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「ナンバー4」の里帰り(2)実家まであと少し…雪弥の憂鬱

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 特殊機関の総本部から出発して、二時間ほど経った午前十時十分。

 雪弥の姿は、とある大自然に囲まれた田園風景のド真ん中にあった。信号機すらない細く続く一本道の脇の斜面に腰を降ろし、曲げた膝を軽く抱き寄せた姿勢で、ほどよく伸び上がった野菜畑と、その向こうに広がる緑の山々を眺めている。

 土と水と緑の匂いに交じって、動物小屋の匂いが微かにした。そよ風が優しく吹き抜けていて、日差しは柔らかくて心地よい。かなり穏やかな環境下である。

「ここって、こんなにも時代が遅れたような土地だっけ……」

 雪弥は、マンションやビルばかりの大都会から遠く離れた、この土地を思ってぼんやり口にした。今は後の事を考えたくない、と緑の風景を目に留めながら現実逃避する。
 敷地の半分以上が緑に覆われたこの土地の奥地に、正確に言えば今いる一本道を進んだ先の森の中に、広大な土地を抱えるようにして蒼緋蔵邸がある。ここから見えるあの山も、畑も、田舎の外観を失わない細い道も全て彼らの所有地だ。

 雪弥は、それを想像したくなかった。ここへ来てしばらく、自分は存在していません、と言わんばかりに斜面に座りこんでじっとしている。

 何度目かの鳥の飛翔を見届けた後、スーツの内側のポケットに入れている携帯電話を取り出して、現在の時刻を確認した。そこに付いているストラップ人形の『白豆』が、ひょうきんな表情を浮かべて揺れた。

「…………お前は、楽しそうでいいよなぁ」

 雪弥は、つい携帯電話を目の高さまで持ち上げて、前回の仕事で『飼う事になった』白豆を見つめ返した。キーホルダーにしては丸くて幅があるため、内側のポケットに入れる際には、脇の方によけてしまわないといけなかった。

 とはいえ、胸元に付ける武器収納用のホルダーに比べれば、対した大きさはない。細身であるため、元々スーツの内側のスペースだって余っているのだ。

 雪弥は『飼い主として』、白豆が潰れて窮屈になってしまわないよう、位置を調整しながら携帯電話を再びしまった。ふと、総本部の建物から出る際、一階で遭遇したナンバー1に問われ、白豆の清潔で元気な姿を見せてやったのを思い出した。
 
 あの時、何故かナンバー1は、顔をそむけて声を殺して笑っていた。彼のそばには二桁エージェントがいたのだが、凝視されたうえ今にも死にそうな愛想笑いを返された。ちゃんと飼えていると思うのだが、二人の正反対の反応が謎である。

 あ、鳥。

 青空に一羽の鳥が見えて、なんとなく目を向けた。頭上を旋回する様子を見上げていたら、背中にしている道の方から、驚いた男の声が聞こえてきた。

「兄ちゃん、こんなところでどうした?」

 ゆっくり肩越しに振り返ってみると、聞き慣れないエンジン音を上げる一台のトラクターが停まっていて、その運転席に一人の男が腰かけていた。

 齢(よわい)は四十代の後半頃、小麦色に焼けた細身をしており、麦わら帽子に袖の切られた作業着シャツという姿だった。恐らくは、この畑の所有者なのだろう。そう推測しながら、雪弥は気が抜けそうな表情のまま口を開いた。

「ここに座って、新鮮な空気を十分に吸っているんです」

 そう返された中年男は、上等なスーツで座り込む彼をじっと見て「そうかい……?」と、よく分からないように頭をかいた。トラクターを少しばかり進めて、畑の脇でエンジンを切ると、そこから降りてから雪弥に声を投げかける。

「兄ちゃん、この辺じゃあ見掛けない顔だね。外から来たのかい?」
「まぁ、そんなところです」

 雪弥は、ぼんやりと答え返した。麦わら帽子をかぶり直した彼は、気にした様子もなく一度背伸びをすると、ふと気付いたような顔を彼へと戻した。

「俺達は蒼緋蔵家っていうところに、先祖代々からお世話になっているんだが、あんたもそこへ行くのかい? だいたい、あんたみたいに綺麗にめかしこんだ連中が、よくそこの当主様に会いに行くのを、何度か見かけた事があるよ」
「…………まぁ、そんなところです」

 ピンポイントで当てられた雪弥は、視線をそらしてぎこちなく頬をかいた。正直、行きたくないなぁ、とまたしても思った。

 男がトラクターの後ろから、これから始める仕事の道具を取り出し始めた。そこで、ふと別の疑問を感じたような表情を浮かべて、自分の畑を眺めるようにして斜面に腰かけている雪弥を振り返る。

「そういえば、車も連れてないお客さんなんて初めてだな。一体どうやってここまで来たんだい?」

 これは予想外の質問だ。

 バスも通ってないのに、と不思議そうに続ける彼を前に、雪弥はまたしてもゆっくりと視線をそらしていた。自分がこうして座るまでの事を思い返して、どうにか言い訳を考えつつ口にする。

「えぇっと、僕も車だったんですよ。途中で、その、新鮮な空気が無性に恋しくなって、飛び出してしまったというか……」

 総本部の建物を出た後、言われていた新幹線に乗った。けれど、到着した駅に黒塗りのベンツが待ち構えていて、運転席から出てきた『迎え人』を見た瞬間、雪弥は反射的に逃げ出して、その脇を一目散に駆け抜けてしまったのである。

 聞いていた話と違うと感じたし、寄越すんなら心の準備をさせろよ、と思っている間に、電柱やら建物やらを踏み台にして猛然と移動し続けていた。そして、走行する車を追い抜いて、ここまで自分の足で来てしまったのだ。

 迎えに来たその人物は、長男である蒼慶が唯一認めた専属執事だった。父よりも少し年上なのだが、衰えを知らない筋肉質な長身で、背筋もピンと伸びており、年齢を感じさせない軍人のような鋭い瞳をしている。

 実際彼は、執事になる直前まで、現役で活躍していた軍人だった。頭の切れもよく優秀なのだが、自ら望んで蒼慶の執事に就いた彼が、雪弥は苦手だった。当初から『ちょっと変な人……』という第一印象は抱いていたのだが、蒼緋蔵家の執事になった経緯を聞いて、余計に苦手意識が強まった。


 その執事の名は、宵月(よいつき)。
 エリート軍人であったらしい彼は、ある時、突然蒼緋蔵家に一つの連絡を入れたという。

『是非とも、わたくしを蒼緋蔵蒼慶様の執事にして欲しい』

 亜希子を含め、家にいた全員が驚きを隠せなかったらしい。何故なら、それは雪弥も緋菜もまだ生まれていない当時の話で、蒼慶はたったの三歳だったからである。

『蒼緋蔵当主(わたし)ではなく、何故生まれて間もない、我が息子の執事にして欲しいというのか?』
『一目見て、是非この方にお仕えしたいと思った。わたくしの一生すらも捧げる覚悟である』

 その初コンタクトがあった際、尋ね返した父は「ふざけるな」というニュアンスで電話を切ったらしい。軍でも高い地位にいる彼が、自ら使用人になるなど想像出来ず、何かしらの悪戯か、ちょっとした気の迷いであると判断した。

 しかし、宵月は諦めなかった。二年間しつこく電話で希望を伝え続けたうえ、この手段ではダメかとようやく悟ると、面と向かってお願いすべく、なんと軍用ヘリコプターで蒼緋蔵家を訪れたらしい。

 その際、幼い蒼慶が分家の心を掴んだ、とあるエピソードが生まれている。当時五歳だった彼は、現われた宵月の前に立つと、当主がはらはらしながら見守る前で、顔を顰めて堂々とこう言い返したという。

『俺に仕えたいというのか。しかし生憎、優秀な軍人くらいの【普通の執事】に用ない。俺が求めているのは、絶対に裏切らない忠実で【完璧な執事】だ。突然やってこられても迷惑極まりない。礼儀も作法も知らぬ貴様では、話しにならん』

 五歳とは思えない台詞である。そのエピソードを聞いた時にも眩暈を覚えたが、けれど宵月から聞かされた話の方が、更にぶっ飛んでいた。屋敷内で一人迷子になっていたら、唐突に奴が現れて、前触れもなく語ってきたのである。

『初めてあの方にお会いした時、写真で見た以上の衝撃を覚えました。絶対に屈しない精神、蔑む眼差しで容赦のない拒絶を吐き捨てるお言葉には、身体の底から、震えるような嬉しさが込み上げたものです』

 こいつ、絶対マゾだ。

 そして、きっと、とんでもない変態……――いや、信じられないほどの変わり者であるに違いない。そう幼いながらに、雪弥が危機感を覚えた瞬間だった。


 どうやら、宵月は一回目の顔合わせを果たした後、執事に必要だと思われるあらゆる技術や知識などを習得していったらしい。幼い蒼慶に認めてもらうべく、その能力をアピールするため何年も蒼緋蔵邸に通ったようなのだが、一度だけ本気で、大激怒させた事があるのだとか。

 それは妹が生まれた年で、まだ雪弥も兄弟と顔合わせをしていなかった頃の話だ。当時を語ってくれた父も、詳細は教えてくれなくて、彼らの間で一体どういった言葉のやりとりがあって、騒ぎが勃発したのかは不明である。

 とはいえ、詳細は特に気にならない。雪弥としては、幼いながらに兄の将来を思って畏怖したし、いちいち誤解を招くような話し方をする宵月の変態性を再確認したわけで。

 つまり僕は、これから、あの二人と数年ぶりに会うわけか……

 あの二人と組み合わせを想像した雪弥は、嫌だなぁ、と心の中で呟いた。このままトンズラしてしまえないだろうか、と宙を見つめる彼の向こう側では、畑仕事に取りかかる準備を終えた男が、自分の住んでいる場所を自慢げに見回していた。

「ここの空気は、美味いだろう。俺も一度は出稼ぎで離れたけどさ、ここほど空気が美味い場所は、他になかったよ」

 唐突に話を振られて、先にしていた会話も思い出せないまま「はぁ」と間の抜けた返事をした。すると、彼が「で、兄ちゃんはこれからどうするんだい?」と続けて、何かを思い出したようにパッと瞳を輝かせた。

「母ちゃんが握ってくれた握り飯が一つあるんだが、食ってくか? 美味いぞ?」
「あの、えぇと、その大丈夫です。僕は隠れているだけなんで、そっとしておいてくださると助かります」
「隠れてる? 一体、何から?」
「あ。口が滑りました、ただ座って空気を吸っているだけです」

 その時、車扉の開閉音が聞こえて、男が「おや?」と振り返った。彼から数秒遅れて、雪弥も膝を抱えて座り込んだまま、自分の後ろにある斜面の上へと目を向ける。そこに立った人物と目が合って、「あ」と声が出た。

「雪弥様。あなた様の身体能力には、驚かされるばかりです」

 表情が豊かではない、むしろ子供が直視したら泣くレベルのいかつい顔面をした、ムキムキの長身執事――宵月がそう言った。
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