シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

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一章 老犬と始まった萬狩の新生活(3)~初日から一週間~

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 萬狩の生活は、以前住んでいた場所から遥か南に位置する沖縄へ来てからも、空が明るくなる頃から始まった。

 昨日の入居日に搬入させた家具は身に馴染み、もともと外を出歩く人間ではなかったから、都会から離れているとはいえ、食糧を買い置きすれば過ごし易いとさえ思える家に、彼は早々に満足していた。

 緑の木々に囲まれたこの家は、海から届く風もあって、窓を開ければどこからでも風の出入りがあった。五月という比較的暑さも弱い季節も、ちょうど頃合いが良かったのかもしれない。

 老犬は早朝一番に一度、トイレの用事を済ませ、弁護士から手渡された『マニュアル』に記載されている通り、朝の八時の食事の時間にはリビングへ来た。

 老犬の歩みは、一見すると優雅にも見えるゆったりとしたものだったが、もしかしたら遅い足取りは、老化によるものなのかもしれない。ちらりとそんな事を考えて、萬狩は、それはそれで少し面倒だなと感じた。彼は最低限のルールは守るつもりでいるが、まるで専門としていない動物相手の介護、という身の負担は勘弁願いたく思った。

「俺は最低限の世話はしてやるが、それ以上に手を出す気はないぞ。いいか、しっかり自分の足で歩くんだぞ」

 契約の内容には、犬が動けるうちは必要以上の介護をしなければならない決まりはなかった。萬狩としても、そこまで世話を焼くというのも気が引けて、老いた犬が理解出来るのかは知らないが、そう声を掛けた。


 雌の老犬――シェリーは朝食を済ませると、例の犬用寝室でもう一眠りし、正午になると、庭へと続くリビングの大窓の網戸を、器用に前足で開けて出てきた。萬狩が煙草を吸うため縁側に出ていた時、ちょうどシェリーが芝生の上を横切って生い茂った木々の下に行き、そこに出来た影に腰を下ろしたのだ。


 しばし就寝した後、彼女は、きっかり午後の三時にリビングへ戻ってきて、『説明書の資料』通り間食をとった。その後はピアノの楽譜が置かれてある棚の前で丸くなって眠り、夕方には点検するように各部屋を回り、縁側の前でうつ伏せになって外の景色を眺めていた。景色を眺めている間は気分がいいのか、優雅な尻尾で床を左右に擦っていた。

 萬狩はというと、朝は珈琲をやりながら新聞とニュース番組を眺め、時折、リビングから外へ出て煙草休憩を挟んだ。窓から入ってくる風の心地良さにソファの上でしばし仮眠を取り、午後にはパソコンを使って少し仕事を行い、大半は読書をして過ごした。

 持ってきた書籍は大半が未読のものだったので、暇を潰すにはもってこいだった。まだ老眼に入っていない萬狩は、若い頃に読書を楽しめなかったせいか、実を言うとそれが目新しい小さな楽しみの一つとなっていたのだった。

              ※※※

 入居して三日目、初めて老犬が書斎室へやって来た。沢山の本がつまった新しい書棚を、老犬シェリーは、しばし不思議そうに眺めていた。

 棚の一番下には大型の書物を詰めていたのだが、彼女があまりにも匂いを嗅ぐものだから、萬狩は「それは楽譜ではないぞ」と指摘した。口にしてすぐ、彼は、犬に向かって俺は何を言っているんだ、と馬鹿らしくなった。

 シェリーは、まるで言葉を理解したかのように彼を振り返り、それから、いつものような足取りでゆっくりと書斎を出ていった。


 新しい土地での暮らしが始まって、一週間が過ぎた月曜日、入居の際に知らされていた獣医の訪問検診が午前中にあり、少し時間を置いて専門の配達業者が一人で、ペットフードとペットの生活用品を届けにやって来た。


 ペットのトイレシートに関しては、萬狩が数時間置きにきちんと替え、嫌々ながら清潔に保つ努力は行っているのだが、週に一度は犬用のトイレも、訪問するその業者によって、きちんと清潔な状態にまで清掃された。

 どうやら配達人の青年は、きちんとした動物関係の資格も持っているようで、シェリーは彼によって丁寧に風呂に入れられ、毛先を整えられ、マッサージまで受けた。青年の方もサービスを受けるシェリーも慣れた様子で、萬狩は、それを物珍しげに眺めた。

 この老犬を人間に例えるとするならば、その暮らしぶりは実に優雅なものに思えた。

 例えば彼女は、高齢の犬にしては綺麗な毛並みが保たれているし、栄養バランスの考えられた食事に、週に一回のケアまである。体格もそれなりに立派に見えるのは、こういった金が十分にかかっているせいでもあるのだろうと考えると、萬狩には珍しくて、どこか面白くも映った。

「お前は、優雅な生活を送っているなぁ」

 萬狩が思わず呟くと、老犬にマッサージをしていた青年が、ちらりとこちらを見やった。すると、シェリーが幸福そうな顔のまま、まるで萬狩の言葉が分かったかのように「ふわん」と不思議な声を上げた。

 老犬の鳴き声を聞いたのは、共に暮らし始めて一週間、これが初めての事だった。萬狩が思わず「お前さん、喋れたのか」と驚きを口にすると、青年が彼よりも驚いた顔で素早く振り返り、目を丸くした。

「えッ。あなた日本語に聞こえたんですか。そりゃすごい。僕なんて、まだ動物の言葉なんて理解出来ないでいるんですよ」

 若い彼はそう言って、羨ましげな溜息を吐いた。

 萬狩は、予想外の反応に上手く言葉が出て来なかったが、内心では「なんてのんびりした男なんだろうか」と苦々しく思った。青年は老犬のマッサージを続けながら、呑気な口調で勝手に「僕、仲西(なかにし)っていいます」と喋り始めた。

 話を聞いてすぐ、どうやら青年はトリマーの資格等も持っているらしいと分かった。務めている会社には複数の部署があるのだが、仲西はペット用品の配達を主に行っており、寿退職した中堅の女社員の指名により、この役目を引き継いだらしい。

「一人でやらなくちゃいけないから、結構色々とやれる人間じゃないと任せられないっていう光栄な仕事ではあるんですよ。後は、やっぱり相性の問題ですかね。僕よりも経験が長い他の候補の人、どうもシェリーちゃんが触らせてくれなかったみたいで。ああ、そういえば獣医のお爺さん、いたでしょう? 彼、仲村渠(なかんだかり)さんっていうんですけど、シェリーちゃんが産まれた頃からの付き合いらしいです、すごいですよねぇ!」

 仲西(なかにし)青年は、萬狩が呆気に取られるほど自由に喋り続けていた。女のような話の飛び方に押されてい萬狩は、青年の話が獣医へと移った時、耐えられず「ちょっと待て」と口を挟んだ。

「確かに獣医は来たが、――ナカ、なんだって?」

 飛び出た聞き慣れない名前に、思わず尋ね返していた。

 すると、肩越しに振り返った仲西が、顔を顰めた萬狩を見て「えへへ」と弛緩するような屈託のない笑みを浮かべた。萬狩は訝しみ、ますます眉間の皺を深めた。

「なんだ。俺は何か可笑しい事でも言ったか?」
「ずっと僕ばかりが喋っていたので、話し掛けられて何だか安心しちゃったんです。萬狩さん、でしたっけ? 顔付きとか雰囲気が『人の名前にも興味がなさそう』だったから、ちょっと予想外で笑ってしまいました」
「おい、語尾に笑いが付きそうな口調でハッキリというんじゃない。失礼だな、俺は関わる人間の顔と名前は、把握するように努めているんだ。――で、獣医の名前はなんだって?」

 獣医は中西青年よりも先に訪問があったのだが、初対面の開口一番が「こんにちは、町の獣医です」と緊張感のないものだったから、つい名前を聞きそびれてしまっていた。


 獣医はかなり高齢の老人で、随分小さくて細く、老人とは思えない貫禄の全くない喋り方をしていた。仕事で訪問する人間としてはどうだろうか、と萬狩が疑問に思うほど、強烈なのんびりっぷりだった。

 老人獣医は「私が獣医ですよ~、はいはい、上がらせて頂きますねぇ」と慣れたように靴を脱ぎ、マイペースな空気のまま「やぁやぁシェリーちゃん、今日も美人さんだねぇ」と老犬の診察という仕事をしたかと思えば、「あ、今日は長居が出来ないんだった」と急に用事を思い出したように、勝手に帰っていってしまったのだ。


 萬狩が、どうにも癖のありそうな老人獣医を思い返していると、仲西青年が、シェリーへのマッサージに仕上げをかけながら、ゆっくりと獣医の名を口にした。

「ナカンダカリ、ですよ」

 萬狩は数秒ほど口の中で反復し、しっかりと記憶に刻みつけたが、しばらく考えても漢字は思い浮かばなかった。
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