仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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25章「彼女達」の旅の終わり(2)

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 姿が見えないモノ達に選べといわれて、独りぼっちで泣いている『お姉さん』を見た時から、エルは、彼女のそばに行ってあげたいと思っていた。ようやく、彼女はあの時の約束を果たす事が出来るのだ。

 エルは、泣き続けるエリスに向き直った。彼女の悲しむ姿を見ていると、つられて涙が溢れそうになった。

 思い返せば、幼い頃夢の中で彼女に、もう一度会いに来るよ、と約束したのは事故に遭う前の事だ。あれから、もう随分と年月が過ぎてしまっていた。『人工夢世界のエリス』が、ずっと待っていた人間の一人は自分であった事を、エルは今更になって思い出した。

「時間がかかってしまって、ごめんね。俺、もうどこへも行かないから」

 エルが、エリスを抱きしめようと手を伸ばし掛けた時、ホテルマンが彼女の肩を掴んで引き止めた。

 びっくりしたエルが「どうしたの」と振り返ると、ホテルマンは、自分でもよく分からない事をしているというような顔で見降ろして来た。エルの肩から手を離すと、困ったように笑う。

「……らしくない事を考えてしまいました。もう、タイムリミットなのでしょう」

 その時、不意にホテルマンの顔付きが変わった。彼は、何かを感じ取ったかのように自身の足元へ視線を向けると――ホテルマンの唇に「間に合いましたか」と薄い笑みが浮かんだ。

 唐突に、階下へと繋がる螺旋階段の入口から、強烈な風が吹き出した。野太い悲鳴と共に、大きな何かが放出される。
 
 エルは、強烈な風を背中から受けてよろめいた。ふと爆風の中に、懐かしい犬の鳴き声を聞いて振り返った時、空中に放り出されているログと目が合った。何故、彼がここにいるのだろう。クロエを連れて、無事に『外』に出られている頃のはずじゃ……?

 どうして、とエルは唇で形を作った。 

 しかし、エルの思考は長く続かなかった。見慣れた楽な格好をした白髪の大きな男が、彼女の腕を掴んだのだ。

「よッ、見ないうちに、ちょっと大きくなったか? 死に急ぐのは、まだ早いぜ、エル」

 そう言われたと思った途端に、エルは男に抱きしめられていた。

 歳老いているとは思えない逞しい身体や、彼の顎で伸び始めている白い無精髭が額にあたる痛さも、涙が込み上げるほど懐かしくて、エルは、押し付けられたオジサンのシャツを握りしめて堪え切れず泣き出した。

「ッなんで、オジサンがいるんだよ」
「なんだ。お前、俺に会いたくなかったのか? ほれ、ポタロウも一緒だぞ?」
「そういう事じゃなくて――」

 その間にも、足元では雑種犬のポタロウが、再会を喜ぶように走り回っていた。クロエを受け止めたホテルマンが、「先程振りですねぇ、夜の貴婦人」と悠長に挨拶する。エルは、訳が分からなくなった。

 オジサン――ロレンツォ・D・ナカムラは、数秒ほど可愛い娘を抱きしめていたが、無造作にエルを担ぎ上げた。彼は、戸惑う彼女に質問の暇も与えず、楽しげな顔でこう宣言した。

「ここは俺達に任せて、お前は帰れ。よっしゃ、うまく放り投げられてくれよ~」
「放り投げ……!? ちょ、待ッ!」

 言い終わらないうちに、エルは、ロレンツォの太い両手で思い切り、力任せに頭上へと放り投げられていた。

 自由のきかない空中に放り出されて、エルは「うぎゃぁあああ!」と叫んだ。空中で慌てて身体を捻り、遠ざかっていく塔を振り返ったが、下から吹き上げる風に巻き込まれて引き離される勢いが増した。

「オジサン、待ってよ! どうしてクロエがそこにいるの!? なんで俺だけッ――」
「すまんなぁ、エル。俺は一人の娘として、お前の事が可愛くて仕方がないんだ」

 言われた言葉に、エルは返せる台詞を見失った。


「愛しているぜ。どうか生きていてくれ、小鳥」


 ロレンツォが、泣きそうな顔に強がった笑顔を浮かべた。その間にも、エルの身体は、エリスのいる場所からどんどん離されていく。

 地上から勢い良く投げ飛ばされたエルを、空中でログが受けとめた。気付いたエルが「離せ! 戻る!」と暴れても、ログは、背後から彼女をしっかりと抱き締めて離さなかった。

 暴風と共に上空へと引き上げられていたログの身体は、エルを受け止めた事で、更に強い引力に引っ張られるよう加速した。

 エルは、眼下の塔に残されたエリス達を見降ろした。涙が溢れて視界が滲んだ。慌てて涙を拭ったが、こちらを見送る一同の顔を見て、誰もがこうなる事を知って望んでいたのだと気付き、涙は止まらなくなった。

 どうしてここに、オジサンやポタロウがいるのかは知らない。それでも、わざわざ天国から彼らが戻って来たのだとすると、どう足掻いても、エルに彼らの筋書きは変えられないのだと分かった。

 分かっているのだ。オジサン達が、どんな想いでこんな行動に出たのか。けれどすぐに納得出来る筈もなく、クロエがここで自分の代わりに現実世界から消えてしまう事実に耐えられるはずもなく、エルは、後ろからログに抱えられたまま泣いた。

「……俺は、嫌だよ。クロエが死んでしまうなんて、嫌だ」
「どうか泣かないで下さい、我が主人、小鳥」

 ホテルマンが、クロエを抱いたままそう言った。

「――私も、貴女が生きる未来を望んでしまったのです。それに、これは彼女の願いでもあります」

 そう告げて、ホテルマンが人間のような私情を滲ませて、弱々しく微笑んだ。彼の腕の中にいるクロエの瞳も、しっとりと濡れていた。

『ごめんなさい。でも、どうか生きていて、愛しい子。私も、貴女が愛おしくて仕方がないのよ』

 頭の中に直接響くような、深く優しい女性の声――

 エルは、その声がクロエのものである事に気付いて、ログの腕の中から身を乗り出し、「でもッ」と言葉を投げかけた。すると、途端にクロエが、小さな首を左右に振った。

『ずっと一緒に過ごしてくれてありがとう。私、とても幸せだったわ。貴女が無事に成長していく姿が、いつも私を幸福な気持ちにさせてくれたのよ』
「クロエ……」

 エルは、堪らず嗚咽をこぼした。自分を押さえつけるログの腕が憎くて仕方ないのに、どうして強く抱きしめてくる暖かい腕を、優しいとも感じてしまうのだろう。

「嫌だ、俺、クロエまでいなくなったら一人きりだ。ポタロウも、オジサンも、クロエもいなくなったら、俺には何もないんだよ」
「小鳥、お前の未来はこれからだ」

 ロレンツォが、力強く言った。

「いつか、また向こうの世界で会えたら、その時には、お前が見た未来を俺達に話し聞かせてくれ。それが最高の親孝行だぜ」

 何もかも手が届かない距離まで離れてしまっていて、もう、本当にさよならなのだ。遠ざかってゆく光景を、エルは泣きながら見送った。

 ホテルマンが淋しそうに笑い、シャツの襟元に手をやった。

「もし、叶うのならば――きっと私は、あなたの『夢人』として帰れる事を望むでしょう。決して触れあう事が出来なくとも、あなたは私の光だったのだと、今となってはそう思います。いつも見守っていた貴女に名を呼ばれ、手を引かれた事を、私は、こんなにも忘れられないのですから」

 ホテルマン、クロエ、ロレンツォ、ポタロウが、真っ直ぐエルを見上げた。彼らは互いに目配せすると、晴れ晴れとした表情を見せた。向けられたその視線が、エルに最期のさよならを告げていた。

 エルの返答も待たずに、ホテルマンが踵を返した。

 クロエがホテルマンの腕から飛び降り、泣き続ける幼いエリスへ歩み寄った。その後ろから、ロレンツォとポタロウも続いた。

『あらあら、どうしたの』

 クロエは、エリスという名前を背負った妖精の手を、優しく舐めた。

『可愛い子、どうか泣きやんで。私が、ずっとそばにいてあげるから、何も怖い事なんてないのよ』

 昔、あの子にもそう言って声を掛けたのだと、クロエは、エルとの出会いを思い起こした。

 エリスが、小さなクロエへと目を向けた。一人と一匹は潤んだ瞳で見つめ合い、――クロエが小さく肯いた。

「……わたし、あの子まで失わなくてもいいの?」
『ええ、大丈夫よ。あの子の生きている明日を望んでくれて、ありがとう。ほら、こっちへいらっしゃい。少し眠れば、きっと落ち着くわ』

 ありがとう、とエリスが泣き声で呟いて、震える手でクロエを抱きしめた。

 クロエを抱きしめたエリスの身体が、激しい光を発した。ホテルマンが、エリスの頭に手を触れると、激しい光りは塔一体に広がり、ホテルマン、ロレンツォ、ポタロウの姿を呑み込んだ。

 崩壊する世界の巨大なうねりの中で、塔から輝く光が大きくなり、中心から突如七色の光が放たれて旋回を始めた。七色の光は、まるで打ち鳴らされる鐘のような音を夢世界に響かせながら、崩れ落ちる瓦礫を巻き上げる。

 ログとエルの身体は、急速に天空へと引き寄せられ、崩壊する世界の外を覆う闇へと投げ出された。二人の身体は、あっという間にエリスの夢世界を離れてゆき、七色に光り輝くエリスの夢世界も、すぐに見えなくなっていった。

              ※※※

 覆い尽くす暗黒には、音も温度もなかった。二人の身体は闇の中を漂い、出口らしき一点の小さな光が遠くの向こうに現れて、そこに向けてゆっくりと引き寄せられる。

 ログは、泣き続けるエルの顔を正面から見据え、「頼むから、泣くな」と懇願するように言い、どうして良いのか分からない様子でぎゅっと抱き締めた。彼は、エルの小さな頭に二、三回、自分の手を置いた。

「俺は、お前を絶対に一人にしない。外には、スウェンもセイジも、アリスも、ハイソンや他の奴らだっている。だから――」

 乾いた空気の流れを感じ、ログは顔を上げた。

 出口らしき鈍い光が、いつの間にかそこまで迫っていた。次第にエルの身体が引き離され始めている事に気付いて、ログは、仮想空間は入った地点に出る仕組みだったと思い出し、引き離される力に逆らうようにエルの手を掴んだ。

 闇の中で、二人は両手を握りしめて近くから見つめ合った。

「外に出たら、すぐ迎えに行く。だから、そこで待っていろ」

 ログは「頼むから」と乞うように言い、彼女からの返事を待った。

 エルは、引き離される力に逆らうログの、大きな手の温もりを確かめたくて、きゅっと握り返した。こちらを覗きこむログは辛そうに眉を寄せていて、本当は一時でも離れたくないのだという想いが眼差しから伝わって来た。

 大きくて暖かくて、不器用だけれど優しい人。

 クロエとの別れが、辛くて悲しかった。彼らと、もっと一緒にいられたらと願った現実が、ログの暖かい手を通してエルに実感を伝えて来て、正反対の感情が心でぐしゃぐしゃになり、涙が溢れた。

 寂しい。クロエがいなくて胸が痛い。

 ポタロウが先に逝き、オジサンが他界し、クロエもいなくなってしまった。

 どうしたらいいのか分からない。温もりが恋しくて堪らない。エルが涙目で見つめ返すと、それを察したように、ログが握り締めた指先を引き寄せて、祈るように唇に押し当て「大丈夫だから」と宥めた。

 どうして握りこんだ指にキスをするのだろう、とエルは思ったが、そこに感じる唇の暖かさと吐息に、ほんの少しだけ心が落ち着いた。涙は止まらないままだけれど、どうにか声は出た。

「……本当に、俺の事を迎えに来てくれる? 俺を置いていったり、一人にしない……?」
「ああ、お前が望んでくれるのなら、この先ずっと傍にいてやる。いや、お前が望まなくても、俺はお前を絶対に離さない。――だから、もう一人で泣くな」

 その時、鈍い光りが二人を包みこんで引き離した。

 二人の意識は、そこでプツリと途切れた。
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