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三章 その光景と音と、目に沁みる満天(4)
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早朝五時半に起床し、夜は十時までには就寝する。そんな萬狩の生活の中に、日中の日課としてピアノの練習が加わり、二週間もすると馴染み始めた。
まず、萬狩は朝一番に郵便物が届いていないか確認し、パソコンの電源を入れてメールをチェックする。八時にシェリーの朝食を用意しながら自分も軽く済ませ、花壇で可愛く咲くパンジーに水をやってから煙草を吸い、それからピアノの前に座る。
ピアノを習い始めて数日間は、指に強張りのような違和感が残ったものの、次第にグランドピアノの鍵盤も不思議と軽く感じられるようになった。練習時間の大半は、グランドピアノが相手であるせいか、電子ピアノの素っ気ない軽さに違和感を覚えるほどだ。
とはいっても彼の腕はあまり上達していなかったが、シェリーが逃げ出さなくはなっていた。人には向きと不向きがあるのだろうと、彼は、不器用な自分の手をしばらく見つめ、ぎゅっと握り締めた。
ピアノ教室に通い始めて三週間が過ぎると、月が変わって八月に突入した。萬狩は楽譜分を全て進められていないため、二ヶ月目の月謝も払ってピアノ教室通いを続行した。
沖縄の夏は、外に出るのが億劫になるほど暑い。風は半ば熱風で、少しもしないうちにシャツの内側にじわりと汗が浮かび、朝風呂と夕風呂はかかせなくなった。
自宅は大窓が多く、光が多く入るという利点はあったが、日中は窓からの熱気が強いという難点もあって、冷房機の設定温度を下げる必要があった。
けれど同時に、シェリーが風邪を引かないよう、朝と夜は冷房の温度をきちんと調整する必要があった。萬狩はほとんど在宅しており、ピアノ教室の日には仲西がいる状態だったので、こちらについては心配がないのは幸いだった。
老犬であるシェリーの飲み水も、萬狩は小まめに皿を洗っては、冷たい水を継ぎ足すようにしていた。少し庭先を歩き回ると食事量が減り、いつもより多く舌を出して座っている時間が増えた。晴れている日が一週間も続くと、シェリーは夏バテのように更に食欲が少なくなり、冷房のあたる場所で横になっている事が多くなった。
老衰だろうかと萬狩は悩み、八月の第二週目の月曜日、診察にやってきた仲村渠(なかんだかり)に相談した。シェリーを診察した老人獣医は「夏バテでしょうなぁ」と労うように言った。
「毎年の事なんですよ。彼女にとって夏は、身体に一番辛い時期ですからね。栄養価の高いご飯があるので、そろそろ切り替えた方がよろしいでしょう。仲西君のところに連絡して、持ってくるよう伝えておきますよ」
それから、と仲村渠(なかんだかり)老人は言葉を続けた。
「一回のご飯の量が減っているという事ですので、もしかしたら、深夜にもシェリーちゃんが小腹を空かせる可能性があります。萬狩さんには少し無理をさせてしまいますが、その時にはドッグ缶を混ぜて少しあげてやって下さい。分量については、仲西君から教わって下さいね」
萬狩は、すぐに「分かった」と答えた。
仲村渠(なかんだかり)獣医が帰った後、新たな発注を受けた仲西が、その商品を車に乗せて少し遅れてやって来た。彼は専用のドッグフードとドッグ缶を運び込むと、萬狩に、混ぜる割合や保管方法について説明した。
夜中にシェリーが起きたら、必ず実行しようと意気込んで、萬狩はその日早めに就寝した。
しかし、老犬に夜中起こされた経験がなかった萬狩は、ふと、彼女は俺をちゃんと起こしてくれるだろうかと気になり、深夜二時頃に一度目が覚めた。ベッドの脇を覗くと、シェリーが変わらぬ様子で、籠の中で小さな寝息を立てていた。
萬狩は、額にかいた汗を拭い、白髪混じりの髪をかき上げた。
日中にも小まめにご飯をあげるようにしているし、彼女はクッキーもよく食べる。だから、そんなに腹は減らない可能性の方が大きいじゃないかと、自分が感じている不安を振り払った。
「別に、俺は余計な心配なんかしていないぞ」
ぐっと布団を引き寄せて、萬狩は枕に顔を押し付けた。翌日は、普段よりも三十分以上も早い五時前に起きたが、シェリーは相変わらず心地良さそうに寝ていた。
※※※
それから二日ほど経った水曜日の深夜、萬狩は、いつもとは違う異変に気付いて目を覚ました。
枕の上にある時計を見上げれば、時刻はまだ午前の一時過ぎだった。彼は浅い眠りの中、啜り泣くような何者かの夢を見ていたから、覚醒した一瞬、それでも耳に聞こえるその声に、自分が夢の続きを見ているのではないかと錯覚した。
そんなバカな事があるかと己れを叱責し、寝惚けた頭を振って耳を済ませると、冷房機の稼働音に混じって、やはり囁かな音が聞こえた。起き上がって眠気眼をこすり確認すると、シェリーがベッドに上体を預けるように前足を乗せて、こちらを見ていた。
「なんだ。珍しいな」
声を掛けると、シェリーが途端に耳を立てて「ふわん」と呑気そうな声で鳴いた。先程まで萬狩が聞いていたような声を、彼女はもう立てなかった。
「――俺も、ちょうどトイレに行こうと思っていたところだ。ついでに、お前のご飯も入れてやる」
「ふわんっ」
静まり返ったキッチンへ向かい、仲西に教えられた通りにシェリーのご飯を準備した。
彼女が食べ終わるのを待つついでに、テラス席に腰かけて煙草を口に咥えたところで、シェリーがそばに来て足元に腰を降ろした。ちらりと彼女のご飯皿を確認すると、全く手が付けられている様子がなかった。
「どうした。食わないのか?」
不思議に思い、萬狩は、火を付けたばかりの煙草を一旦灰皿に置いた。リビングに上がる彼の後ろを、シェリーは、特に変わった様子もなく優雅に尻尾を揺らしながらついて来た。
萬狩が「分量でも間違ったのか?」「腹が減っていないとか……?」と首を傾げてご飯皿を見つめていると、シェリーが何食わぬ顔でご飯を食べ始めた。妙だなと思いながら、萬狩は再びテラス席へ足を向けたのだが、途中でシェリーが食事を止めて、後ろをついてくる事に気付いて足を止めた。
振り返りじっと見つめ合いながら、萬狩は離婚したあと、一人きりになったマンションの一室で自分が食事をする機会が減った日々を思い出し、シェリーのその行動理由について何となく想像して、それを重ねた。
しばらくもしないうちに、萬狩は、わざとらしく鼻で息を吐いた。
「……手間のかかるやつめ」
普段通りに声を掛けようと思ったのに、どうしてか神妙な声が出た。はたして犬もそういう感じになるのかは知らないが、萬狩は、シェリーのご飯皿を持ち上げてテラス席が見える窓辺に置き直した。
椅子に腰かけて煙草を吸えば、シェリーは、彼が見える位置で食事を再開した。
何て事はない。つまりは、そう言う事なのだ。
そう確信のようなものを察して、萬狩は「そうか」とだけ呟き、少し生温い夜風を肌に感じながら、静けさが降り注ぐような時間の中、ささやかな風と静寂を聞いて紫煙をくゆらせた。
煙草の先の煙を何となしに目で追った萬狩は、ふと、頭上の煌めきに気付いて顔を上げた。
そこには満天の星が広がっていて、思わず呆けたように口を開いて見入ってしまった。人工の明りがほとんどない高台で、それは異世界のような異色の美しさを放って夜空を彩っていて、萬狩は入居して今まで、自分が空に目を向けようともしていなかったのだと気付かされた。
こうして見上げていると、まるで星空に落ちていきそうだと思った。広大過ぎる景色に圧倒され、自分があまりにもちっぽけなのだと悟らされるような、胸を貫くほどのスケールで眼前に飛び込んでくる景色に、しばし瞬きを忘れてしまう。
生き物とは結局のところ、この大きすぎる世界の中では、あまりにも小さくて無力な存在なのだろう。萬狩がこうして見上げる夜空の素晴らしさは、刻一刻と変化して、きっと全く同じ風景が訪れる事はなく作り出す事さえだって出来ない。だから誰も、彼と全く同じ感動を味わう事はないのだろう。
かさり、と草を踏む音がして、音の発生した方へ目を向けると、シェリーが隣に腰を降ろして同じように満天の星空を見上げていた。
「向こうの空とは、大違いだなぁ」
今夜は月がないから、きっと流れ星もよく見えるに違いない。萬狩は煙草の煙を深く吸い込んで、それから、ゆっくりと夜空に向かって煙を吐き出した。
今夜は、煙草の煙がやけに胸にしみる。
そう思いながら、深く深く、ゆっくりと息を吐き出した。
それからしばらく、一つの小さな流れ星が遠い夜の町へと流れ落ちていくのを、一人と一匹は、互いに触れない距離で見届けた。萬狩は流れ星のジンクスを思い出したが、どんな事を願えばいいのか、何をどう願えばいいのか分からず、結局は願い事を胸で唱える事はなかった。
まず、萬狩は朝一番に郵便物が届いていないか確認し、パソコンの電源を入れてメールをチェックする。八時にシェリーの朝食を用意しながら自分も軽く済ませ、花壇で可愛く咲くパンジーに水をやってから煙草を吸い、それからピアノの前に座る。
ピアノを習い始めて数日間は、指に強張りのような違和感が残ったものの、次第にグランドピアノの鍵盤も不思議と軽く感じられるようになった。練習時間の大半は、グランドピアノが相手であるせいか、電子ピアノの素っ気ない軽さに違和感を覚えるほどだ。
とはいっても彼の腕はあまり上達していなかったが、シェリーが逃げ出さなくはなっていた。人には向きと不向きがあるのだろうと、彼は、不器用な自分の手をしばらく見つめ、ぎゅっと握り締めた。
ピアノ教室に通い始めて三週間が過ぎると、月が変わって八月に突入した。萬狩は楽譜分を全て進められていないため、二ヶ月目の月謝も払ってピアノ教室通いを続行した。
沖縄の夏は、外に出るのが億劫になるほど暑い。風は半ば熱風で、少しもしないうちにシャツの内側にじわりと汗が浮かび、朝風呂と夕風呂はかかせなくなった。
自宅は大窓が多く、光が多く入るという利点はあったが、日中は窓からの熱気が強いという難点もあって、冷房機の設定温度を下げる必要があった。
けれど同時に、シェリーが風邪を引かないよう、朝と夜は冷房の温度をきちんと調整する必要があった。萬狩はほとんど在宅しており、ピアノ教室の日には仲西がいる状態だったので、こちらについては心配がないのは幸いだった。
老犬であるシェリーの飲み水も、萬狩は小まめに皿を洗っては、冷たい水を継ぎ足すようにしていた。少し庭先を歩き回ると食事量が減り、いつもより多く舌を出して座っている時間が増えた。晴れている日が一週間も続くと、シェリーは夏バテのように更に食欲が少なくなり、冷房のあたる場所で横になっている事が多くなった。
老衰だろうかと萬狩は悩み、八月の第二週目の月曜日、診察にやってきた仲村渠(なかんだかり)に相談した。シェリーを診察した老人獣医は「夏バテでしょうなぁ」と労うように言った。
「毎年の事なんですよ。彼女にとって夏は、身体に一番辛い時期ですからね。栄養価の高いご飯があるので、そろそろ切り替えた方がよろしいでしょう。仲西君のところに連絡して、持ってくるよう伝えておきますよ」
それから、と仲村渠(なかんだかり)老人は言葉を続けた。
「一回のご飯の量が減っているという事ですので、もしかしたら、深夜にもシェリーちゃんが小腹を空かせる可能性があります。萬狩さんには少し無理をさせてしまいますが、その時にはドッグ缶を混ぜて少しあげてやって下さい。分量については、仲西君から教わって下さいね」
萬狩は、すぐに「分かった」と答えた。
仲村渠(なかんだかり)獣医が帰った後、新たな発注を受けた仲西が、その商品を車に乗せて少し遅れてやって来た。彼は専用のドッグフードとドッグ缶を運び込むと、萬狩に、混ぜる割合や保管方法について説明した。
夜中にシェリーが起きたら、必ず実行しようと意気込んで、萬狩はその日早めに就寝した。
しかし、老犬に夜中起こされた経験がなかった萬狩は、ふと、彼女は俺をちゃんと起こしてくれるだろうかと気になり、深夜二時頃に一度目が覚めた。ベッドの脇を覗くと、シェリーが変わらぬ様子で、籠の中で小さな寝息を立てていた。
萬狩は、額にかいた汗を拭い、白髪混じりの髪をかき上げた。
日中にも小まめにご飯をあげるようにしているし、彼女はクッキーもよく食べる。だから、そんなに腹は減らない可能性の方が大きいじゃないかと、自分が感じている不安を振り払った。
「別に、俺は余計な心配なんかしていないぞ」
ぐっと布団を引き寄せて、萬狩は枕に顔を押し付けた。翌日は、普段よりも三十分以上も早い五時前に起きたが、シェリーは相変わらず心地良さそうに寝ていた。
※※※
それから二日ほど経った水曜日の深夜、萬狩は、いつもとは違う異変に気付いて目を覚ました。
枕の上にある時計を見上げれば、時刻はまだ午前の一時過ぎだった。彼は浅い眠りの中、啜り泣くような何者かの夢を見ていたから、覚醒した一瞬、それでも耳に聞こえるその声に、自分が夢の続きを見ているのではないかと錯覚した。
そんなバカな事があるかと己れを叱責し、寝惚けた頭を振って耳を済ませると、冷房機の稼働音に混じって、やはり囁かな音が聞こえた。起き上がって眠気眼をこすり確認すると、シェリーがベッドに上体を預けるように前足を乗せて、こちらを見ていた。
「なんだ。珍しいな」
声を掛けると、シェリーが途端に耳を立てて「ふわん」と呑気そうな声で鳴いた。先程まで萬狩が聞いていたような声を、彼女はもう立てなかった。
「――俺も、ちょうどトイレに行こうと思っていたところだ。ついでに、お前のご飯も入れてやる」
「ふわんっ」
静まり返ったキッチンへ向かい、仲西に教えられた通りにシェリーのご飯を準備した。
彼女が食べ終わるのを待つついでに、テラス席に腰かけて煙草を口に咥えたところで、シェリーがそばに来て足元に腰を降ろした。ちらりと彼女のご飯皿を確認すると、全く手が付けられている様子がなかった。
「どうした。食わないのか?」
不思議に思い、萬狩は、火を付けたばかりの煙草を一旦灰皿に置いた。リビングに上がる彼の後ろを、シェリーは、特に変わった様子もなく優雅に尻尾を揺らしながらついて来た。
萬狩が「分量でも間違ったのか?」「腹が減っていないとか……?」と首を傾げてご飯皿を見つめていると、シェリーが何食わぬ顔でご飯を食べ始めた。妙だなと思いながら、萬狩は再びテラス席へ足を向けたのだが、途中でシェリーが食事を止めて、後ろをついてくる事に気付いて足を止めた。
振り返りじっと見つめ合いながら、萬狩は離婚したあと、一人きりになったマンションの一室で自分が食事をする機会が減った日々を思い出し、シェリーのその行動理由について何となく想像して、それを重ねた。
しばらくもしないうちに、萬狩は、わざとらしく鼻で息を吐いた。
「……手間のかかるやつめ」
普段通りに声を掛けようと思ったのに、どうしてか神妙な声が出た。はたして犬もそういう感じになるのかは知らないが、萬狩は、シェリーのご飯皿を持ち上げてテラス席が見える窓辺に置き直した。
椅子に腰かけて煙草を吸えば、シェリーは、彼が見える位置で食事を再開した。
何て事はない。つまりは、そう言う事なのだ。
そう確信のようなものを察して、萬狩は「そうか」とだけ呟き、少し生温い夜風を肌に感じながら、静けさが降り注ぐような時間の中、ささやかな風と静寂を聞いて紫煙をくゆらせた。
煙草の先の煙を何となしに目で追った萬狩は、ふと、頭上の煌めきに気付いて顔を上げた。
そこには満天の星が広がっていて、思わず呆けたように口を開いて見入ってしまった。人工の明りがほとんどない高台で、それは異世界のような異色の美しさを放って夜空を彩っていて、萬狩は入居して今まで、自分が空に目を向けようともしていなかったのだと気付かされた。
こうして見上げていると、まるで星空に落ちていきそうだと思った。広大過ぎる景色に圧倒され、自分があまりにもちっぽけなのだと悟らされるような、胸を貫くほどのスケールで眼前に飛び込んでくる景色に、しばし瞬きを忘れてしまう。
生き物とは結局のところ、この大きすぎる世界の中では、あまりにも小さくて無力な存在なのだろう。萬狩がこうして見上げる夜空の素晴らしさは、刻一刻と変化して、きっと全く同じ風景が訪れる事はなく作り出す事さえだって出来ない。だから誰も、彼と全く同じ感動を味わう事はないのだろう。
かさり、と草を踏む音がして、音の発生した方へ目を向けると、シェリーが隣に腰を降ろして同じように満天の星空を見上げていた。
「向こうの空とは、大違いだなぁ」
今夜は月がないから、きっと流れ星もよく見えるに違いない。萬狩は煙草の煙を深く吸い込んで、それから、ゆっくりと夜空に向かって煙を吐き出した。
今夜は、煙草の煙がやけに胸にしみる。
そう思いながら、深く深く、ゆっくりと息を吐き出した。
それからしばらく、一つの小さな流れ星が遠い夜の町へと流れ落ちていくのを、一人と一匹は、互いに触れない距離で見届けた。萬狩は流れ星のジンクスを思い出したが、どんな事を願えばいいのか、何をどう願えばいいのか分からず、結局は願い事を胸で唱える事はなかった。
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