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四章 沙羅という名の少女、理樹という名の少年

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 どうしてか分からないけれど、とても幸せで、そして少しだけ苦しい夢を見た気がする。

 お姫様みたいなドレスを着た女の子が、堂々と歩く一回り年上の男の人を、遠くから見ている風景があった。
 彼は社交の場であまり見掛けることがない人で、いつも少しもしないうちにパーティー会場からいなくなってしまう男性、というような設定だったような……
 

 でも、よくは覚えていない。
 ただの夢は、目覚めると頭の中にほとんど残らないものだから。


 目が覚めたら、どうしてか涙が頬を伝っていることに気付いた。

 沙羅は不思議に思って涙を拭ったところで、ベッドのサイドテーブルにある置き時計を見てハッとした。中学時代からの親友レイと、今日は早い時間に待ち合わせしている。それなのに、

「きゃあああああああ!? 目覚ましをかけ忘れてたッ、今日は正門より前で待っていようと思っていたのに!」

 ふと、昨夜も散々思い返した、昨日抱き締められた一件がまたしても脳裏に蘇り、沙羅はぴたりと口をつぐんだ。あの時は唐突でびっくりしてしまって、動けず声も出なくなってしまったのだ。

 けれど、とてもふわふわと幸せな気持ちがしていた。今でもそのドキドキが胸に残っている。
 もう一度、あの暖かくて大きな身体を感じたい。そう思った。

 あれは自分からぎゅっとしたわけではないから、『ぎゅっとしたい作戦』はカウントに含まれないと思うのだ。だって、まだ彼を抱き締められていない。彼の胸に飛び込んで、あの背中にまで手が届くのなら、とても幸せな気がした。

 どうしてか、こんなにも恋しい、と感じる時がある。どうして彼がそばにいないのかと、時々理由も分からずきゅぅっと胸が寂しさを覚える時もあった。
 沙羅は、ぼんやりと寝着のシャツの胸元を握り締めた。


 たぶん、とても、とても恋をしているのだと思う。

 初めて目にした時から、彼がこちらを振り返って小さく目を見開いた顔が、目に焼き付いて離れないでいる。あの一瞬、沙羅は呼吸を忘れたのだ。
 

 彼に愛されたのなら、どんなに幸せだろう、とあの時に思った。
 あの人だけの特別な女の子になれたのなら、と願った。

 本当は分かっているのだ。迷惑かもしれないと分かっていて、でも諦めることなんて出来なかった。少しずつでもいいから近づいて、少しずつでもいいから、この恋が叶ってくれることを祈っている。

 触れた時のことは、一つ一つ、全て覚えている。

 はじめは、手を差し伸ばされかけただけで、触れることすら叶わなかった。なぜなら彼は、いつも途中で手を止めて、引っ込めてしまうのだ。

 そうしていたら運動場で、彼の方から手を差し出してきた。そっと触れても彼は逃げなくて、ようやく手を握ることが出来ただけでもすごいことなのに、気付いたら彼に抱き上げられていたのだ。

 彼の方から触れてきて、初めて脇腹に抱えられて屋上から出された時の温もりを覚えている。
 保健室に突入した際、隣にどかされた逞しい手だって、兄さんたちがするよりもずっと優しくて全然痛くもなくて、嗚呼、この人は私をとても気遣っているのだと分かった。

 一緒に過ごす時間を重ねるたび、期待してしまう。

 どうか少しずつ、この恋が叶えばいいのに、と。
 自分でも驚くほど乙女なことを考えている。

 恋よりも食い気だと、お父さんやお母さんや、兄さんたちによく言われた。私だって、ずっとそう思っていた。大好きな家族がいて、笑っていて欲しい友達に出会えて、それ以上の幸福なんてないだろうと思いながら過ごしてきたから。

 初恋をしたその日に、初めて告白したその瞬間に、ものの見事に玉砕してしまった。涙が溢れそうになって、こんなにも痛くて苦しいほどの『好き』を知った。

 心が沈みそうになるだなんて、きっと自分らしくない。

 だから頬を叩いて難しいことは考えない、好きよと伝えて頑張るのだと決めた。中学生の頃に、恋に前向きに頑張っていた女の子たちのように。

「よしっ、今日こそ九条君のファースト・ハグをゲットするのよ!」

 沙羅はそう意気込んだところで、自分が何かを忘れているような気がした。置き時計を見てみると、なんと時刻は先程よりも過ぎてしまっていた。

 慌ててベッドから降りようとした沙羅は、寝る時にはいつも、自分が大きなシルクのシャツ一枚であったことをうっかり忘れていた。その裾につまずいて思い出したものの、彼女は体勢を立て直す暇もなく、派手に床へ転がり落ちた。            

             ---

 大きな物音を聞いて慌てて部屋にやってきたメイドは、床の上でパンツ丸見えの姿勢で頭を床に押し付けている沙羅を見て、しばし沈黙した。

 年頃なのに相変わらず子供っぽいというか、美人なだけに将来が物凄く心配だ。彼女の上の兄は結婚なんてしなくとも、と変わらずのシスコンっぷりだが、長男と両親は見合い結婚以外を望んでいた。

 見目や家柄ではなく、本当に心から彼女を愛してくれる人と幸せになって欲しい。互いを知らない仲での婚約なんてもってのほかだと、もう何十件の見合い話を断ったか分からない。

 メイドはそんな彼女の両親の親心と、恋人と真剣交際をスタートした社会人の長男の願いを思い返し、「お嬢様……」とつい涙ぐんで呟いた。

             ※※※

 なぜ「好きだ」と告白されるのか、まるで分からない。

 自分の魂があの頃と微塵にも変わっていないように、記憶がないとしても、やはり考えるたび今の状況は謎であると感じた。

 そもそも、時間をかけて過ごした後であれば分からなくもないが、出会った初見で「好き」となるだろうかと考えれば、理樹個人としては『NO』のような気もするのである。
 とはいえ、自分がそうであったというだけなので、見比べるには参考にもならないけれど。

 理樹は、高校入学時からずっと考えているそれを思い返した。結局のところ、分からないものは『分からない』という、いつもの結論にループし、悩ましげに吐息をこぼして思考をやめた。

「お、恋の溜息か? 一生に一度の一目惚れ、人はそれを『純愛』と呼ぶ」
「したり顔で何言ってんだ。走り幅跳びの砂場に埋めるぞ」

 冷房が効いたこじんまりとした部室で、理樹は弁当を食べたあとに漫画を読んでいた拓斗を見もせずに、若干マジでやってやろうかなという程度の殺意を込めて、間髪入れずそう言った。

 今は昼休みである。『読書兼相談部』が立ち上がってからというもの、この昼食風景はすっかり馴染んだものとなっていた。


 今日も沙羅は「ぎゅっとします!」の突撃作戦を決行してきた。朝は待ち伏せする時間がなかったのか、昼休みになって弁当を買いに行こうと廊下を歩いていたところで、自動販売機の横から飛び出してきたのだ。

 つまりそれは、つい数十分前のことである。


 反射的にどうにか避けられたが、タイミングも隠れる位置も絶妙で、危うく間一髪といったところだった。
 案の定そこには、最近はその作戦に加担しているレイもいて、彼女は「チクショー僕はめちゃくちゃ複雑な心境だッ」と、沙羅を腕に抱えて男らしく走り去っていったのだ。

 あの時拓斗が笑って「やっぱり可愛いなぁ」と言ったが、理樹としては理解し難い感想である。

「というか、なんで飛び掛かってこようとするんだ……」

 理樹は額を押さえ、悩ましげに呟いた。こちらから抱きしめた一件については、親友である拓斗にも話していないが、あれはカウントに含まれていないのだろうか、と実に不思議でならなかった。

 その疲労っぷりを聞いた拓斗が、「さっきのやつか」と察したように口にした。

「うーん、なんというか、沙羅ちゃんは相変わらずだよなぁ。さすがに飛び出してくるのは心臓に悪いから、抱き締めるのが成功したらやめるかなと思って、昨日お前のところに行かせたんだけどな」

 その思案の声を拾って、理樹は真顔に戻って「なるほど」と一つ頷いた。

「思い出した、そういえばそうだった」

 そう口にした直後、理樹は彼に絞め技をかけていた。

 床の上に転がされた拓斗が、「これ本気のやつじゃん」「めっちゃ痛いんだけどッ」と悲鳴を上げた。しかし、抵抗も虚しく卍固めをされ続けた彼は、ギリギリと締め上げながらも眉一つ動かさない涼しげな親友の顔を見上げた。

「ごめんってばッ、つい悪戯心な親切心が出たというか! ――ん? というかさ、もしや俺に報復するレベルの何かが起こったのか?」
「気配で起きた」
「あ~、まぁ、だよなぁ。何もなかったって面してたもんなぁ」

 理樹に開放されたところで、拓斗は「ひでぇ目に遭った」と軋む身体を起こした。

「つか、沙羅ちゃんの告白が始まってから、お前って意外と冷静でクールな奴なんだなってことが分かったわ」

 そう言いながら、椅子に座りなおした理樹へと目を向けてこう続ける。

「というかさ、俺としては、沙羅ちゃんを応援したい気持ちもあるんだよなぁ。走ってるのを見て、あんなに一生懸命だったらなって思ってさ」

 お前どうするつもりでいるの、というような目を拓斗に向けられた理樹は、その視線をしばらく横顔で受け止めていた。

 どうするもこうするも、こんなこと続いていいわけがない。

 けれど、それを口にすることも出来ないまま――結局のところ理樹は、話を変えるように「俺は少し寝る」と告げて、並べた椅子に横になった。
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