仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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11章 悪夢と闇とナイトメア(3)

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 潰れていなかった方の半透明の獣が、獲物の急停止に間に合わず、そのまま二人の前方の廊下の床に顔を突き入れて潰れた。その隙にクロシマがハイソンを立たせ、呻く化け物の脇を駆け抜けてラボへと急いだ。

「これ、一体どんな現象なんすかね、ハンソンさん!」
「俺が知るか! 無駄話を叩く余裕はない状況なのに、お前ときたらッ――」
「今回はマジで余裕がないので、こうでもしなきゃ頭の整理が追いつかないっつうか……」

 二人は、肩越しに背後を盗み見た。

 例の化け物が二頭、こちらに向かって走って来る光景が目に飛び込んで来た。二足と四足。足の長さを考えると、速度の違いは圧倒的だった。

 クロシマが、大きな舌打ちをした。

「クソッ、あいつら再生するのかよ! こちとら戦闘には不向きな不健康組みだってのにッ」

 思えば、短足で運動音痴で胃腸の弱いデブと、食事管理のまるでなっていないサボリ魔な不眠症の組み合わせだったな……と、ハイソンはどうでも良い事を考えてしまった。

 通い慣れた回廊を、二人は全力疾走で駆けた。走るな禁止、と書かれた注意書きはないにしろ、上層部に見られたらただじゃ済まないだろう。

 しかし、礼儀だの規則だのといった常識的なルールは、今は守ってもいられない状況だった。

 クロシマが、ハイソンより数歩早くラボに辿り着き、手を押し当ててセキュリティーのキー・ロックを素早く解除した。彼は勢いよく扉を押し開けると、ハイソンの腕をしっかりと取り引き寄せる。

 二人は、ほぼ同時に室内に飛び込んだ。勢い余って倒れ込む二人を、室内にいた三人の所員が驚いたように振り返った。

 その直後、後方から追って来た化け物が、二人目掛けて開いた扉に顔を突っ込もうと姿を現した。

 半透明の怪物の姿を正面から見た、若い女性所員の甲高い悲鳴が上がり、立ち上った他の二人の男性所員が、咽が締まるような声をもらして後退した。

 研究所のラボ内に、誰かが手に持っていた資料が床に散乱し、それぞれの人間がぶつかった机や機器の上の物が、派手な音を立てて転がり落ちる音が上がった。

 入口に一番近かい床に転がったハイソンとクロシマは、もう駄目かと身構えた。


 その時、大きく口を開いた化け物の顔が、入口から室内に入り込もうとした瞬間、まるで見えない壁に阻まれたかのように潰れた。こちら側に振り上げられた四肢も、室内に僅に触れただけで弾けて砕け散った。

 二頭目が頭突きをするが如く突進して挑んで来たが、ラボの敷地を跨げる事もなく、見えない壁に阻まれるように、薄黄緑色の眼球ごと頭部がグシャリと崩れ落ちてしまった。

 スプラッタな光景を前に、女性所員がとうとう意識を手放した。崩れ落ちる彼女を、隣にいた若い男が慌てて支えた。クロシマが足を使って思い切り扉を締めると、扉の自動ロックが掛かり、閉ざされた室内にようやく静けさが戻った。

 荒い呼吸が室内にしばらく続いた。

 ハイソンが震える腕で上体を起こし、ずれた眼鏡も直さないまま一同を見渡した。

「――た、大変な事になったぞ」

 途端に激しい胃痛が込み上げ、ハイソンは、言い終わらないうちに床の上に崩れ落ちた。副所長が負傷したと心配した若い部下二人が、慌ててハイソンの介抱に回った。

 クロシマは、床に大の字に転がると、大きく息をついて髪をかき上げた。こんな運動量は、大学の運動部時代以来だ。全く、堪ったもんじゃないと口の中でぼやいた。

「とんだ災難っすね、ハイソンさん」

 俺、ちょっとここ抜け出して、ハンバーガー買いに行く予定を立てていたのに、と彼は言葉だけの嘆きをこぼした。

 けれど反応は返って来ず、クロシマは横目に、隣の男はそれどころではないらしいと確認して「やれやれ」と額から落ちる汗を拭った。


 全く、いつになったら彼の胃は丈夫になってくれるのだろう。

 クロシマは、安堵を覚えつつ小さく笑った。大学主催の研究発表会で、舞台から去ってゆくハイソンの姿を、クロシマは羨望の眼差しで遠くの席から、いつまでも目で追っていた過去を思い出す。

 クロシマは名前の通り、両親はどちらも生粋の日本人だった。

 生まれ育ったのがアメリカだという事もあり、言葉に不自由はなかった。ミドルスクール時代に両親が死に、ニュージャージ州に住む叔父に引き取られた後、スポーツの強い学校へと進んだが、急きょ、全く系統の違う国立大学へと彼は進学した。

 昔からクロシマは、馬鹿みたいに身体を動かす事が好きだった。幼少期から冷めた子だと叱咤され、両親が死んだ時の悲しみも、彼の生活の中では三日と持たなかった。

 周りに何と言われようと、彼は身体を動かしている時の方が、自分が生きている事を実感出来た。運動を止めるつもりは、この時は微塵も考えていなかった。

 大学の教授を勤めていた叔父は、クロシマの急な進路変更について、彼の心変わりの詳細を勝手に想像して喜んだ。まさか、自分が連れ出した講演会で、彼の運命を大きく変える出会いをさせたなど、本人はとうとう気付く事もなかった。

 クロシマは、走る事を止めてまで、憧れた男を馬鹿みたいに追い駆けた。

 出会った当時は「素晴らしい公演でした」と言葉を掛けて、一度振り返った先で目が合った程度だ。ハイソンは、勿論、参加者の一人でしかなかった学生のクロシマを覚えていなかった。

 それでも、クロシマにとっては、あの時「追い掛けてもいいですか」と尋ねた際に、「ありがとう、楽しみにしている」と返された言葉が何よりも嬉しかったのだ。

 まさか本当に、十年後に再会出来るとは思ってもいなかった。


「とにかく、今は状況を整理すべきだ」

 腹を抱えながら、どうにかハイソンは上体を起こして、そう声を絞り出した。

「多分、今この研究所内で無事なのは、俺達だけだろう。まずは、それぞれが把握している状況を、手短に話し合う時間が必要だと思う」
「では、こちらから報告します」

 ハイソンのそばに膝をついていた研究員のトーマスが、遠慮がちに声を上げた。

「先程、スウェンさんから報告がありました。無事、五番目のセキュリティー・エリアの支柱を破壊したそうです」
「そうか。無事、五番目のセキュリティーを……」

 ハイソンは、半ば胃の辺りが軽くなるのを感じた。

 どうやら、現時点で大きな問題は起こっていないらしい。あとは、最後となる六番目のセキュリティー・エリアを突破出来れば『仮想空間エリス』に突入できる。つまり、『エリス・プログラム』に手が届くのだ。

「あ、あの、私の方からも報告させて頂きます」

 軽い失神から目を冷ました女性所員のリジーが、床の上に座り込んだまま、そろりと右手を上げて一同の注目を集めた。背中で簡単にまとめられた癖っ毛の赤毛が、あちらこちらへとはねていた。

「副署長の机の上に、フロッピーディスクが置かれていて、見覚えがない旧式の奴だったんですけど、誰かが副所長の為に持って来たんだろうなと思って…その、副所長はお忙しいし、戻っていらっしゃる時にすぐに確認出来るよう、データファイルを起こしておこうかなと思っていたのですけれど……」

 話しながら、だんだんとリジーの顔色が青くなった。彼女は言葉に詰まると、唐突に「すみませんでしたッ」と泣きそうな顔で謝った。
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