仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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6章 迷路と残酷な一つの事実(6)

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「……これは、一つの憶測でしかないが、セキュリティー・エリアの生成方法や在り方については、既にスウェンの方で一つの仮定が立っているーー」

 ログが声を落として説明しながら、「とりあえず行こう」とエルの背に片腕を回して促した。

 動き出せないエルを見て、彼が初めて戸惑うように眉を下げた。どうしたらいいのか分からない、という初めて見るログの弱った表情に気付き、エルは、ようやく深呼吸しながら瞬きをした。

 無理やりにでも引っ張っていく方法もあるのに、それをしないんだな。

 変な男だ。よく分からない。脳裏にそんな疑問が小さく浮かんだが、エルはそこまで考える余裕はなくて、こっくりと肯いてログの目から視線を外した。

「――マルクが作った仮想空間は、構築自体が不完全だったんだろう」

 二人は目を合わさないまま扉の中をゆっくりと進み、ログが仮説について話した。

「仮想空間で設定されたセキュリティーの動きについて、スウェンは……作り上げたプログラムとは別の意思があるんじゃないか、と疑っている」

 遠くなってゆくテディ・ベアの泣き声が、悲痛さを孕んで響いて来る。

 エルは無意識に、ボストンバックのベルトを強く握りしめた。城の中には暗黒が広がっており、隣を歩くログの顔さえも見えなかった。

 すると、暗闇の中ではぐれないようにするためか、ログがエルの腕をしっかりと掴んで、こう言った。

「俺だって信じたくはねぇ。マルクが作り上げた仮想世界には、一つの支柱に、一人の人間が使われて、『その人間を想う何者かの心や意思が宿っているセキュリティー』があるなんて事は」

 ああ、まるで悪夢だ。

 エルは、一筋の光りがこぼれる長方形の出口を見据えた。

 出口の向こうには、おぞましい一つの真実が二人を持っていた。

            ※※※

 小さな頃、色鮮やかな風船に憧れた事がある。

 ふわふわと浮かぶ丸い球体の存在は、幼い彼女にとっては不思議そのもので、それを沢山もらう事が出来たなら、一緒に空を飛んでいけると信じていた。

 遊園地には行った事がなかった。テレビや広告のチラシで見かけるたび、どんなところだろうと自分勝手な想像を楽しんだ。

 絵本を読んでくれる母の話は楽しく、素晴らしいパレードや、美しいお姫様、背の高い魔法使いや、お菓子の家がとても魅力的に思えた。人形遊びが好きだったから、彼らがお喋りの出来る友達だったら良かったのにと、飽きずに素敵な世界を空想した。

 ピンク、黄色、赤、緑、たくさんのクレヨンを使って絵を描いた。金色の長い髪をした、優しくて可愛いブルーの瞳の女の子の絵を好んで描いた。

 幼い子が描く稚拙な絵でさえ、母にとっては誇らしくて嬉しい事だったのだろう。

 母は、子共が描く絵を見て「素敵な女の子ね」と微笑み、飽きる事なく我が子を褒めた。父は、「二人はきっとどこかで出会って、親友同士になれるだろう」と夢を語った。


 誕生日に、幸福の言葉が書かれたテディ・ベアを送るという発想が、どこから来たのかは覚えていない。


 いつか来る誕生日には、立派なテディ・ベアを買ってあげよう、と父は約束した。うちは立派な家ではないけれど、きっと特別な年に、君に特別なテディ・ベアを贈るから楽しみに待っておいで、と。

 母親は、父の約束を楽しみに待つ我が子に、小さなストラップのテディ・ベアを買ってやった。新しいストラップ人形の友達に、娘が名前をつけて可愛がる姿を喜んだ。

 その子共は、貰った小さなテディ・ベアをストラップとしてではなく、一人の大切な友人としていつも連れ歩いた。ピンクの可愛い鞄を提げて、そこには、いつも小さな友人が顔を出した。


 特別な人に、特別なテディ・ベアを贈ろう。


 そんなCMソングを耳にする事が多い時代だった。恋人の名前が入ったテディ・ベアを男がプレゼントすると、同じように、自分の名前が入ったテディ・ベアを彼女が贈り、微笑みあう恋人同士のはにかむ顔が印象的なCM――。

 テディ・ベアの小さな友達を連れて、幼い女の子は、一人でどこまでも散歩した。小さな足で行ける範囲の街中を歩き回った。

 けれど、ある日、ふとした拍子に迷子になって、母をたくさん心配させてしまった。

 大きな声で助けを求めて泣き続け、ようやく見付けてくれた母が抱きしめても、しばらく涙は止まらなかった。独りぼっちは、たまらなく辛かった。

 散歩が好きになったきっかけは、母と同じ花柄のスカートを履いて、週に二回、父の職場までよく歩いたからだろう。

 保育園の勤務が終わると、父は慌てたように飛び出して来る。今日は一緒に帰れる日なのだから、少しでも早く会って、少しでも長く家族と過ごしたいじゃないか、というのが父の口癖だった。

 幼い頃の記憶は、大きくなるに従って忘れ去られてしまうけれど、何もかもが幸せに満ちていたような気がする。

 いつか、皆で遊園地に行こう、と母は言った。あなたのお父さんと私が、まだ若い頃に行った『夢の国』に、今度はあなたも一緒に行くのよ、とても素敵でしょうねぇ、と娘に夢を語った。

 父も、娘に約束してくれた。いつか、大きなテディ・ベアをプレゼントするよ。遊園地では、そうだな、まずは風船を買おう。お父さんが青、お母さんがオレンジ、お前はピンクがいいかな。うん、すごく楽しみだなぁ。

 大きなテディ・ベアも、歩く人形のお友達も、ふわふわと宙に浮かぶ風船も、いつか王子様が来てくれるような大きな城も、とても素敵な夢だと女の子は思った。

 けれど、その子どもは思い描く夢だけで満足していた。父と母に抱かれて眠る時が、何よりも幸福だったからだ。

 女の子は夢を見る。

 もう少し待てば、母のように、髪の長さもようやく腰まで届くだろう。

 フリルのスカートを着て、友達のテディ・ベアを連れて。そうして、ピンクの風船を持って、父と母の三人で素敵なお城を散策する夢を見た。

              ※※※

 今にも止まってしまうのではないかと思うほど、その機械は一定の時間に、一度の強い鼓動と、深く息を吐き出すような震える稼働音を繰り返していた。

 開かれた白い空間には、ひどい熱気が充満していた。現実世界ではないはずなのに、その熱気が覗いた肌を打つ感覚はリアルだった。

 ホテルの最上階で見たような、鉄製の筒状の機器と沢山のコードは同じ光景だったが、目的とする支柱からは、大量の血液がもれて白い床一面に広がっていた。

 血とオイルの匂いが鼻をついた。白い床に広がった深紅は、一際鮮やかに映った。支柱から滲み出た血液は既に一部が柔らかく固形化し、まるで支柱の本体が流血を起こしているようにも思えた。

 あまりにもその赤い光景が強烈で、エルはしばらく、先に辿り着いていたセイジとウスェンの姿に気付けないでいた。
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