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三章 その光景と音と、目に沁みる満天(3)
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週に二回ピアノ教室へ通う事になった萬狩は、翌週の月曜日、内間の夫から話を聞いたらしい仲西青年に開口一番「ピアノを習い始めたんですねッ」と興奮気味に言われた。
やはり内部事情がただ漏れになっているのか、という現状を改めて知った萬狩が顔を引き攣らせる中、仲西は気付かずに「すごいですねぇ、いいですねぇ!」と瞳を輝かせ、「僕も通おうかなぁ」と実に楽しそうに言った。
「大学時代の友人がピアノをやっていて、憧れたけど、練習とかちっとも出来なかったんですよねぇ。うーん、アキ姉ちゃんに習ったら、先輩に嫉妬されるかなぁ」
「信用されていない後輩だな?」
恐らく『アキ姉ちゃん』とは、今は職場の先輩の妻であり、幼馴染でピアノ講師の内間の事だろう。萬狩はそう察しながら、たったそれだけで男女の仲を疑われるものだろうかと思って、半ば指摘するように口にした。
すると、仲西は「こんなに信用が厚い顔をしているのに、不思議なもんです」と、責任感や思慮深さとは無縁そうな呑気さで首を捻った。
「多分、僕の方が彼女との付き合いが長いから、そこを心配しているんだと思います。僕はちっとも女性にモテないから、安心してくれてもいいと思いません?」
「そこを自分で言い切って、お前は悲しくならないのか?」
「あッ、そうだ! 月曜日だけじゃなくて、僕は木曜日もここに通うようにしますね。シェリーちゃんの事は僕にどーんと任せて、萬狩さんは気にせずピアノ教室を頑張って下さいね!」
「お前、俺の話を聞いていないな。というか、お前は暇なのか?」
萬狩は返って心配になった。仲西青年は、やはり陽気な顔で「僕は今やシェリーちゃん専属ですからね! 担当者の特権ですよ」と笑った。
「大丈夫ッ。電話で報告はしますし、会社だってそれなりに多過ぎるぐらいのお金をもらっているんだから、オーナーも文句一つ言わないと思います!」
そういう店側の事情を簡単に口にするから、信用されないんじゃないのか?
萬狩は、喉元まで出かかった言葉を珈琲で流し込んだ。ふと遅れて「それにしても、この歳で習い事かぁ……」と自分で恥ずかしく思ったものの、結局仲西青年も、後に来た獣医の仲村渠(なかんだかり)老人も、冷やかしの一つもくれなかった。
月曜日だけでなく、木曜日も仲西青年が訪問してくれる事になり、三日後の木曜日、萬狩は留守の心配をせずピアノ教室に向かう事が出来た。その日、教室には先客が一人いて、萬狩は初めて自分以外の受講者を見た。
それは三十代前半ほどの外見をした、全体的に丸くふっくらとした肌の白い男で、耳にイヤホンを付けて、怪しい姿勢で必死にピアノと向き合っていた。彼は入ってきた萬狩を、やたら幼い印象のある子供のような瞳でチラリと見た。
どうも気の弱そうな顔立ちをしており、男は少し緊張したように肩身を竦めると、ふいっと視線をそらして、ひどい猫背のまま、再び視線を手元へと戻した。
まるで、風船が詰め込まれているような、ぷよぷよと柔かそうな丸い身体だった。随分背が低いのか、若干靴底が床に届いていない様子が、萬狩には少しだけ物珍しくもあって、思わず男の足元をじっと見てしまった。
「おはようございます、萬狩さん」
入って来た萬狩に気付いた内間が、そう愛想良く声を掛けてきた。彼女は空色のワンピース・スカートに、水玉模様のシュシュで髪をまとめていた。
萬狩は、ぎこちなく愛想笑いを浮かべて、内間に「どうも」と会釈した。彼女がにっこりとしたまま動かないでいたので、他にも何か話題を繋げた方がいいだろうかと考えて、「あの」と億劫ながら話を続けてみた。
「とても必死そうな生徒さんがいるんだが、なんというか深刻――いえ、真剣に向き合っているな、と……」
「三ヶ月前から通って頂いている方なんですよ」
「まさか彼にも横繋がりがあるんじゃ――うぉっほんッ。ええと、彼とは顔見知りなのか?」
「いいえ? 彼、ご自身で雑誌の広告を見て来てくれたみたいなんです。名前にも覚えがないので、ここの地区の人ではないでしょうね」
内間は「有り難いお話です」と笑顔を浮かべた。少ないが、他にもそういった生徒はいて、今後増えていくと嬉しいですと彼女は語った。萬狩は相槌を打ちながら、そうだよな、偶然がそんなに重なるはずがないじゃないか、と己れの心配を払拭した。
俺らしくもなく、バカな懸念をしたものだ。谷川から物件の話を聞いてから、まるでそこから何かが始まっているかのように、出会う人間が全てなんらかに繋がっていて、奇妙な縁の中に自分が放り込まれているだなんて、そんな事を考えるだなんて。
「――そんな三流小説みたいな展開は、そう続かないだろう」
「え、何がですか?」
胸中で呟いたはずが、思わず後半のぼやきが口をついて出ていた。
恐らく、老犬に話しかける事に違和感がなくなってきたせいだろう。萬狩は「妙な癖がついたな、くそッ」と心中では悪態をつき、きょとんとしてこちらを覗き込む内間には「何でもない」と言い訳した。
復習がてら、一度内間にお手本として伴奏を見せてもらい、楽譜の一小節分を丁寧に教えてもらった後で、萬狩はイヤホンを耳にあて、ひどく押し心地の軽い電子ピアノへ向きあった。
萬狩は楽譜を睨みつけながら、間違いのないよう意識して両手を必死に動かし、ゆっくりと鍵盤を押していった。時間を忘れて集中していると首に痛みを覚え、顔を起こしたところで、楽譜と手元に集中するあまり姿勢が前のめりになり、自分も半ば猫背になっている事に気がついた。
萬狩は思わず、自分の後方に座っている男を肩越しに盗み見た。
きっと彼も、不慣れながら必死なのだろう。そう共感して初めて、先程、物珍しいとばかりに彼を見つめてしまった自分を恥じた。
姿勢が強張ったら、上手く指先も動いてくれないかもしれないと、萬狩は緊張を吐息と共に吐き出し、姿勢を正した。
内間が弾いていた時の様子を脳裏に思い浮かべ、肩の緊張を解して、再び鍵盤の上に両手を置いてみた。パソコンと同じ要領で、指から出来るだけ力を抜く事も意識すると、ぎこちなくではあるが、当初よりも随分指先への負担が軽くなってくれたような気がした。
萬狩が水分補給で一時手を休めている間も、後方の小さな丸い男は、顔にじっとりと汗を浮かべながらずっとピアノに向かっていた。内間が休憩を促しても、イヤホンを外さないまま「放っておいて下さい」と言わんばかりに首を激しく左右に振って、練習に戻ってしまう。
必死に鍵盤を叩き続ける男は、萬狩がじぃっと見つめていても気付かないくらい集中していた。その手元は、リズムが取れていない以前の問題がありそうな気がした。なんというか、力が入り過ぎて、指先も全体的に不器用というような……
必死に練習に打ち込まなければならないような、何か強い思い入れでもあるのかもしれない。いや、もしかしたら三十代前半だと思っている俺の観察眼が間違っていて、彼は現役の学生かもしれなくて、ピアノに関連する何かに追われている可能性だってある。
人の事情も十人十色だ。萬狩は、深く考えない事にした。
※※※
分からないところを丁寧に教えてくれる内間の優しい指導もあって、萬狩はその日の受講で、楽譜の三小節目まで進める事が出来た。
ピアノ教室を出たのは、正午を少し過ぎた頃だった。七月の中旬、日中の日差しは突き刺すようにじわじわと強くなっていて、彼は堪らず冷房の効いた近くのスーパーへ避難するように立ち寄って、仲西青年の分の弁当も買ってから自宅へ向けて車を走らせた。
玄関の鍵を開けると、自然の風が顔を打った。
家を出る時までは冷房をかけていたはずだが、どうやら仲西青年が切ってしまったらしい。最近、仲西青年は冷房機の操作方法も慣れたもので、萬狩としては微妙なところではあるのだが、彼はテレビのリモコンの位置や電源も把握してしまっていた。
家は高台の上にあり、周囲は緑に囲まれている。七月はまだ熱風と化していない時期なので、吹き抜ける風は確かに涼しい。
それでも、日中の室内は二十七度以上にはなるのだ。電気代でも気にしたのだろうかと萬狩は思いながら、仲西青年の靴がまだ玄関先にある事を確認しつつ、「ただいま」と小さな声をかけて家へ上がった。
リビングを覗き込んでみたが、青年と老犬の姿はなかった。
一体どこへ行ってしまったのだろう、と考えたところで、ふと、開いた窓の向こうから笑い声が聞こえてくる事に気付いた。
リビングから続く庭先に目を向けると、テラス席の向こう側で、ホースで水を振りまいている仲西青年と、急かすように彼の周囲を歩き回り、飛び散る水めがけて口を開けているシェリーの姿があった。
花壇の花にでも水を掛けていたのだろう。しかし、どうやら仲西青年は、途中からそういった目的を忘れてしまったらしい。
萬狩が見る限り、仲西青年は、ホースから吹き出す水を利用して虹を作る事に夢中になっている様子だった。残念ながら電気代を気にしているようには見えない行いであり、人様の家とは思えないほど幼く自由な発想だ。付き合っているシェリーも、まるで数歳は若く見えるほど、彼と一緒になってはしゃいでいる。
すると、シェリーが萬狩に気付いて振り返り、笑うような元気さで「ふわんっ」と吠えた。続いて仲西がこちらを見て、表情を輝かせ「お帰りなさい!」と笑った。
お帰りなさい、と、当たり前のように出迎える青年と老犬を見て、――その自然な仕草と行動に、萬狩は言葉が詰まった。
何も言えなくなってしまって、掛ける言葉が見付からず彼らを見つめていると、仲西が首を傾げた。
「萬狩さん? あの、すみません。えぇと日差しがすごく強いですし、花壇の水分が干上がっていたから、水をかけないといけないなと思って」
萬狩の沈黙を見た仲西が、もしや、と察したようにギクリとし、悪戯がバレた子供のように慌てて言葉を紡ぎ始めた。
「そしたら虹が出来てキレイで、シェリーちゃんも喜んだから、ついでだから水浴びでもさせようかと……。はい、すみませんでしたッ。正直、後半楽しくなっちゃって、つい調子に乗ってはしゃいでしまいました!」
萬狩の沈黙を非難と受け取ったのか、仲西青年は、途中で心底反省しているとばかりに項垂れて、そう謝ってきた。
「本当にすみませんでした。悪気はなかったんですけど、本気で楽しくなっちゃったんです。花壇だけだと決めていたのに、萬狩さんが苦戦させられている雑草にも、その、たっぷり水分をあげたかも……――って、あれ? 萬狩さん、聞いてます?」
ようやく萬狩は我に返り、「聞いている」と反射的に言葉を返した。
誰かに『お帰り』と言われたのが、どれぐらい久しい事なのか、萬狩は自分が忘れていた事に気付かされた。息子達とは雰囲気もまるで違っているというのに、先程『お帰りなさい』と笑った仲西青年の顔が、なぜだか幼い頃にあった数少ない彼らとのやりとりに重なって思い起こされた。
もし仕事だけという生き方でなく、それが、ほんの少しでも違っていたら……?
息子達のあんな笑顔が見られたかもしれない未来を想像して、萬狩は、己の中の疑問の一つを悟ってしまった。
そうか、俺は後悔しているのか。
だからこんなにも過去を思い起こして、今に重ねて、比較するように考えてばかりいるのかもしれない。
萬狩は頭を振って感傷のような想いをどけると、不安そうな表情を浮かべる仲西青年を見つめ返し、「俺は怒っていない」と冷静に告げた。
「要するに、お前は雑草にも水をあげてくれていたんだろう」
「え……?」
「いいさ。そろそろ、やつらにも水分が必要だと思っていたところだ。最近は雨も降らないから、雑草刈りの張り合いもなくなっていて暇だったんだ」
ぶっきらぼうに言った萬狩は、テラス席に腰を降ろすと、ピアノ教室に入ってからずっと吸っていなかった煙草を取り出した。こちらを茫然と見つめている仲西に気付いて、「なんだ」と顔を顰めてみせる。
「お前もそいつも、庭に水をあげただけで、楽しかったんだろう? 世話を任せていたから、礼に弁当を買ってきた。まだ時間があるのなら、勝手に食べていけばいい。もう正午過ぎだぞ」
「えッ、もう正午なんですか!?」
仲西は、慌てたようにズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確かめて「ひょ!?」と奇妙な声を発して飛び上がった。
「うわっ、やばい! シェリーちゃんの昼食時間の予定を二十一分も押してる!?」
「ふわんッ」
「あははは、シェリーちゃんがご飯の時間を忘れるなんてのも、珍しいなぁ。うんうん、運動したからたっぷりご飯上げるけど、まずは身体を拭かないとね」
萬狩が煙草を二本消費している間に、シェリーと仲西の支度が済み、リビングの冷房機とテレビの電源が入れられて遅い昼食が始まった。
先に食卓についた仲西青年が、食卓に並べられた唐揚げ弁当を見るなり「マヨネーズが付いていないです……」と寂しそうに言うので、萬狩は、仕方なく冷蔵庫からマヨネーズを持って来てやった。勿論、自分の分としてケチャップは忘れなかった。
「え、なんですか。唐揚げにケチャップって」
「お前もマヨネーズをかけるだろう。似たようなものじゃないか」
「違います。全然違いますよ、萬狩さん。唐揚げだったらマヨネーズか、タルタルソースですって」
「うちの息子達もケチャップだった」
萬狩は、すかさず言い返した。妻はマヨネーズ派で、唐揚げといえばマヨネーズかケチャップの二択が普通だろうと思っていた萬狩にとって、仲西青年の過剰な反応は不思議でならなかった。
唐揚げにケチャップを付けて食べ始めた萬狩の様子を、まじまじと眺めていた仲西が、「本当にケチャップなんだ」と心底不思議そうに呟き、ようやく自分の分の唐揚げに、たっぷりとマヨネーズを落とした。
「もしかして萬狩さんって、フライドポテトにケチャップをたっぷりつける人なんですか?」
「フライドポテトは、トンカツソース派だ」
「チョイスがすごく捻くれてるッ」
仲西が、まるで信じられない、というような悲鳴を上げた。
そんなに驚く事でもないだろうに。
萬狩はそう目で語りつつ、怪訝そうに仲西青年を睨みつけた。
「じゃあ、お前はフライドポテトにはケチャップをつけるのか?」
「僕はチーズソース派です!」
「それこそ店頭にはない特殊品じゃないか」
「一級品の美味さなんですけどねぇ。友人の間でも流行っているのに、なかなか商品としてセットで売りだされてくれなくて。『お客様のご要望シート』にも書いているんですけど、多くの需要はないみたいで」
世間一般では特殊であるらしい事を、仲西はあっさりと認めてそう言った。
互いの声が途切れた時、BGM代わりに流れていた午後一番のニュース番組が、昼のドラマ番組に切り替わった。そこで萬狩は、普段見ている正午のニュースを、自分が全く聞いていなかった事に気付いた。いつもなら聞き耳を立てているというのに、今日に限っては、全く耳に入って来なかったようだ。
自分のご飯を半分食べ進めたシェリーが、満足そうに食卓の傍で横になった。庭ではしゃぎ疲れてしまったため、一度には全部を食べ切れないようだ。彼女は大抵、運動をした後は数回に分けて食事を食べていたから、萬狩は気にしなかった。
「ピアノ教室は、どんな感じですか?」
食後に麦茶で喉を潤した仲西が、テーブルの上のゴミを手早く片付けながらそう訊いた。
こいつ、最近はまるで自分の家のように慣れた感じで動くが、そのゴミ袋が置かれている棚の位置まで把握しているとは、と萬狩はそれを複雑に思って眺めた。ひとまず、片付けてくれている事に対しては礼を述べ、「まぁ、普通だな」と質問に答えた。
「通いやすいとは思う」
「アキ姉ちゃんは、教え上手ですからねぇ。女の人ってそういうところがあるし、彼女、昔からとても面倒見が良いから、口コミでも結構生徒さんが集まってくれているみたいです」
萬狩は、「ふうん」と相槌を打った。女の人だからだとか、そういう事を言われても実感は湧かなくて、そういうものだろうかと眉を寄せて首を捻った。
「俺には娘がいなかったから、よく分からんなぁ」
彼が知っている女性は、芯が強かった元妻だけだった。萬狩にとっては『妻』が初めての女性で、後にも先にも見比べて思い起こせるような他の女性の存在はなく、深く知るような交友も交際も経験にはなかった。
やはり内部事情がただ漏れになっているのか、という現状を改めて知った萬狩が顔を引き攣らせる中、仲西は気付かずに「すごいですねぇ、いいですねぇ!」と瞳を輝かせ、「僕も通おうかなぁ」と実に楽しそうに言った。
「大学時代の友人がピアノをやっていて、憧れたけど、練習とかちっとも出来なかったんですよねぇ。うーん、アキ姉ちゃんに習ったら、先輩に嫉妬されるかなぁ」
「信用されていない後輩だな?」
恐らく『アキ姉ちゃん』とは、今は職場の先輩の妻であり、幼馴染でピアノ講師の内間の事だろう。萬狩はそう察しながら、たったそれだけで男女の仲を疑われるものだろうかと思って、半ば指摘するように口にした。
すると、仲西は「こんなに信用が厚い顔をしているのに、不思議なもんです」と、責任感や思慮深さとは無縁そうな呑気さで首を捻った。
「多分、僕の方が彼女との付き合いが長いから、そこを心配しているんだと思います。僕はちっとも女性にモテないから、安心してくれてもいいと思いません?」
「そこを自分で言い切って、お前は悲しくならないのか?」
「あッ、そうだ! 月曜日だけじゃなくて、僕は木曜日もここに通うようにしますね。シェリーちゃんの事は僕にどーんと任せて、萬狩さんは気にせずピアノ教室を頑張って下さいね!」
「お前、俺の話を聞いていないな。というか、お前は暇なのか?」
萬狩は返って心配になった。仲西青年は、やはり陽気な顔で「僕は今やシェリーちゃん専属ですからね! 担当者の特権ですよ」と笑った。
「大丈夫ッ。電話で報告はしますし、会社だってそれなりに多過ぎるぐらいのお金をもらっているんだから、オーナーも文句一つ言わないと思います!」
そういう店側の事情を簡単に口にするから、信用されないんじゃないのか?
萬狩は、喉元まで出かかった言葉を珈琲で流し込んだ。ふと遅れて「それにしても、この歳で習い事かぁ……」と自分で恥ずかしく思ったものの、結局仲西青年も、後に来た獣医の仲村渠(なかんだかり)老人も、冷やかしの一つもくれなかった。
月曜日だけでなく、木曜日も仲西青年が訪問してくれる事になり、三日後の木曜日、萬狩は留守の心配をせずピアノ教室に向かう事が出来た。その日、教室には先客が一人いて、萬狩は初めて自分以外の受講者を見た。
それは三十代前半ほどの外見をした、全体的に丸くふっくらとした肌の白い男で、耳にイヤホンを付けて、怪しい姿勢で必死にピアノと向き合っていた。彼は入ってきた萬狩を、やたら幼い印象のある子供のような瞳でチラリと見た。
どうも気の弱そうな顔立ちをしており、男は少し緊張したように肩身を竦めると、ふいっと視線をそらして、ひどい猫背のまま、再び視線を手元へと戻した。
まるで、風船が詰め込まれているような、ぷよぷよと柔かそうな丸い身体だった。随分背が低いのか、若干靴底が床に届いていない様子が、萬狩には少しだけ物珍しくもあって、思わず男の足元をじっと見てしまった。
「おはようございます、萬狩さん」
入って来た萬狩に気付いた内間が、そう愛想良く声を掛けてきた。彼女は空色のワンピース・スカートに、水玉模様のシュシュで髪をまとめていた。
萬狩は、ぎこちなく愛想笑いを浮かべて、内間に「どうも」と会釈した。彼女がにっこりとしたまま動かないでいたので、他にも何か話題を繋げた方がいいだろうかと考えて、「あの」と億劫ながら話を続けてみた。
「とても必死そうな生徒さんがいるんだが、なんというか深刻――いえ、真剣に向き合っているな、と……」
「三ヶ月前から通って頂いている方なんですよ」
「まさか彼にも横繋がりがあるんじゃ――うぉっほんッ。ええと、彼とは顔見知りなのか?」
「いいえ? 彼、ご自身で雑誌の広告を見て来てくれたみたいなんです。名前にも覚えがないので、ここの地区の人ではないでしょうね」
内間は「有り難いお話です」と笑顔を浮かべた。少ないが、他にもそういった生徒はいて、今後増えていくと嬉しいですと彼女は語った。萬狩は相槌を打ちながら、そうだよな、偶然がそんなに重なるはずがないじゃないか、と己れの心配を払拭した。
俺らしくもなく、バカな懸念をしたものだ。谷川から物件の話を聞いてから、まるでそこから何かが始まっているかのように、出会う人間が全てなんらかに繋がっていて、奇妙な縁の中に自分が放り込まれているだなんて、そんな事を考えるだなんて。
「――そんな三流小説みたいな展開は、そう続かないだろう」
「え、何がですか?」
胸中で呟いたはずが、思わず後半のぼやきが口をついて出ていた。
恐らく、老犬に話しかける事に違和感がなくなってきたせいだろう。萬狩は「妙な癖がついたな、くそッ」と心中では悪態をつき、きょとんとしてこちらを覗き込む内間には「何でもない」と言い訳した。
復習がてら、一度内間にお手本として伴奏を見せてもらい、楽譜の一小節分を丁寧に教えてもらった後で、萬狩はイヤホンを耳にあて、ひどく押し心地の軽い電子ピアノへ向きあった。
萬狩は楽譜を睨みつけながら、間違いのないよう意識して両手を必死に動かし、ゆっくりと鍵盤を押していった。時間を忘れて集中していると首に痛みを覚え、顔を起こしたところで、楽譜と手元に集中するあまり姿勢が前のめりになり、自分も半ば猫背になっている事に気がついた。
萬狩は思わず、自分の後方に座っている男を肩越しに盗み見た。
きっと彼も、不慣れながら必死なのだろう。そう共感して初めて、先程、物珍しいとばかりに彼を見つめてしまった自分を恥じた。
姿勢が強張ったら、上手く指先も動いてくれないかもしれないと、萬狩は緊張を吐息と共に吐き出し、姿勢を正した。
内間が弾いていた時の様子を脳裏に思い浮かべ、肩の緊張を解して、再び鍵盤の上に両手を置いてみた。パソコンと同じ要領で、指から出来るだけ力を抜く事も意識すると、ぎこちなくではあるが、当初よりも随分指先への負担が軽くなってくれたような気がした。
萬狩が水分補給で一時手を休めている間も、後方の小さな丸い男は、顔にじっとりと汗を浮かべながらずっとピアノに向かっていた。内間が休憩を促しても、イヤホンを外さないまま「放っておいて下さい」と言わんばかりに首を激しく左右に振って、練習に戻ってしまう。
必死に鍵盤を叩き続ける男は、萬狩がじぃっと見つめていても気付かないくらい集中していた。その手元は、リズムが取れていない以前の問題がありそうな気がした。なんというか、力が入り過ぎて、指先も全体的に不器用というような……
必死に練習に打ち込まなければならないような、何か強い思い入れでもあるのかもしれない。いや、もしかしたら三十代前半だと思っている俺の観察眼が間違っていて、彼は現役の学生かもしれなくて、ピアノに関連する何かに追われている可能性だってある。
人の事情も十人十色だ。萬狩は、深く考えない事にした。
※※※
分からないところを丁寧に教えてくれる内間の優しい指導もあって、萬狩はその日の受講で、楽譜の三小節目まで進める事が出来た。
ピアノ教室を出たのは、正午を少し過ぎた頃だった。七月の中旬、日中の日差しは突き刺すようにじわじわと強くなっていて、彼は堪らず冷房の効いた近くのスーパーへ避難するように立ち寄って、仲西青年の分の弁当も買ってから自宅へ向けて車を走らせた。
玄関の鍵を開けると、自然の風が顔を打った。
家を出る時までは冷房をかけていたはずだが、どうやら仲西青年が切ってしまったらしい。最近、仲西青年は冷房機の操作方法も慣れたもので、萬狩としては微妙なところではあるのだが、彼はテレビのリモコンの位置や電源も把握してしまっていた。
家は高台の上にあり、周囲は緑に囲まれている。七月はまだ熱風と化していない時期なので、吹き抜ける風は確かに涼しい。
それでも、日中の室内は二十七度以上にはなるのだ。電気代でも気にしたのだろうかと萬狩は思いながら、仲西青年の靴がまだ玄関先にある事を確認しつつ、「ただいま」と小さな声をかけて家へ上がった。
リビングを覗き込んでみたが、青年と老犬の姿はなかった。
一体どこへ行ってしまったのだろう、と考えたところで、ふと、開いた窓の向こうから笑い声が聞こえてくる事に気付いた。
リビングから続く庭先に目を向けると、テラス席の向こう側で、ホースで水を振りまいている仲西青年と、急かすように彼の周囲を歩き回り、飛び散る水めがけて口を開けているシェリーの姿があった。
花壇の花にでも水を掛けていたのだろう。しかし、どうやら仲西青年は、途中からそういった目的を忘れてしまったらしい。
萬狩が見る限り、仲西青年は、ホースから吹き出す水を利用して虹を作る事に夢中になっている様子だった。残念ながら電気代を気にしているようには見えない行いであり、人様の家とは思えないほど幼く自由な発想だ。付き合っているシェリーも、まるで数歳は若く見えるほど、彼と一緒になってはしゃいでいる。
すると、シェリーが萬狩に気付いて振り返り、笑うような元気さで「ふわんっ」と吠えた。続いて仲西がこちらを見て、表情を輝かせ「お帰りなさい!」と笑った。
お帰りなさい、と、当たり前のように出迎える青年と老犬を見て、――その自然な仕草と行動に、萬狩は言葉が詰まった。
何も言えなくなってしまって、掛ける言葉が見付からず彼らを見つめていると、仲西が首を傾げた。
「萬狩さん? あの、すみません。えぇと日差しがすごく強いですし、花壇の水分が干上がっていたから、水をかけないといけないなと思って」
萬狩の沈黙を見た仲西が、もしや、と察したようにギクリとし、悪戯がバレた子供のように慌てて言葉を紡ぎ始めた。
「そしたら虹が出来てキレイで、シェリーちゃんも喜んだから、ついでだから水浴びでもさせようかと……。はい、すみませんでしたッ。正直、後半楽しくなっちゃって、つい調子に乗ってはしゃいでしまいました!」
萬狩の沈黙を非難と受け取ったのか、仲西青年は、途中で心底反省しているとばかりに項垂れて、そう謝ってきた。
「本当にすみませんでした。悪気はなかったんですけど、本気で楽しくなっちゃったんです。花壇だけだと決めていたのに、萬狩さんが苦戦させられている雑草にも、その、たっぷり水分をあげたかも……――って、あれ? 萬狩さん、聞いてます?」
ようやく萬狩は我に返り、「聞いている」と反射的に言葉を返した。
誰かに『お帰り』と言われたのが、どれぐらい久しい事なのか、萬狩は自分が忘れていた事に気付かされた。息子達とは雰囲気もまるで違っているというのに、先程『お帰りなさい』と笑った仲西青年の顔が、なぜだか幼い頃にあった数少ない彼らとのやりとりに重なって思い起こされた。
もし仕事だけという生き方でなく、それが、ほんの少しでも違っていたら……?
息子達のあんな笑顔が見られたかもしれない未来を想像して、萬狩は、己の中の疑問の一つを悟ってしまった。
そうか、俺は後悔しているのか。
だからこんなにも過去を思い起こして、今に重ねて、比較するように考えてばかりいるのかもしれない。
萬狩は頭を振って感傷のような想いをどけると、不安そうな表情を浮かべる仲西青年を見つめ返し、「俺は怒っていない」と冷静に告げた。
「要するに、お前は雑草にも水をあげてくれていたんだろう」
「え……?」
「いいさ。そろそろ、やつらにも水分が必要だと思っていたところだ。最近は雨も降らないから、雑草刈りの張り合いもなくなっていて暇だったんだ」
ぶっきらぼうに言った萬狩は、テラス席に腰を降ろすと、ピアノ教室に入ってからずっと吸っていなかった煙草を取り出した。こちらを茫然と見つめている仲西に気付いて、「なんだ」と顔を顰めてみせる。
「お前もそいつも、庭に水をあげただけで、楽しかったんだろう? 世話を任せていたから、礼に弁当を買ってきた。まだ時間があるのなら、勝手に食べていけばいい。もう正午過ぎだぞ」
「えッ、もう正午なんですか!?」
仲西は、慌てたようにズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確かめて「ひょ!?」と奇妙な声を発して飛び上がった。
「うわっ、やばい! シェリーちゃんの昼食時間の予定を二十一分も押してる!?」
「ふわんッ」
「あははは、シェリーちゃんがご飯の時間を忘れるなんてのも、珍しいなぁ。うんうん、運動したからたっぷりご飯上げるけど、まずは身体を拭かないとね」
萬狩が煙草を二本消費している間に、シェリーと仲西の支度が済み、リビングの冷房機とテレビの電源が入れられて遅い昼食が始まった。
先に食卓についた仲西青年が、食卓に並べられた唐揚げ弁当を見るなり「マヨネーズが付いていないです……」と寂しそうに言うので、萬狩は、仕方なく冷蔵庫からマヨネーズを持って来てやった。勿論、自分の分としてケチャップは忘れなかった。
「え、なんですか。唐揚げにケチャップって」
「お前もマヨネーズをかけるだろう。似たようなものじゃないか」
「違います。全然違いますよ、萬狩さん。唐揚げだったらマヨネーズか、タルタルソースですって」
「うちの息子達もケチャップだった」
萬狩は、すかさず言い返した。妻はマヨネーズ派で、唐揚げといえばマヨネーズかケチャップの二択が普通だろうと思っていた萬狩にとって、仲西青年の過剰な反応は不思議でならなかった。
唐揚げにケチャップを付けて食べ始めた萬狩の様子を、まじまじと眺めていた仲西が、「本当にケチャップなんだ」と心底不思議そうに呟き、ようやく自分の分の唐揚げに、たっぷりとマヨネーズを落とした。
「もしかして萬狩さんって、フライドポテトにケチャップをたっぷりつける人なんですか?」
「フライドポテトは、トンカツソース派だ」
「チョイスがすごく捻くれてるッ」
仲西が、まるで信じられない、というような悲鳴を上げた。
そんなに驚く事でもないだろうに。
萬狩はそう目で語りつつ、怪訝そうに仲西青年を睨みつけた。
「じゃあ、お前はフライドポテトにはケチャップをつけるのか?」
「僕はチーズソース派です!」
「それこそ店頭にはない特殊品じゃないか」
「一級品の美味さなんですけどねぇ。友人の間でも流行っているのに、なかなか商品としてセットで売りだされてくれなくて。『お客様のご要望シート』にも書いているんですけど、多くの需要はないみたいで」
世間一般では特殊であるらしい事を、仲西はあっさりと認めてそう言った。
互いの声が途切れた時、BGM代わりに流れていた午後一番のニュース番組が、昼のドラマ番組に切り替わった。そこで萬狩は、普段見ている正午のニュースを、自分が全く聞いていなかった事に気付いた。いつもなら聞き耳を立てているというのに、今日に限っては、全く耳に入って来なかったようだ。
自分のご飯を半分食べ進めたシェリーが、満足そうに食卓の傍で横になった。庭ではしゃぎ疲れてしまったため、一度には全部を食べ切れないようだ。彼女は大抵、運動をした後は数回に分けて食事を食べていたから、萬狩は気にしなかった。
「ピアノ教室は、どんな感じですか?」
食後に麦茶で喉を潤した仲西が、テーブルの上のゴミを手早く片付けながらそう訊いた。
こいつ、最近はまるで自分の家のように慣れた感じで動くが、そのゴミ袋が置かれている棚の位置まで把握しているとは、と萬狩はそれを複雑に思って眺めた。ひとまず、片付けてくれている事に対しては礼を述べ、「まぁ、普通だな」と質問に答えた。
「通いやすいとは思う」
「アキ姉ちゃんは、教え上手ですからねぇ。女の人ってそういうところがあるし、彼女、昔からとても面倒見が良いから、口コミでも結構生徒さんが集まってくれているみたいです」
萬狩は、「ふうん」と相槌を打った。女の人だからだとか、そういう事を言われても実感は湧かなくて、そういうものだろうかと眉を寄せて首を捻った。
「俺には娘がいなかったから、よく分からんなぁ」
彼が知っている女性は、芯が強かった元妻だけだった。萬狩にとっては『妻』が初めての女性で、後にも先にも見比べて思い起こせるような他の女性の存在はなく、深く知るような交友も交際も経験にはなかった。
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