仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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8章 迷宮の先(6)

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「というか、君がそれを簡単に振り回せる事が不思議でならないよ。それ、すっごく重いんだから」
「セイジなら、俺よりも上手に使うだろうさ」
「そうだよねぇ。こんな時にセイジがいたらなぁ」

 豚から漂う異臭とアルコール臭、ひどい血の匂いが充満した室内の床は鉄造りで、オレンジ色の小さな電球が、ぽつりぽつりと空間内を照らし出している。

 室内の終わりは見えず、冷房の稼働音に紛れて、化け物が飛び出してくる環境は最悪だった。幸運だった事は、室内に踏み入ってすぐ、スウェンが小さなヒントに気付いた事だ。

 豚の死体に薄らと書かれた『F』という青い字が、どうやら道導となっているようだった。二人はそれを頼りに出口を目指していた。アルファベットがどの言葉の略かは知らないが、それ以外に道標らしき物はない。

 進む方向さえ見失わなければ、次の『F』の道標を見付けられる確率は高かった。

 ここへ踏み入った時から方向感覚は狂ってしまっているが、進む先だけは間違えないよう、意識は強く持っていた。

「あ~、でもアレだな。セイジは器用じゃねぇから、この状況で探索も兼ねるとなると、ちとキツイかもな」

 化け物との闘いに意識を向けていると、方向感覚が鈍くなってしまう。常に三、四つの事を考えながら戦うスウェンであれば問題ないが、指示者がいなければ、ログの方もとっくに迷子になってしまっていただろう。

 次の『F』の記しを確認し、二人は駆け出した。

 どうやら首のないあの怪物は、音に敏感に反応するらしい。構っている暇と体力はないので、化け物が足音に引き寄せられて襲いかかって来るたび、出来るだけ手短に始末するよう努めた。

「――おい、あいつらは大丈夫だと思うか?」
「そうだねぇ。エル君は戦えるっぽいけど、このゲームが正当なものであれば、あの胡散臭いエキストラと足して割っても、ここまで難易度はないと、そう期待したいところだね」

 その時、ようやく視界が開けた。

 豚の死体が吊り下げられていない円形状の広い空間に出たところで、二人は足を止めた。ぽっかりと開けた空間は、かなり高さがあり、頭上には薄暗い陰りが濃く続くばかりで天井を確認する事が出来なかった。

 中央には、巨大な銀板が一台置かれていた。強靭な腕が六本ついた巨大な化け物が、こちらに背を向けるように佇んでいた。

 侵入者を待つその化け物は、全身に黒い体毛をはやしており、組んだ足には蹄がついていた。六本の腕には鋭利な刃物が握られ、ダイヤ形の剣やカーブを描く物、幅が太い肉切り包丁や長剣など、多種だった。

「……ラスボスが出やがったか」

 ログが汗を拭い、口許に不敵な笑みを浮かべた。スウェンは苦笑し、諦めたように頭を振った。

 正直なところ、少しでもいいから息を整える時間は欲しいかった。例えば、ゆっくり腰を落ちつけられるソファや、しばらくは一切の敵も来ないという状況が好ましい。

 欲を言えば、酒か煙草があれば尚良いだろう。二人の男は、現実世界が少しだけ恋しくなった。

「やれやれ。歳は取るもんじゃないねぇ」
「お互い様だろ」
「まぁね」

 スウェンは疲労顔で苦笑した。彼は「よいしょ」と、背中に担いでいたバズーカ砲を構えた。

 巨大な化け物の赤い眼光が、薄ら暗い頭上から二人を見降ろした。

             ※※※

 大きな破壊音が足元に響いたような気がして、セイジは顔を上げた。

 改めて耳を済ましてみたが、物音は一つも聞こえて来なかった。どうやら、自分の気のせいだったようだと知り、セイジは止まった足を再び前へと進めた。

 離れ離れになってしまったスウェンとログ、エルの事が気がかりだったが、ここでは何も知りようがなかった。

 先程、審査の回廊から落とされてしまったセイジは、しばらくもしないうちに柔らかいクッションの上に着地していた。白とも、明るい灰色とも取れない地面はあるのだが、足音は響かず、触れてみても温度がなく素材も分からないでいる。

 ピンクのレースがついた、巨大なクッションが所々に打ち捨てられている以外、何も無い場所だった。

 セイジは、まず、誰もおらず何もないこの状況を見てとると、とにかく歩くかと考え、歩きながら二、三度、仲間の名前を呼んでみた。効果はまるでなかったが、完全に皆と切り離されてしまったという事だけは実感出来た。

 巨大な空間は広がっているが、天井は果てが見えず四方全てが闇に包まれていた。

 不思議な事に、己が進む先だけが、やけにハッキリと視界には映り込んでいた。セイジはずっと、地面を持った闇の中を、背中を丸めて歩き続けている。

 ゲームは既に始まっているはずだが、静かで何もない空間には、どうやら敵すらいないようだった。神経を研ぎ澄ませてみても、彼の五感に障る敵意や気配は、どこにもない。

 風変わりな環境に対して、順応が早いのもセイジの良い所だった。彼は、緊張疲れとはほど遠い心持ちで、己のリズムのまま闇の中を歩き続けていた。危機感は全く覚えておらず、冷静である。

 歩きながら、セイジは、もう一度「おおい」と声を上げてみた。

 自分なりに張り上げた声は、反響もせずに遠く向こうまで吸い込まれていった。かなり広い空間に自分は立たされているらしいと、セイジは改めて実感し「ふむ」と肯いた。

 どこが出口で、どこが入り口なのだろう。

 もしかしたら自分は、ゲームの会場にすら辿り着けていないのだろうか?

 セイジは、ようやくそこで一つの不安を覚えた。危機感とは全く別件の、ある焦燥感が小さな胸騒ぎとなって、彼を申し訳ない気分にさせた。

「……出番が遅れたら、またログに怒られるなぁ」

 いつもそうなのだ。なぜか自分が辿り着く頃には、事が山場を終えていることが多い。スウェンとログの危惧が、空周りする事が不思議とある――らしいと、セイジは仲間内からよく聞かされていた。

 前線部隊の任務の際には、敵の策略や陰謀の場所を、知らずのうちに避けて仲間と合流した事もあった。地雷の海だとは知らず「近道しよう」と足を踏み入れ、一度も地雷を踏んでしまう事もなく、仲間に皆に驚かれた事もある。

 誤って彼が落とし穴に落ちた時は、偶然にも緊迫した状況が広がっていた階上へと落下し、主犯格の頭を尻で強打して、皆の危機を回避してしまった事もある。あの時は、ログも腹を抱えて笑ってくれていたが。

「もしかして、落ちる場所を間違えたのかなぁ……」

 セイジは自分を、ある種の不幸体質だと思っていた。

 何というか、思い返すと、いつもタイミングが悪いような気がするのだ。テロリストが仕掛けた『道案内』が上手く作動しなかった為に、道を間違えてしまった経験が、彼の脳裏を掠めた。

 自分の運の悪さは、敵すらも巻き込んでしまう事があるらしいと、セイジは経験から身をもって知っている。

 セイジは、少し不安を覚えて来た道を振り返った。

 自分を受けとめてくれた大きなクッションの姿は、既に見えなくなっていた。あのクッションが、何かしら必要なアイテムだった可能性はあるのだろうか、と少しばかり考えてみるが、やはり意味などないような気もした。
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