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15章 深い森(3)
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『お願イ、モウ、時間がナイの……守ラナ、きゃイケナイ、ノニ…………アの場所を離れて、しまったら………………ワタシタチが守、ラナければいけナ、大切なモノ、壊れ、テ――』
その時、栗色のテディ・ベアが、白いテディ・ベアを押しのけた。
狂ったように笑い続ける栗色のテディーベアが、身体ごと首を回し、穿った双眼で至近距離からエルの姿をガチリと捉えた。エルが恐怖に身構える暇もなく、白色のテディ・ベアも競うように眼前に迫った。
途端に、どちらも壊れた人形の亡霊のように、口を揃えて呪われた言葉を捲くし立て初めて。
『早く来て早く来て早く来て早く早く早く早く早くはやくはやくはやく――』
不意に、言葉が途切れた。
黒い涙を流し続けていた栗色のテディ・ベアの口元が、ピタリとその動きを止めた。白いテディ・ベアも、青い瞳を宙に向けたかと思うと、途端にその意思を失って闇の中を力なく漂った。
全ての悪夢が静止したような光景だった。
糸が切れたように、二匹のテディ・ベアは闇の中を力なく浮遊した。ふわり、ふわりと漂うリアルな幻覚を、エルは茫然と見つめるしかなかった。
『――己が選んだ運命を、果たせ』
身体を圧迫するような重々しい声が落ちて来た。男とも女ともつかない地鳴りのような声が、テディ・ベア双方の虚ろな眼の向こうから、エルに問い掛け続けた。
『理の使者が、殻を持つ事は許されぬ』――『殻は命を宿すモノの領分である』
『殻は精製と創造で命を造り』――『理は根源と狭間を繋いで核を守る』
『お前は、あの時選んだ』
『命持つ者に許された【選択】を、我らは尊重する』
まるで頭部に心臓が宿ったように、脈打つ痛みがエルを襲った。
大量に流れ込んでくる情報が、思考回路を圧迫し始め、全身に痛みが回った。あらゆる筋肉が軋み、身体のあらゆる筋肉や内臓、骨を損傷したような痛みは耐え難く、エルは思わず膝をついてしまった。
……ああ、そうか。これは、俺の身体が覚えている過去の記憶なんだ。
複数の人間が重なったようなあの声も、この痛みも、全ては今のエルが覚えていない過去のものだ。彼女は自分が今、過去と現在の光景を、抽象的に見せられている事に気付いた。
エルは知らず人形を押しのけ、痛みに抗いながら闇の中を進んだ。
少しでも身体を動かせていなければ、ひどい痛みや眩暈に倒れてしまいそうだった。骨が砕けたように腕が重く痛む。――いつだったか、壊れてしまった彼女の腕を掴んで、もう一度壊してしまった大きな男がいた気がするが、よく思い出せなかった。
しばらく進むと、ぼんやりと浮かぶ灯りがあった。霞む目を凝らしたが、いくら集中したところで、風景ははっきりと輪郭を描いてはくれなかった。
更に近づいてみると、それは切り取られた闇の中に佇む、一人の人影である事に気付けた。
エルは、ぼんやりと浮かぶ光りに目を凝らしながら、もう少し足を進めた。
小奇麗な青と白のフリルが可愛らしい、ワンピースドレスを着た少女が、癖のないストレートの長い金髪を足元に広げて座り込んでいた。その傍らには、彼女の半分の背丈もない幼い女の子が、膝丈までしかない白いワンピース姿で、ぺたりと地面に尻をついていた。
光りの中でぼんやりと輪郭を描く、顔のよく見えない少女が、鳥の囀りのような声で女児に笑い掛けた。
「あなた、知らないの? 特別な一つの存在を除いて、『夢人』は『表の子』と『裏の子』に分かれて、必ず二人一緒で生まれて来るのよ。それぞれは絶対に会う事がなくて、二つの世界は、いつも背中あわせなの」
「ふうん」
幼い女の子には、まだ難しい物事は理解出来ない。女の子は少女の話しを聞きながら、ようやく腰まで届いた黒髪を、意味もなく手で握りしめては解いていた。
「でもね、私は片割れを持たないまま生まれた不安定な存在だった。こんな私でも『夢守』としての姿を持てて、ある程度の『力』を持たせる事が出来るぐらい、初めて『宿主』になってくれた女の子は、強い力を持っていたのよ」
「きょうだいなの?」
「違うわ。私達『夢人』は、初めての『宿主』の心を写し取って、その夢世界に形造られるの。でも、そうね……『表の子』と『裏の子』であれば、兄弟みたいなものかしらね。私達が、この広い世界で一人ぼっちにならない、唯一の繋がりみたいな相手だから」
語り掛ける声が弱々しくなり、どこかぼんやりと独り言を続けるような声量になった。
「――『表の子』の不安も悩みも、全て『裏の子』が引き受けて無に返すといわれているの。だから、『夢守』となった子は皆、『宿主』が持つ負の感情の一つも知らないまま、キレイなままでいられるのね」
聞き手である幼い女の子は、自分の小さな手で遊ばせていた髪が絡まってしまい、なかなか解けず、少し焦りを覚えて「どうしよう」と呟いた。
少女が困ったように微笑み、長い指で女の子の黒髪を梳きながら「無理やり引っ張っちゃ駄目よ、傷んでしまうわ」と言った。その声色は、とても優しかった。
「あなたには、難しい話だったわね、ごめんなさいね」
女の子の髪を整えてあげたところで、少女が小首を傾げた。
「それにしても、不思議な子ねぇ。あなたは人間なのに、『魂』も『心』も身体に置いてきたまま意識一つで、異界の境界線上まで簡単に入り込んで来るんですもの。どうしてか、どらの世界の影響も受けないで、安定させて馴染ませてしまう」
エルは、彼女の達の姿をみてすぐ、言葉を失っていた。
特に語る少女の向こうにいる、艶やかな黒い長髪を持った女児を、エルは誰よりもよく知っていた。オジサンの家の子になってしばらく、何度も鏡の中で見ていた、忘れられない自分の物だった。
この覚えがある光景も、過去の映像だとは理解していた。しかし、どうして、今まで忘れてしまっていたのだろう?
エルの過去を再現したまま、少女は女児に話し続ける。
「『裏の子』がいない私は、力がまだ二分されていない……本来なら安定し、余分な『力』を無くして成長するまで『理』に抱かれているはずだったのに、そのまま『夢守』になってしまった」
本来であれば、生物に関わる『夢人』は、生物に影響を与えてしまう力を持ってはいけない。そのルールが破れてしまっている特殊な状況を、少女は静かに嘆いていた。
「ひとたび『力』の発動が始まれば、私は成長のたびに、『宿主』の『未来』を食べてしまうわ。私には、それがとても恐ろしいの。歪んだ力はね、大きくなってしまうと、いずれは爆発して崩壊してしまうのよ。――どうして私は、人の中に生まれてしまったの?」
絶対のはずの『理』が犯したミスであるのなら、それを修正するために、既に何か用意されているとは理解している。けれど、ただの『夢人』の一人でしかない少女には、『運命』まで知ることは叶わない。
どうして、私を人間に引き合わせたの?
夢世界の『理』は、運命と相性から『宿主』を選定する。彼らは全ての『夢人』を『子』として愛しているから、過ちを犯すはずがないのに……
すると、女の子が、少女のワンピースの裾をつまんだ。
「生まれてきて、よかったよ。わたし、お姉さんのこと、好きよ。お姉さんも、その子のことが、とてもすきなんだよね」
「……そうよ。好きなの、愛しているのよ。一人ぼっちでも耐えられるぐらい、私はきっと、あの子の事が好きなの。それなのにどうして、私は普通の『夢守』として、あの子を守り続ける事が出来ないのかしら」
語る声は次第に震え、少女はとうとう膝の上に顔を押し付けて泣き出してしまった。
「少しずつ、あの子の『夢』の中で成長を促されて、私の歪みは大きくなっていくのよ。いずれ自分の事も分からなくなって、暴走して、私は大切な彼女の『核』を壊してしまうのだわ」
その時、栗色のテディ・ベアが、白いテディ・ベアを押しのけた。
狂ったように笑い続ける栗色のテディーベアが、身体ごと首を回し、穿った双眼で至近距離からエルの姿をガチリと捉えた。エルが恐怖に身構える暇もなく、白色のテディ・ベアも競うように眼前に迫った。
途端に、どちらも壊れた人形の亡霊のように、口を揃えて呪われた言葉を捲くし立て初めて。
『早く来て早く来て早く来て早く早く早く早く早くはやくはやくはやく――』
不意に、言葉が途切れた。
黒い涙を流し続けていた栗色のテディ・ベアの口元が、ピタリとその動きを止めた。白いテディ・ベアも、青い瞳を宙に向けたかと思うと、途端にその意思を失って闇の中を力なく漂った。
全ての悪夢が静止したような光景だった。
糸が切れたように、二匹のテディ・ベアは闇の中を力なく浮遊した。ふわり、ふわりと漂うリアルな幻覚を、エルは茫然と見つめるしかなかった。
『――己が選んだ運命を、果たせ』
身体を圧迫するような重々しい声が落ちて来た。男とも女ともつかない地鳴りのような声が、テディ・ベア双方の虚ろな眼の向こうから、エルに問い掛け続けた。
『理の使者が、殻を持つ事は許されぬ』――『殻は命を宿すモノの領分である』
『殻は精製と創造で命を造り』――『理は根源と狭間を繋いで核を守る』
『お前は、あの時選んだ』
『命持つ者に許された【選択】を、我らは尊重する』
まるで頭部に心臓が宿ったように、脈打つ痛みがエルを襲った。
大量に流れ込んでくる情報が、思考回路を圧迫し始め、全身に痛みが回った。あらゆる筋肉が軋み、身体のあらゆる筋肉や内臓、骨を損傷したような痛みは耐え難く、エルは思わず膝をついてしまった。
……ああ、そうか。これは、俺の身体が覚えている過去の記憶なんだ。
複数の人間が重なったようなあの声も、この痛みも、全ては今のエルが覚えていない過去のものだ。彼女は自分が今、過去と現在の光景を、抽象的に見せられている事に気付いた。
エルは知らず人形を押しのけ、痛みに抗いながら闇の中を進んだ。
少しでも身体を動かせていなければ、ひどい痛みや眩暈に倒れてしまいそうだった。骨が砕けたように腕が重く痛む。――いつだったか、壊れてしまった彼女の腕を掴んで、もう一度壊してしまった大きな男がいた気がするが、よく思い出せなかった。
しばらく進むと、ぼんやりと浮かぶ灯りがあった。霞む目を凝らしたが、いくら集中したところで、風景ははっきりと輪郭を描いてはくれなかった。
更に近づいてみると、それは切り取られた闇の中に佇む、一人の人影である事に気付けた。
エルは、ぼんやりと浮かぶ光りに目を凝らしながら、もう少し足を進めた。
小奇麗な青と白のフリルが可愛らしい、ワンピースドレスを着た少女が、癖のないストレートの長い金髪を足元に広げて座り込んでいた。その傍らには、彼女の半分の背丈もない幼い女の子が、膝丈までしかない白いワンピース姿で、ぺたりと地面に尻をついていた。
光りの中でぼんやりと輪郭を描く、顔のよく見えない少女が、鳥の囀りのような声で女児に笑い掛けた。
「あなた、知らないの? 特別な一つの存在を除いて、『夢人』は『表の子』と『裏の子』に分かれて、必ず二人一緒で生まれて来るのよ。それぞれは絶対に会う事がなくて、二つの世界は、いつも背中あわせなの」
「ふうん」
幼い女の子には、まだ難しい物事は理解出来ない。女の子は少女の話しを聞きながら、ようやく腰まで届いた黒髪を、意味もなく手で握りしめては解いていた。
「でもね、私は片割れを持たないまま生まれた不安定な存在だった。こんな私でも『夢守』としての姿を持てて、ある程度の『力』を持たせる事が出来るぐらい、初めて『宿主』になってくれた女の子は、強い力を持っていたのよ」
「きょうだいなの?」
「違うわ。私達『夢人』は、初めての『宿主』の心を写し取って、その夢世界に形造られるの。でも、そうね……『表の子』と『裏の子』であれば、兄弟みたいなものかしらね。私達が、この広い世界で一人ぼっちにならない、唯一の繋がりみたいな相手だから」
語り掛ける声が弱々しくなり、どこかぼんやりと独り言を続けるような声量になった。
「――『表の子』の不安も悩みも、全て『裏の子』が引き受けて無に返すといわれているの。だから、『夢守』となった子は皆、『宿主』が持つ負の感情の一つも知らないまま、キレイなままでいられるのね」
聞き手である幼い女の子は、自分の小さな手で遊ばせていた髪が絡まってしまい、なかなか解けず、少し焦りを覚えて「どうしよう」と呟いた。
少女が困ったように微笑み、長い指で女の子の黒髪を梳きながら「無理やり引っ張っちゃ駄目よ、傷んでしまうわ」と言った。その声色は、とても優しかった。
「あなたには、難しい話だったわね、ごめんなさいね」
女の子の髪を整えてあげたところで、少女が小首を傾げた。
「それにしても、不思議な子ねぇ。あなたは人間なのに、『魂』も『心』も身体に置いてきたまま意識一つで、異界の境界線上まで簡単に入り込んで来るんですもの。どうしてか、どらの世界の影響も受けないで、安定させて馴染ませてしまう」
エルは、彼女の達の姿をみてすぐ、言葉を失っていた。
特に語る少女の向こうにいる、艶やかな黒い長髪を持った女児を、エルは誰よりもよく知っていた。オジサンの家の子になってしばらく、何度も鏡の中で見ていた、忘れられない自分の物だった。
この覚えがある光景も、過去の映像だとは理解していた。しかし、どうして、今まで忘れてしまっていたのだろう?
エルの過去を再現したまま、少女は女児に話し続ける。
「『裏の子』がいない私は、力がまだ二分されていない……本来なら安定し、余分な『力』を無くして成長するまで『理』に抱かれているはずだったのに、そのまま『夢守』になってしまった」
本来であれば、生物に関わる『夢人』は、生物に影響を与えてしまう力を持ってはいけない。そのルールが破れてしまっている特殊な状況を、少女は静かに嘆いていた。
「ひとたび『力』の発動が始まれば、私は成長のたびに、『宿主』の『未来』を食べてしまうわ。私には、それがとても恐ろしいの。歪んだ力はね、大きくなってしまうと、いずれは爆発して崩壊してしまうのよ。――どうして私は、人の中に生まれてしまったの?」
絶対のはずの『理』が犯したミスであるのなら、それを修正するために、既に何か用意されているとは理解している。けれど、ただの『夢人』の一人でしかない少女には、『運命』まで知ることは叶わない。
どうして、私を人間に引き合わせたの?
夢世界の『理』は、運命と相性から『宿主』を選定する。彼らは全ての『夢人』を『子』として愛しているから、過ちを犯すはずがないのに……
すると、女の子が、少女のワンピースの裾をつまんだ。
「生まれてきて、よかったよ。わたし、お姉さんのこと、好きよ。お姉さんも、その子のことが、とてもすきなんだよね」
「……そうよ。好きなの、愛しているのよ。一人ぼっちでも耐えられるぐらい、私はきっと、あの子の事が好きなの。それなのにどうして、私は普通の『夢守』として、あの子を守り続ける事が出来ないのかしら」
語る声は次第に震え、少女はとうとう膝の上に顔を押し付けて泣き出してしまった。
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