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一章 老犬と始まった萬狩の新生活(4)~三週間と、それから少し~
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三回目に、仲村渠(なかんだかり)老人と仲西(なかにし)青年の訪問があった際も、萬狩は他人が家の中にいる事に慣れず、しばらく傍で見守っていた。
すると老人獣医が、のんびりした口調で「煙草の灰皿を下に置くのは、避けて欲しいですねぇ」と、実に動物に優しい正論を語りだした。誤飲などの内容を聞いて、萬狩は「……確かにそうだな」と遅れて察し、考えさせられた。
「そうなると、煙草の吸い殻はまずいな……」
「動物を飼うのは、本当に初めてなのですねぇ」
老人は獣医が、叱るでもなくのんびりと微笑んだので、萬狩は仏頂面で「そうだが?」と返した。
すると、やはり獣医は、まるで孫を見るように穏やかに目を細めて「それを『いけない事だ』と指摘しているわけではありませんよ」と言い、お留守番なら任せて下さいと主張してきた。仲西が瞳を輝かせ、「それは名案ですね!」と賛同した。
今まで暮らしていた土地であれば、他人に家の留守を任せるというのは発想もない事なのだが、田舎地方では現在でも親しまれているらしい、という知識は萬狩も持っていた。
呑気な二人の顔を見るのは三回目だったが、悪意はまるでなさそうだとも空気感から察しており、所属先も把握している。そもそも、この家には弁護士も関わっているのだから、老犬を一匹残すよりも、面倒を見てくれるプロを置いた方が安心だろうとも思えた。
そう考え、萬狩は「それなら留守を任せても平気か」と、郷に入っては郷に流されようと都合良く結論し、彼らに家を任せて外出した。
この地域に家具店はなかったので、南下する形で、沖縄市まで車を走らせた。そこで高さのある立派な灰皿を購入し、ついでとばかりに、テラスに置けるテーブルセットを購入して配達の予約も入れた。
家具店に足を運ぶのは久しぶりの事で、目的を早々に達成した萬狩は、つい広い店内を見て回ってしまった。すると小腹が減ってしまい、店内のカフェで珈琲とサンドイッチを堪能した。
さて戻るかと車に乗り込んだところで、ようやく現在の時刻を確認して、萬狩は「しまったッ」と慌てて車を走らせた。平日の330号線は車が多く、別の道でも長い渋滞に遭遇してしまい、帰宅した頃には午後三時を大きく過ぎてしまっていた。
獣医は既に帰っていたが、仲西青年が縁側に腰かけていて、シェリーへ丹念なブラッシングをかけていた。
出かけた際となんら変わりのない口調で、仲西は、老犬の日課である午後三時の間事に関しては済ませましたよと、呑気にそう報告してきた。萬狩は、こんなにも長時間、彼が平気な顔で待ってくれた事に戸惑いながらも、「済まなかったな」と礼を述べた。
「大丈夫ですよ。元々、僕らの方でローテンションを組んで面倒を見ていましたし、僕は今や『シェリーちゃん専属』なので、時間だって自由に使えるんです」
「……随分金が掛かっているんだな?」
「さぁ、どうですかね。僕は亡くなった『この家のお婆さん』を知らないけど、それだけシェリーちゃんを大事にしていたんだと思います」
シェリーをブラッシングする仲西の手は、優しく労わるように動いている。話しながらも仲西は、どこか楽しく笑う瞳をずっと老犬に向けていた。
萬狩は、ふと尋ねてみた。
「お前は、動物が好きか」
「好きですよ。飼ってはいないけど、犬には特に思い入れがあるんです」
そう言って仲西青年は、どこか寂しそうな顔をして笑った。それが少しだけ頭の片隅に引っ掛かったが、萬狩は、あえて詳細は尋ねなかった。
萬狩が三回目の『老犬専属の訪問』でようやく見慣れたのは、老犬のシェリーが必ず行う『お見送り』だった。シェリーはいつも、帰ってゆく関係業者の車を玄関先で見送った。車が去っていく姿を見つめながら、二、三回ゆっくりと尻尾を床の上で左右に振るのだ。
恐らく老犬は、自分の世話を焼いてくれる彼らに、すっかり懐いているのかもしれない。無暗に煩く吠えた事はないし、見送る顔は微笑んでいるようにも見える。
人間とは違って、動物とはそういうものなのだ。
萬狩は、仲西青年の運転するバンを見送る老犬の隣で、彼女が考えているかもしれない関係図を脳裏に浮かべ「……さしずめ俺は、ご飯とトイレシートの交換係りか」と、また独り言を口にした。
※※※
一緒に住むようになってから三週間が過ぎた頃、老犬は、萬狩の足元にいる事が多くなった。
萬狩が暇を持て余し、開け放ったリビングの大窓から外を眺めていると、シェリーは特に用事もないくせに隣に腰かけて、同じように縁側を眺めたりする。特に何かを求めてくる事も、迷惑を掛けてくる事もないので、萬狩は好きにさせておいた。
「――とはいえ、どうも暇過ぎるなぁ」
彼がそう呟くと、「ふわ」と答える声があった。吐息交じりの、掠れた特徴あるシェリーの鳴き声に、萬狩はピタリと口を閉じて、ちらりとそちらを見降ろした。
最近はまた聞いていなかったから、すっかり忘れていた。
そう言えば、こいつは鳴けるのだったな、と当たり前の事を思い出した。
聞いたのはこれが二回目だ。そう思い返しながら声の方を向いた萬狩は、シェリーの瞳が輝いたような気がして、思わず顰め面を作った。「別にお前に言ったわけじゃないぞ」と萬狩はつっけんどんに言ったのに、老犬は、楽しそうに床の上で尻尾を振った。
暇を持て余していると自覚した萬狩は、その翌日、雑草が早々に伸び始めた庭を一望し、久々に身体でも動かそうと考えた。最近は夕刻になると蚊も多いような気がするし、ここ三週間と少しで、すっかり足腰が無駄に重くなったような気もしていた。
朝一番に車を走らせて、街で必要なものを購入した後、萬狩は早速、広い庭の雑草刈りを始めた。普段ならなんでも業者を雇って金で解決していた萬狩だったが、環境の違いのせいなのか、暇がそうさせているか、不思議と汗を流す事に苦を覚えなかった。
買い物をしていた時から、どうもワクワクしている自分にも気付いていた。初めての取り組みであるので新鮮でもあったし、新しい草刈り機が、ひどく役に立っている事も大きいのかもしれない。
調子に乗って広い敷地内の雑草のほとんどに手を出したのはいいが、ふと我に返った時、辺りを見渡して、廃棄する草の量に萬狩は愕然とした。それは、雨に降られでもしたら、更に虫の発生を促しかねない惨状だった。
実に予想外だった。大変だったのは、どうやら『草刈り』ではなく、刈った草を袋にまとめる作業だったらしい。
萬狩が足腰の負担に「畜生」と愚痴をこぼし、汗を拭いながら刈られた草を袋に詰める様子を、シェリーがリビングから出て少しの場所に寝そべった状態で、涼しげに眺めていた。彼女が眠る気配はなく、欠伸をする様子も見せなかった。
老犬の食事と間食の時間を守るべく、萬狩は作業の間、腕時計で何度も時刻を確認していた。まだ三割の草も詰められていない状況だったが、あっという間に昼食の時間になってしまい、老犬に食事を与えるついでに、煙草休憩も兼ねて自分も軽く何か食べる事を決め、作業の手を止めた。
キッチンに立つのは億劫だったので、萬狩は、焼いた食パンにバターを塗って食べた。
一度身体を休めてしまうと、すぐにでもシャワーを浴びたい気分にさせられたが、この家には彼一人しかいないのだ。誰かに任せられるはずもなく、萬狩は一休憩の後、重い腰を上げて広い庭での作業を再開した。
帽子を着用してはいたが、六月に入ったばかりにしては直射日光がやたら眩しくて、暑苦しさを感じた。陽が傾くに従い、汗まみれになった肌を蚊が刺し始めた。屈んでの作業は腰にも響き、取る水分がすべて体外に放出されているように思えるほどの汗をかいた。
「沖縄は、暑いなあ」
ようやく一通りの作業を終えたのは夕刻で、萬狩は、堪らず冷房機を稼働させた。部屋内の生温かい空気が出ていくのを待ちながら、一人でやりとげた達成感のままに、縁側の近くに置いた新しいテラス席から庭を眺めて、ビールを飲んでみた。
茜色に染まる原っぱを冷静に眺めてみると、あちらこちらと刈った草の高さが違う事や、切り残し雑草がある事に気がついたが、まぁ些細な事だろうと自分を慰めた。
初めてにしては、上出来だと思う。
不思議とこれまでにない、そんな悠長な充実感に満たされた。
不意に、無駄にも広いとさえ思えるこの庭を、前家主がどのように活用していたのか気になった。
手入れには勿論金はかかるだろうし、小屋の一つも建てなかったという事は、きっと、それなりに利用価値はあったのだろう。しかし一体、何に活用していたのか?
先程まで、雑草が詰められた袋を抱え、庭と自宅の前を往復する様子を木陰から眺めていたシェリーが、考える萬狩の傍らに、当然のような顔で腰を降ろした。彼は「優雅な犬め」と眉を顰め、彼女を見降ろしたところで、ふと思い立った。
「なぁ、お前――」
自然と犬に話しかけそうになった萬狩は、ふと我に返り、口をつぐんだ。
そもそも彼女は犬なのだから、言葉が通じる相手ではないのだ。質問をしたからって、共感や、提案の一つが返ってくるわけでもない。
いくら一人暮らしが続いているからといって、どうして俺は、彼女が以前の暮らしの様子を知っているなんて、そんな想像をしてしまったのだろう?
「……馬鹿らしい。犬は、犬だろう」
多分、庭の草刈りで疲れているのだろう。
そう考えた萬狩は、早めに就寝する事にした。
家事と予定分の老犬の世話を終え、シャワーですっきりして早々にベッドに入った。すると、普段の就寝時間でないにも関わらず、シェリーも当然のような顔で自分の籠に入って丸くなった。
どうやら彼女は、家主が早く寝付けば自分も早く寝る、という生活リズムを持っているらしいと萬狩は察した。不思議だったのは、友人から言われていた犬の寝付きの特性を、シェリーが持っていない事だろうか。
老犬のシェリーは、寝言も上げなければ、夢を見ながら足をばたつかせる動きもしなかった。夜中にご飯をねだって起こしにくる事もないので、物音に敏感な萬狩も、こちらに移住してからというものよく眠れていた。
実に妙な犬だ。全く吠えないし、ほんとに稀に変な声で鳴く。俺が早く寝る時は、まるで空気を読んだみたいに共に就寝するとか、まるで共同生活をよく理解している人間みたいだな、と萬狩は思いつつ目を閉じた。
その日の夜、萬狩は適度に疲労したおかげか、すぐに心地良い眠りに落ち、やけに鮮明な夢を見た。
老いた女主人が、西洋風のワンピースドレスを着て、整えられた庭先に立っている夢だった。リビングから見える位置には、家庭菜園と美しい花壇まであって、夢の中で萬狩は、そこに立つ彼女の後ろ姿を見ていた。
顔の見えない老いた女主人の横には、あの老犬が、誇らしげに胸を張って座っている後ろ姿まであった。
実に素晴らしい庭に佇む老いた貴婦人と犬、という光景だったような気もするが、残念な事に、目が覚めると途端に風景は霧散していった。
それでも夢の中で、風になびいていた白いワンピースと、くるくる回るレースの白い傘。そして、ふわり、ふわりと、右へ左へと楽しげに動くふさふさとした若々しい犬の尾が、どうしてか断片的に抽象的なイメージとして、萬狩の中に刻み付けられていた。
すると老人獣医が、のんびりした口調で「煙草の灰皿を下に置くのは、避けて欲しいですねぇ」と、実に動物に優しい正論を語りだした。誤飲などの内容を聞いて、萬狩は「……確かにそうだな」と遅れて察し、考えさせられた。
「そうなると、煙草の吸い殻はまずいな……」
「動物を飼うのは、本当に初めてなのですねぇ」
老人は獣医が、叱るでもなくのんびりと微笑んだので、萬狩は仏頂面で「そうだが?」と返した。
すると、やはり獣医は、まるで孫を見るように穏やかに目を細めて「それを『いけない事だ』と指摘しているわけではありませんよ」と言い、お留守番なら任せて下さいと主張してきた。仲西が瞳を輝かせ、「それは名案ですね!」と賛同した。
今まで暮らしていた土地であれば、他人に家の留守を任せるというのは発想もない事なのだが、田舎地方では現在でも親しまれているらしい、という知識は萬狩も持っていた。
呑気な二人の顔を見るのは三回目だったが、悪意はまるでなさそうだとも空気感から察しており、所属先も把握している。そもそも、この家には弁護士も関わっているのだから、老犬を一匹残すよりも、面倒を見てくれるプロを置いた方が安心だろうとも思えた。
そう考え、萬狩は「それなら留守を任せても平気か」と、郷に入っては郷に流されようと都合良く結論し、彼らに家を任せて外出した。
この地域に家具店はなかったので、南下する形で、沖縄市まで車を走らせた。そこで高さのある立派な灰皿を購入し、ついでとばかりに、テラスに置けるテーブルセットを購入して配達の予約も入れた。
家具店に足を運ぶのは久しぶりの事で、目的を早々に達成した萬狩は、つい広い店内を見て回ってしまった。すると小腹が減ってしまい、店内のカフェで珈琲とサンドイッチを堪能した。
さて戻るかと車に乗り込んだところで、ようやく現在の時刻を確認して、萬狩は「しまったッ」と慌てて車を走らせた。平日の330号線は車が多く、別の道でも長い渋滞に遭遇してしまい、帰宅した頃には午後三時を大きく過ぎてしまっていた。
獣医は既に帰っていたが、仲西青年が縁側に腰かけていて、シェリーへ丹念なブラッシングをかけていた。
出かけた際となんら変わりのない口調で、仲西は、老犬の日課である午後三時の間事に関しては済ませましたよと、呑気にそう報告してきた。萬狩は、こんなにも長時間、彼が平気な顔で待ってくれた事に戸惑いながらも、「済まなかったな」と礼を述べた。
「大丈夫ですよ。元々、僕らの方でローテンションを組んで面倒を見ていましたし、僕は今や『シェリーちゃん専属』なので、時間だって自由に使えるんです」
「……随分金が掛かっているんだな?」
「さぁ、どうですかね。僕は亡くなった『この家のお婆さん』を知らないけど、それだけシェリーちゃんを大事にしていたんだと思います」
シェリーをブラッシングする仲西の手は、優しく労わるように動いている。話しながらも仲西は、どこか楽しく笑う瞳をずっと老犬に向けていた。
萬狩は、ふと尋ねてみた。
「お前は、動物が好きか」
「好きですよ。飼ってはいないけど、犬には特に思い入れがあるんです」
そう言って仲西青年は、どこか寂しそうな顔をして笑った。それが少しだけ頭の片隅に引っ掛かったが、萬狩は、あえて詳細は尋ねなかった。
萬狩が三回目の『老犬専属の訪問』でようやく見慣れたのは、老犬のシェリーが必ず行う『お見送り』だった。シェリーはいつも、帰ってゆく関係業者の車を玄関先で見送った。車が去っていく姿を見つめながら、二、三回ゆっくりと尻尾を床の上で左右に振るのだ。
恐らく老犬は、自分の世話を焼いてくれる彼らに、すっかり懐いているのかもしれない。無暗に煩く吠えた事はないし、見送る顔は微笑んでいるようにも見える。
人間とは違って、動物とはそういうものなのだ。
萬狩は、仲西青年の運転するバンを見送る老犬の隣で、彼女が考えているかもしれない関係図を脳裏に浮かべ「……さしずめ俺は、ご飯とトイレシートの交換係りか」と、また独り言を口にした。
※※※
一緒に住むようになってから三週間が過ぎた頃、老犬は、萬狩の足元にいる事が多くなった。
萬狩が暇を持て余し、開け放ったリビングの大窓から外を眺めていると、シェリーは特に用事もないくせに隣に腰かけて、同じように縁側を眺めたりする。特に何かを求めてくる事も、迷惑を掛けてくる事もないので、萬狩は好きにさせておいた。
「――とはいえ、どうも暇過ぎるなぁ」
彼がそう呟くと、「ふわ」と答える声があった。吐息交じりの、掠れた特徴あるシェリーの鳴き声に、萬狩はピタリと口を閉じて、ちらりとそちらを見降ろした。
最近はまた聞いていなかったから、すっかり忘れていた。
そう言えば、こいつは鳴けるのだったな、と当たり前の事を思い出した。
聞いたのはこれが二回目だ。そう思い返しながら声の方を向いた萬狩は、シェリーの瞳が輝いたような気がして、思わず顰め面を作った。「別にお前に言ったわけじゃないぞ」と萬狩はつっけんどんに言ったのに、老犬は、楽しそうに床の上で尻尾を振った。
暇を持て余していると自覚した萬狩は、その翌日、雑草が早々に伸び始めた庭を一望し、久々に身体でも動かそうと考えた。最近は夕刻になると蚊も多いような気がするし、ここ三週間と少しで、すっかり足腰が無駄に重くなったような気もしていた。
朝一番に車を走らせて、街で必要なものを購入した後、萬狩は早速、広い庭の雑草刈りを始めた。普段ならなんでも業者を雇って金で解決していた萬狩だったが、環境の違いのせいなのか、暇がそうさせているか、不思議と汗を流す事に苦を覚えなかった。
買い物をしていた時から、どうもワクワクしている自分にも気付いていた。初めての取り組みであるので新鮮でもあったし、新しい草刈り機が、ひどく役に立っている事も大きいのかもしれない。
調子に乗って広い敷地内の雑草のほとんどに手を出したのはいいが、ふと我に返った時、辺りを見渡して、廃棄する草の量に萬狩は愕然とした。それは、雨に降られでもしたら、更に虫の発生を促しかねない惨状だった。
実に予想外だった。大変だったのは、どうやら『草刈り』ではなく、刈った草を袋にまとめる作業だったらしい。
萬狩が足腰の負担に「畜生」と愚痴をこぼし、汗を拭いながら刈られた草を袋に詰める様子を、シェリーがリビングから出て少しの場所に寝そべった状態で、涼しげに眺めていた。彼女が眠る気配はなく、欠伸をする様子も見せなかった。
老犬の食事と間食の時間を守るべく、萬狩は作業の間、腕時計で何度も時刻を確認していた。まだ三割の草も詰められていない状況だったが、あっという間に昼食の時間になってしまい、老犬に食事を与えるついでに、煙草休憩も兼ねて自分も軽く何か食べる事を決め、作業の手を止めた。
キッチンに立つのは億劫だったので、萬狩は、焼いた食パンにバターを塗って食べた。
一度身体を休めてしまうと、すぐにでもシャワーを浴びたい気分にさせられたが、この家には彼一人しかいないのだ。誰かに任せられるはずもなく、萬狩は一休憩の後、重い腰を上げて広い庭での作業を再開した。
帽子を着用してはいたが、六月に入ったばかりにしては直射日光がやたら眩しくて、暑苦しさを感じた。陽が傾くに従い、汗まみれになった肌を蚊が刺し始めた。屈んでの作業は腰にも響き、取る水分がすべて体外に放出されているように思えるほどの汗をかいた。
「沖縄は、暑いなあ」
ようやく一通りの作業を終えたのは夕刻で、萬狩は、堪らず冷房機を稼働させた。部屋内の生温かい空気が出ていくのを待ちながら、一人でやりとげた達成感のままに、縁側の近くに置いた新しいテラス席から庭を眺めて、ビールを飲んでみた。
茜色に染まる原っぱを冷静に眺めてみると、あちらこちらと刈った草の高さが違う事や、切り残し雑草がある事に気がついたが、まぁ些細な事だろうと自分を慰めた。
初めてにしては、上出来だと思う。
不思議とこれまでにない、そんな悠長な充実感に満たされた。
不意に、無駄にも広いとさえ思えるこの庭を、前家主がどのように活用していたのか気になった。
手入れには勿論金はかかるだろうし、小屋の一つも建てなかったという事は、きっと、それなりに利用価値はあったのだろう。しかし一体、何に活用していたのか?
先程まで、雑草が詰められた袋を抱え、庭と自宅の前を往復する様子を木陰から眺めていたシェリーが、考える萬狩の傍らに、当然のような顔で腰を降ろした。彼は「優雅な犬め」と眉を顰め、彼女を見降ろしたところで、ふと思い立った。
「なぁ、お前――」
自然と犬に話しかけそうになった萬狩は、ふと我に返り、口をつぐんだ。
そもそも彼女は犬なのだから、言葉が通じる相手ではないのだ。質問をしたからって、共感や、提案の一つが返ってくるわけでもない。
いくら一人暮らしが続いているからといって、どうして俺は、彼女が以前の暮らしの様子を知っているなんて、そんな想像をしてしまったのだろう?
「……馬鹿らしい。犬は、犬だろう」
多分、庭の草刈りで疲れているのだろう。
そう考えた萬狩は、早めに就寝する事にした。
家事と予定分の老犬の世話を終え、シャワーですっきりして早々にベッドに入った。すると、普段の就寝時間でないにも関わらず、シェリーも当然のような顔で自分の籠に入って丸くなった。
どうやら彼女は、家主が早く寝付けば自分も早く寝る、という生活リズムを持っているらしいと萬狩は察した。不思議だったのは、友人から言われていた犬の寝付きの特性を、シェリーが持っていない事だろうか。
老犬のシェリーは、寝言も上げなければ、夢を見ながら足をばたつかせる動きもしなかった。夜中にご飯をねだって起こしにくる事もないので、物音に敏感な萬狩も、こちらに移住してからというものよく眠れていた。
実に妙な犬だ。全く吠えないし、ほんとに稀に変な声で鳴く。俺が早く寝る時は、まるで空気を読んだみたいに共に就寝するとか、まるで共同生活をよく理解している人間みたいだな、と萬狩は思いつつ目を閉じた。
その日の夜、萬狩は適度に疲労したおかげか、すぐに心地良い眠りに落ち、やけに鮮明な夢を見た。
老いた女主人が、西洋風のワンピースドレスを着て、整えられた庭先に立っている夢だった。リビングから見える位置には、家庭菜園と美しい花壇まであって、夢の中で萬狩は、そこに立つ彼女の後ろ姿を見ていた。
顔の見えない老いた女主人の横には、あの老犬が、誇らしげに胸を張って座っている後ろ姿まであった。
実に素晴らしい庭に佇む老いた貴婦人と犬、という光景だったような気もするが、残念な事に、目が覚めると途端に風景は霧散していった。
それでも夢の中で、風になびいていた白いワンピースと、くるくる回るレースの白い傘。そして、ふわり、ふわりと、右へ左へと楽しげに動くふさふさとした若々しい犬の尾が、どうしてか断片的に抽象的なイメージとして、萬狩の中に刻み付けられていた。
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