上 下
121 / 159

18章 エルの始まりと、終わりへと動き出す運命(3)

しおりを挟む
 戦闘時の緊張感を覚え、エルは気を引き締めた。ボストンバッグから顔を出していたクロエに袖を引かれ、ようやく彼女と目を合わせたエルは、「大丈夫だよ」とその頭を撫でてやった。

 漂う空気には、崩壊した街の匂いと、消炎や火薬の匂いが入り混じっていた。

 自信はなかったが、エルは、片方の耳に手をあてて再度呟いてみた。

「ナイトメア」

 エルは、途端に気恥ずかしくなり言い直した。

「……やっぱりホテルマンで」

 すると、脳裏に響く声があった。

『ふふふ、お呼び頂き光栄です、我が主。ナイトメアとは、契約の際に交わし頂いた名前ですので、貴方様なら、いくらでもお呼び頂いて構わないのに』
「契約……?」
『私はその名前で『夢人』としての形を作って力を制限し、こちら側で動けるよう手筈を整えられているのです』
「ふうん、そんなものなのか」
『あまり動揺はされていないようですね。貴方様がやるべき事を、思い出されましたか?』

 エルは、短く息を吐いた。

「やるべき事は思い出せたよ。『お姉さん』を見付ければいいんだね?」
『その前に、人間が造ったプログラムを完全に破壊する事と、現在こちらに入り込んでいる人間を元の世界に戻す必要があります。人間が造り持ち込んだ物に関しては、物質世界の者でしか破壊する事が出来ないので、そちらは『愛想のない大きなお客様』に行って頂くしかありませんね』

 愛想のない、と口の中で反芻し、エルはログの顔を思い浮かべた。

 そういえば、ホテルマンはいつも彼の事をそう呼んでいたな、と思い出した。確かスウェンの事は『親切なお客様』で、セイジの事は『大きなお客様』、エルの事は『小さいお客様』だったはずだ。

 ……面倒にならないのかな、その呼び方。

 エルは不思議に思ったが、気持ちを切り替えて質問した。

「あいつがプログラム本体を破壊して、皆がここから脱出しないと、俺達は動けないって事?」
『その通りです。他にも厄介な事が発生しておりまして、『エリスの世界』に、意識だけを強制的に引きずり込まれている人間達もいるので、こちらも解放する必要があります』
「強制的に引きずりこまれている人達っていうのは?」
『外の研究所の人間達です。エリスが自身の安定の為に、所構わず吸収してしまいまして。現在取りこまれている以上の被害者を出さない為、私が応急処置は行いましたが、機械とは本当に面倒な代物ですねぇ。プログラムの一部に絡め取られてしまっている精神体に関しては、外にいる人間に対応してもらわなければならないでしょう』

 物質世界に影響を与えてはならないという制限もあり、触れる事も叶わないので、人間が輪の力を借りるしかないのだと、ホテルマンはそう説明した。

 エルは、やるべき事の順番に見当が付かず、しばらく考えた。すると、ホテルマンがそれを察したように話しを続けた。

『既に、『彼女』は覚醒しつつありますので、時間がない事には変わりありません。貴女は一先ず、街の中心にある塔を目指して下さい。プログラムの破壊が完了し、全ての人間をこの世界から追い出せたら、後は私達の出番です』
「わかった。俺は塔に向かう。その途中に、俺にも出来る事があればやっておくから」

 約束を果たす為には、やっておかなければならない事が多くあるようだ。

 時間が迫る中で、恐らくは、スウェン、ログ、セイジ、ホテルマン、エルが、それぞれの状況に応じて、一つでも多くの事をこなせるかが鍵となるのかもしれない。

『そうですね。予定が狂い、役者が一人でも欠けてしまう事態を回避するためにも、彼らには頑張ってもらわねばなりません』
「お前、俺の思考が読めるの? ……まぁ、別にいいけどさ。とりあえず俺達は、まずスウェン達の任務に協力して、アリスの救出と、プログラムの破壊を出来るだけ早く終わらせればいいって事だよね」
『左様でございます。取り込まれた精神体の件については、外の人間を使います。私の方で手筈は整えますので、ご安心を』

 エルは、決意を改めるように「うん」と深く肯いた。

 後悔なんてしない。幸せだったのだ、きっと。彼らがエルにくれた第二の人生は、彼女を大切な人と巡り合わせてくれた。余命宣告を過ぎてもオジサンは元気に逞しく生き、エルは、二十歳まで彼と同じ時間を過ごす事が出来た事が、奇跡のようにも思えるのだ。

 脳裏に過ぎるスウェン達の姿を、エルは考えないようにした。そういえば、と一つ疑問に思う。

「今、『お姉さん』と話す事は叶わない?」
『我々が求める『エリス』は、今は機械仕掛けの世界に捕らわれています。機械が我々の力を遮り、邪魔をするのです』
「どうして? 貴方なら、何でも出来そうな気がするけれど」

 この世界に存在する闇を統べる者。

 それがどのぐらい凄い事なのか、エルには実感が持てないが、彼にはもっと色々な事が出来たような気がしていた。

『……ふふ、そうですね。私の敵になりうる存在は確かにおりませんが、物質世界との事となると、色々と面倒なのですよ。ルールも沢山あります』

 ホテルマンは、どこかはぐらかすように言った。

『どうか、ご無理はなさらないで下さいね。一人で無理だと判断した場合は、私の名を呼んで下さい。すぐに駆けつけます』

 再び、地響きが足元に伝わって来た。エルは、頭の中からホテルマンの気配が消えた事を確認すると、素早く辺りに目を走らせた。

 都心の中央に聳え立つ塔が、建ち並ぶ高層ビル群の向こうに見えた。巨大な機械の塊が、まるで脈を打つような点灯を繰り返している。生温い風は、静まり返った沼地の匂いに似ていた。

 エルは、クロエに断りを入れてから塔へ向けて駆け出した。


 開けた公道には、瓦礫とひしゃげた車、横転したトラック等が散乱していた。ビルの割れた硝子の破片も多く転がっており、靴底で踏むと、更に細かく砕け散る音がした。

 どこまでもリアルな世界だ。

 コートの袖をまくり、エルは額に浮かぶ汗を拭った後、世界が周囲から崩壊してゆく様を一度だけ振り返った。

 遠くで、空と大地の全てが暗黒に飲みこまれていく様子が広がっていた。機械仕掛けの夢が、何もかも崩れ落ちていくのだと感じる。

 こちら側の世界に造られた仮想空間は、本物の『夢世界』を呑み込んで成り立っているらしいが、どんな美しい『夢』が造られていたのか、今では知りようもないのだろうと少しだけ残念に思った。

 エルは、マルクという人物を知らない。けれど全ての糸が繋がった今、気付いてしまった事はあった。彼が、どうして今回の事件を引き起こしてしまったのか。

 そう考えると、首謀者である彼をひどく責める事も出来ないでいる。

 きっと、想いが擦れ違ってしまったのだろう。エルも、マルクも、エリスも、『彼女』も――大切だからこそ、強い衝動が彼らを動かし、今回の結果を生んでしまったのだ。

 先程ホテルマンには伝えなかったのだが、実は嫌な予感を覚えてもいた。塔に近づくほど、嫌な感じは強くなっている。塔にエリスがいるからこそ、マルクはその周囲を一番守っているだろう事はエルにも容易に想像出来た。
しおりを挟む

処理中です...