を担いだ。
男の人は怒ったように足をジタバタさせた。僕は問答無用で彼をファラダの背に乗せると、手綱を引いて屋敷に向かった。
*****************
屋敷が近づいて来た。男の人はキョロキョロと不審そうに辺りを見回している。いや、不審そうに見えるのは眉間に深く寄ったシワと片方だけ膨らんだまぶたのせいかもしれない。
「もうすぐ着きますよ」
門をくぐって、玄関の前で男の人を下ろした。男の人は傷だらけで、痛そうに顔を歪めたところを見るに、どこか骨折してるみたいだった。
「ここで待っていてくださいね」
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でも、メアリの返事はない。裏庭か厨房で仕事でもしているのだろう。
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