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六章 九月のバーベキュー(3)~バーベキューin萬狩宅~下
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朝一番から準備に動かされていた萬狩は、正午前にようやく、腰を落ち着けて煙草を吸う事が出来た。小さな花壇が一つあるだけだった広い庭には、現在、バーベキューのセットが広げられている。
食べ物を焼く台と、箱に入った木炭一式。肉が保管されているクーラーボックスと、仲村渠(なかんだかり)が持ってきた飲料水専用のクーラーボックス。ビニールシートの上にも荷物が置かれ、折り畳み式のテーブルの上には紙皿などの必要品が並んでいた。
九月とはいえ、沖縄は相変わらず夏日が続いている。
萬狩の家は山の上にあるので、吹き抜ける風は海風と混ざって幾分か涼しくも感じられるが、既にシャツの内側には汗が張り付いている状態だった。
先程、午前十時頃にやってきた仲村渠(なかんだかり)老人は、アロハシャツに麦わら帽子をかぶり、ラップで巻いたオニギリの入ったバスケットを持っていた。彼がビニールシートを敷くと、仲西がそこに菓子の詰まった袋を置いて、二人で慣れたように焼き台に木炭をセットし始め、早々に今の状態が完成していた。
現在、仲西青年がウチワを片手に、木炭が十分に燃えるよう風を送っているところだった。物珍しいのか、懐かしいのか、そこには尻尾を振って覗きこむ老犬シェリーの姿もある。
仲村渠(なかんだかり)老人は、缶ビールを片手にテラステーブルで飲み、仲西青年の様子を見守っていた。萬狩は、煙草休憩のために同じ席に腰かけているのだが、どうやら現役の高齢獣医は、煙草の煙は気にならないらしい。既に二本目の缶ビールに突入している。
萬狩は「まぁ、そんな事はいいんだ」と、己に言い聞かせるように呟いた。堪え切れず、これだけは訊いておこうと思い指摘した。
「おい、ビールの出番が早くないか?」
「ノンアルコールですよ」
萬狩が指摘すれば、仲村渠(なかんだかり)老人が惚けた顔で即答した。妻が迎えてくれるのであれば島酒を持ってきたのですがねぇ、叱られてしまったので自分の車で来ました、と仲村渠(なかんだかり)は残念そうに缶ビールを口につける。
テラステーブルのすぐ後ろの窓は、出入り目的のため解放されており、冷房が稼働した室内の涼しい空気が流れて来ていた。家主である萬狩としては、電機代や冷気が勿体ないとは考えていないが、そこにこんもりと盛られ置かれている荷物の存在感には、鈍い頭痛を覚えていた。
花火、天体望遠鏡、天体観測用の薄本、トランプと人生ゲームセット、将棋と麻雀セット、バトミントンの道具、サッカーボールとビーチボール、ゲーム機……
無視するには大きすぎる遊び道具の山が、萬狩は、非常に気になっている。
「俺の記憶違いだろうか。バーベキューは昼飯代わりにやって、そのまま解散の流れだと思っていたんだが」
「そんなに早く終了するバーベキューがあるとは、驚きですな。面白おかしく、楽しんでこそのバーベキューですよ、萬狩さん。大丈夫です、私はきちんと自分用の枕を持ってきましたから」
「ソファに置かれている、あの豚のクッションの事か。そもそも、あれを一体何に使うつもりなんだ?」
萬狩が顰め面で尋ねると、老人獣医は、またしても当然のようにこう答えた。
「何って、星空観賞会に決まっているでしょう。この歳になると、どうもブルーシート一枚に横になると、腰が痛くて大変なのですよ」
「じゃあ、あの得体の知れない顔文字のクッションは何だ」
「あれは仲西君に頼まれて、前日私の車に乗せていたものです。念のために用意しておこうという事になりまして、萬狩さんと古賀さんの分もあります」
畜生、道理でクッションの数が余分にあると思ったぜ。というか、見ていると何だか苛々するあの顔文字のクッションは、俺の分まであるのか……
萬狩は、仲村渠(なかんだかり)老人の話を聞きながら、すっかり荷物だらけになったリビングを横目に見やった後、丹念に目頭を揉みほぐした。クッションの呑気な顔文字が、見れば見るほど仲西青年の顔に見えてくるのは、きっと自分が疲れているせいに違いない。
木炭の火が、吹き抜ける風にも消える気配がなくなった頃、漫画家である古賀が遅れてやって来た。庭先からは砂利の駐車場が見えるのだが、そこにのろのろと乗り込む黄色の軽自動車が目について、萬狩達は、古賀が到着した事を知った。
知人友人を招待する機会もなかった萬狩宅の駐車場には、家主である萬狩のセダン、仲村渠(なかんだかり)老人が乗ってきたプリウス、仲西青年の年季を感じさせる黒の原動付バイク、その隣に、古賀の小奇麗で丸いシルエットが特徴の黄色い軽自動車が並んだ。
「こ、このたびはお招き頂き、どうも、その、ありがとうございます」
古賀は、到着するなり大きな茶袋を二つ提げて、慌てたように小走りでやって来た。丸い顔には、既に大量の汗をかいている。
半袖のパーカーを着用していた古賀は、夏向けの格好だというのに、やたらと内側が膨れているせいか少し暑苦しくも見えた。白いTシャツの袖を捲り、スポーツウェアのズボンに島草履を履いたラフ過ぎる仲西とは違い、外出にも適している質の良いしっかりとしたズボンと、真新しいスニーカーを履いていた。
「すみません。お店が結構混んでいて、日曜朝市がある事をうっかり、わ、忘れてしまっていたというか……」
「そんなに堅苦しくなくて大丈夫ですよ。気楽にいきましょう、古賀さん」
仲西青年が、愛想良くそう言った。
台詞を言うタイミングを奪われた萬狩は、まるで家主のような対応をした彼に呆れて、思わず軽く睨み付けた。それに気付く様子もなく、仲西は古賀が持っていた袋を受け取り、中を覗き込んで瞳を輝かせた。
「チクワと、そばと、お菓子に……あ、イナリまである! いやぁ、わざわざ頼んでしまって、すみませんでした」
「他の買い物のついでだったので、問題ないです。ぼくも、沖縄イナリは好きですから」
「うん、僕も大好きでよく食べます。でも萬狩さんの事だから、食べた事がないだろうなぁと思って、折角だからこの機会にあげてみようかと」
萬狩は、聞き捨てならないな、と怪訝な顔を仲西に向けた。
「おい。イナリ寿司ぐらい食べた事はあるぞ」
「だから『沖縄イナリ』ですってば。この皮のとこ、普通のより色が薄いでしょう? すごく美味しいんですよ」
嬉しそうな顔で仲西が見せてきたのは、惣菜容器に詰められた八個のイナリ寿司だった。それは、萬狩が知っているイナリ寿司よりも一回り大きく、形は三角で、色もかなり薄い黄色だった。
「ふうん。そんなイナリ寿司があるとは知らなかったな」
萬狩がそう呟くと、古賀が「買ってきた甲斐がありました」と頼りない笑顔を浮かべた。
「美味しいですよ。ぼく、すっかりこっちのイナリにはまってしまって」
海辺で話した時以来だった事もあり、なんだか気まずさが思い起こされて、萬狩達は互いぎこちなく笑った。
古賀は続いて、初対面になる仲村渠(なかんだかり)老人と自己紹介を行った。仲西から話は聞いていたようで、激しい人見知りは見せなかった。対する老人獣医は、「堅苦しくなさらないで結構ですよ」と陽気に笑う。
「仲西君から話は聞いていると思いますが、私が獣医の仲村渠(なかんだかり)です。よろしく」
「……今でも海に人を放り投げている獣医さん、ですよね……?」
「あれ、なんで思い出したように一歩引いたの、古賀君。今、ちょっと心の距離感を感じちゃったよ?」
仲西君には困ったものだね、乗りとテンションじゃないの、と老人獣医は事実を否定せずふぅっと息を吐いた。
メンバーが揃った事もあり、早速肉を焼く事となった。仲西が「僕に任せて下さいよ!」と進んで焼きを担当し、仲村渠(なかんだかり)老人が肉の焼き加減を指導するべく、紙皿を片手にその様子を覗き込んだ。その傍らで、古賀が持ってきた角氷を飲料水用のクーラーボックスに追加する。
萬狩は特にやる事もなく、古賀がパラソルを追加設置した簡易テーブルセットに腰かけて、再び煙草を吹かした。足元にはシェリーが座り、首を持ち上げて優雅に仲西達の様子を眺める。
自分の役割を終えた古賀がやって来て、テーブルセットの前に座るシェリーに気付き、遠慮がちに腰を屈めて彼女の頭を撫でた。思い出したように、萬狩へチラリと話を切り出す。
「あの、そういえば萬狩さんは、ピアノ教室を辞めてしまったんですか……?」
「もともと、一曲だけ習おうと思って通っていたからな」
「そうなんですか……。ご自宅にピアノがあるみたいだから、そうなのかな、とは思っていたんですけど」
古賀は言いながら、萬狩の向かいの席に腰かけた。緊張しているのか、テーブルに置かれた缶飲料に何度か視線を向けた後、缶のラベルの向きを揃えて、指についた水滴をパーカーの裾にこすりつけたりした。
萬狩は、それに気付かない振りをした。視線を落とすと、こちらを見上げているシェリーと目が合った。しかし、それだけだ。萬狩は必要でなければ彼女を撫でる事はなかったし、彼女も、萬狩にそれを求めない。
ああ、怖いな、と萬狩は初めてその感情を認めた。
俺は恐れているのかと、未来を考えた際の自分の弱さを思って沈黙した
「萬狩さんは、うまく弾けるようになりましたか?」
そう問われ、萬狩はゆっくりと顔を上げた。ぎこちなく笑う古賀の顔を見て、数秒遅れて、それがピアノの事であると理解した。
「素人が鍵盤を叩くんだ。俺はもとより音楽の才はないし、そんなに進歩はない。お前の方はどうなんだ、恋人に告白は出来たのか?」
「うッ、それは、まだ……。仲西さんにも言われたんですけど、それでもやっぱり無理でして…………」
「そういえば、あいつにも相談したんだったか」
「二回目に彼の家にお邪魔した際に、もう一度アドバイスを頂けたんですけど、その、なんというか……」
古賀が、そこで悩ましげに語尾を濁した。
萬狩は、なんだか嫌な予感がした。最近、そんな感覚ばかりを覚えているような気がする。すると古賀が、すっかり自信を失った面持ちで視線をそらし、消え入るような声で話の先を続けた。
「仲西さんは、プレゼント作戦がいいのでは、と言いうんです。告白するついでに、そのままプロポーズまでやってのけてしまおう、と」
「随分とハードルを上げてきたな」
「も、もちろん無理に決まっていますと答えました。だ、だだだだって、結婚するにはまだ早いし、彼女はまだ二十二歳でッ」
古賀がパニック状態に陥りそうなのを察し、萬狩は、「ひとまず落ち着け」と彼に缶シリーズを押しやった。腕に当たった缶の冷たさに、古賀が我に返って「すみません」と恐縮したように言い、缶飲料の中からお茶を手に取った。
「その、色々と相談した結果、つまり仲西君曰く『漫画のようなハイスペック男子になればいいと思います。押し押しの美青年になって髪を染めて、体系を整えれば完璧☆』という事になったんですけど、ぼくには難しいとも思いまして……更に話し合いを続けて、とりあえず見目は変えようがないですから、レベル上げのみの採用になりました」
萬狩は一瞬、自分の耳が変になったのかと叩いてしまった。露骨に顔を顰め、彼が語った内容を改めて思い返しつつ、古賀へ困惑の表情を向けた。
「……すまない。君達の結論がよく分からないんだが」
「彼女が、その、ぼ、ぼくをすごく好きになってくれるように、容姿以外で、ぼく自身のレベルを上げればいい、という事で話が落ち着きまして」
奴との話し合いだというから不安しかなかったが、意外とまともな答えに辿りついたようだ。萬狩は、「なんだ。そうか」と安心して古賀を見つめ返した。
「で、どこのレベルを上げる事になったんだ?」
「ピアノを究める事になりました」
途端に、古賀が、これまでにない真面目な顔で言い切った。
「おい。結局、最初となんら変わりはないじゃないか」
あいつ、一体何のアドバイスをするために話し合いを重ねたんだ?
萬狩は、向こうに見える仲西の横顔に半眼を向けた。すると、視線に気付いた仲西が振り返って「萬狩さーん」と手を振った。彼の隣にいた仲村渠(なかんだかり)も、こちらに顔を向けて「ほほほ」と呑気に笑う。
庭には、食欲を誘うような煙と匂いが立ち始めていた。一緒にウインナーを焼く匂いが鼻をついて、シェリーが自然と鼻先を宙に向ける。
「お前は食えんぞ」
萬狩が言うと、老犬は得意そうな顔で「ふわん」と鳴いて腰を上げた。珍しくも萬狩のズボンの裾を引っ張り、焼かれている場所まで行こうと誘う。
仲村渠(なかんだかり)老人が、その辺の呑気な老人のような穏やかな笑い声を上げて「大丈夫ですよ、萬狩さん」と言った。
「彼女が食べられる物も、ちゃんと用意していますから」
「シェリーちゃんの食べ物は、僕に任せて下さい!」
さすがは獣医と、同じく専門知識を持った組み合わせ、というところだろうか。
萬狩が「やれやれ」と立ち上がると、それに古賀も続いた。仲西は食い気が勝っているようだし、古賀は随分食が多そうな身体をしているから、沢山肉を用意していた良かったと、萬狩は、そんならしくもない事を考えた。
食べ物を焼く台と、箱に入った木炭一式。肉が保管されているクーラーボックスと、仲村渠(なかんだかり)が持ってきた飲料水専用のクーラーボックス。ビニールシートの上にも荷物が置かれ、折り畳み式のテーブルの上には紙皿などの必要品が並んでいた。
九月とはいえ、沖縄は相変わらず夏日が続いている。
萬狩の家は山の上にあるので、吹き抜ける風は海風と混ざって幾分か涼しくも感じられるが、既にシャツの内側には汗が張り付いている状態だった。
先程、午前十時頃にやってきた仲村渠(なかんだかり)老人は、アロハシャツに麦わら帽子をかぶり、ラップで巻いたオニギリの入ったバスケットを持っていた。彼がビニールシートを敷くと、仲西がそこに菓子の詰まった袋を置いて、二人で慣れたように焼き台に木炭をセットし始め、早々に今の状態が完成していた。
現在、仲西青年がウチワを片手に、木炭が十分に燃えるよう風を送っているところだった。物珍しいのか、懐かしいのか、そこには尻尾を振って覗きこむ老犬シェリーの姿もある。
仲村渠(なかんだかり)老人は、缶ビールを片手にテラステーブルで飲み、仲西青年の様子を見守っていた。萬狩は、煙草休憩のために同じ席に腰かけているのだが、どうやら現役の高齢獣医は、煙草の煙は気にならないらしい。既に二本目の缶ビールに突入している。
萬狩は「まぁ、そんな事はいいんだ」と、己に言い聞かせるように呟いた。堪え切れず、これだけは訊いておこうと思い指摘した。
「おい、ビールの出番が早くないか?」
「ノンアルコールですよ」
萬狩が指摘すれば、仲村渠(なかんだかり)老人が惚けた顔で即答した。妻が迎えてくれるのであれば島酒を持ってきたのですがねぇ、叱られてしまったので自分の車で来ました、と仲村渠(なかんだかり)は残念そうに缶ビールを口につける。
テラステーブルのすぐ後ろの窓は、出入り目的のため解放されており、冷房が稼働した室内の涼しい空気が流れて来ていた。家主である萬狩としては、電機代や冷気が勿体ないとは考えていないが、そこにこんもりと盛られ置かれている荷物の存在感には、鈍い頭痛を覚えていた。
花火、天体望遠鏡、天体観測用の薄本、トランプと人生ゲームセット、将棋と麻雀セット、バトミントンの道具、サッカーボールとビーチボール、ゲーム機……
無視するには大きすぎる遊び道具の山が、萬狩は、非常に気になっている。
「俺の記憶違いだろうか。バーベキューは昼飯代わりにやって、そのまま解散の流れだと思っていたんだが」
「そんなに早く終了するバーベキューがあるとは、驚きですな。面白おかしく、楽しんでこそのバーベキューですよ、萬狩さん。大丈夫です、私はきちんと自分用の枕を持ってきましたから」
「ソファに置かれている、あの豚のクッションの事か。そもそも、あれを一体何に使うつもりなんだ?」
萬狩が顰め面で尋ねると、老人獣医は、またしても当然のようにこう答えた。
「何って、星空観賞会に決まっているでしょう。この歳になると、どうもブルーシート一枚に横になると、腰が痛くて大変なのですよ」
「じゃあ、あの得体の知れない顔文字のクッションは何だ」
「あれは仲西君に頼まれて、前日私の車に乗せていたものです。念のために用意しておこうという事になりまして、萬狩さんと古賀さんの分もあります」
畜生、道理でクッションの数が余分にあると思ったぜ。というか、見ていると何だか苛々するあの顔文字のクッションは、俺の分まであるのか……
萬狩は、仲村渠(なかんだかり)老人の話を聞きながら、すっかり荷物だらけになったリビングを横目に見やった後、丹念に目頭を揉みほぐした。クッションの呑気な顔文字が、見れば見るほど仲西青年の顔に見えてくるのは、きっと自分が疲れているせいに違いない。
木炭の火が、吹き抜ける風にも消える気配がなくなった頃、漫画家である古賀が遅れてやって来た。庭先からは砂利の駐車場が見えるのだが、そこにのろのろと乗り込む黄色の軽自動車が目について、萬狩達は、古賀が到着した事を知った。
知人友人を招待する機会もなかった萬狩宅の駐車場には、家主である萬狩のセダン、仲村渠(なかんだかり)老人が乗ってきたプリウス、仲西青年の年季を感じさせる黒の原動付バイク、その隣に、古賀の小奇麗で丸いシルエットが特徴の黄色い軽自動車が並んだ。
「こ、このたびはお招き頂き、どうも、その、ありがとうございます」
古賀は、到着するなり大きな茶袋を二つ提げて、慌てたように小走りでやって来た。丸い顔には、既に大量の汗をかいている。
半袖のパーカーを着用していた古賀は、夏向けの格好だというのに、やたらと内側が膨れているせいか少し暑苦しくも見えた。白いTシャツの袖を捲り、スポーツウェアのズボンに島草履を履いたラフ過ぎる仲西とは違い、外出にも適している質の良いしっかりとしたズボンと、真新しいスニーカーを履いていた。
「すみません。お店が結構混んでいて、日曜朝市がある事をうっかり、わ、忘れてしまっていたというか……」
「そんなに堅苦しくなくて大丈夫ですよ。気楽にいきましょう、古賀さん」
仲西青年が、愛想良くそう言った。
台詞を言うタイミングを奪われた萬狩は、まるで家主のような対応をした彼に呆れて、思わず軽く睨み付けた。それに気付く様子もなく、仲西は古賀が持っていた袋を受け取り、中を覗き込んで瞳を輝かせた。
「チクワと、そばと、お菓子に……あ、イナリまである! いやぁ、わざわざ頼んでしまって、すみませんでした」
「他の買い物のついでだったので、問題ないです。ぼくも、沖縄イナリは好きですから」
「うん、僕も大好きでよく食べます。でも萬狩さんの事だから、食べた事がないだろうなぁと思って、折角だからこの機会にあげてみようかと」
萬狩は、聞き捨てならないな、と怪訝な顔を仲西に向けた。
「おい。イナリ寿司ぐらい食べた事はあるぞ」
「だから『沖縄イナリ』ですってば。この皮のとこ、普通のより色が薄いでしょう? すごく美味しいんですよ」
嬉しそうな顔で仲西が見せてきたのは、惣菜容器に詰められた八個のイナリ寿司だった。それは、萬狩が知っているイナリ寿司よりも一回り大きく、形は三角で、色もかなり薄い黄色だった。
「ふうん。そんなイナリ寿司があるとは知らなかったな」
萬狩がそう呟くと、古賀が「買ってきた甲斐がありました」と頼りない笑顔を浮かべた。
「美味しいですよ。ぼく、すっかりこっちのイナリにはまってしまって」
海辺で話した時以来だった事もあり、なんだか気まずさが思い起こされて、萬狩達は互いぎこちなく笑った。
古賀は続いて、初対面になる仲村渠(なかんだかり)老人と自己紹介を行った。仲西から話は聞いていたようで、激しい人見知りは見せなかった。対する老人獣医は、「堅苦しくなさらないで結構ですよ」と陽気に笑う。
「仲西君から話は聞いていると思いますが、私が獣医の仲村渠(なかんだかり)です。よろしく」
「……今でも海に人を放り投げている獣医さん、ですよね……?」
「あれ、なんで思い出したように一歩引いたの、古賀君。今、ちょっと心の距離感を感じちゃったよ?」
仲西君には困ったものだね、乗りとテンションじゃないの、と老人獣医は事実を否定せずふぅっと息を吐いた。
メンバーが揃った事もあり、早速肉を焼く事となった。仲西が「僕に任せて下さいよ!」と進んで焼きを担当し、仲村渠(なかんだかり)老人が肉の焼き加減を指導するべく、紙皿を片手にその様子を覗き込んだ。その傍らで、古賀が持ってきた角氷を飲料水用のクーラーボックスに追加する。
萬狩は特にやる事もなく、古賀がパラソルを追加設置した簡易テーブルセットに腰かけて、再び煙草を吹かした。足元にはシェリーが座り、首を持ち上げて優雅に仲西達の様子を眺める。
自分の役割を終えた古賀がやって来て、テーブルセットの前に座るシェリーに気付き、遠慮がちに腰を屈めて彼女の頭を撫でた。思い出したように、萬狩へチラリと話を切り出す。
「あの、そういえば萬狩さんは、ピアノ教室を辞めてしまったんですか……?」
「もともと、一曲だけ習おうと思って通っていたからな」
「そうなんですか……。ご自宅にピアノがあるみたいだから、そうなのかな、とは思っていたんですけど」
古賀は言いながら、萬狩の向かいの席に腰かけた。緊張しているのか、テーブルに置かれた缶飲料に何度か視線を向けた後、缶のラベルの向きを揃えて、指についた水滴をパーカーの裾にこすりつけたりした。
萬狩は、それに気付かない振りをした。視線を落とすと、こちらを見上げているシェリーと目が合った。しかし、それだけだ。萬狩は必要でなければ彼女を撫でる事はなかったし、彼女も、萬狩にそれを求めない。
ああ、怖いな、と萬狩は初めてその感情を認めた。
俺は恐れているのかと、未来を考えた際の自分の弱さを思って沈黙した
「萬狩さんは、うまく弾けるようになりましたか?」
そう問われ、萬狩はゆっくりと顔を上げた。ぎこちなく笑う古賀の顔を見て、数秒遅れて、それがピアノの事であると理解した。
「素人が鍵盤を叩くんだ。俺はもとより音楽の才はないし、そんなに進歩はない。お前の方はどうなんだ、恋人に告白は出来たのか?」
「うッ、それは、まだ……。仲西さんにも言われたんですけど、それでもやっぱり無理でして…………」
「そういえば、あいつにも相談したんだったか」
「二回目に彼の家にお邪魔した際に、もう一度アドバイスを頂けたんですけど、その、なんというか……」
古賀が、そこで悩ましげに語尾を濁した。
萬狩は、なんだか嫌な予感がした。最近、そんな感覚ばかりを覚えているような気がする。すると古賀が、すっかり自信を失った面持ちで視線をそらし、消え入るような声で話の先を続けた。
「仲西さんは、プレゼント作戦がいいのでは、と言いうんです。告白するついでに、そのままプロポーズまでやってのけてしまおう、と」
「随分とハードルを上げてきたな」
「も、もちろん無理に決まっていますと答えました。だ、だだだだって、結婚するにはまだ早いし、彼女はまだ二十二歳でッ」
古賀がパニック状態に陥りそうなのを察し、萬狩は、「ひとまず落ち着け」と彼に缶シリーズを押しやった。腕に当たった缶の冷たさに、古賀が我に返って「すみません」と恐縮したように言い、缶飲料の中からお茶を手に取った。
「その、色々と相談した結果、つまり仲西君曰く『漫画のようなハイスペック男子になればいいと思います。押し押しの美青年になって髪を染めて、体系を整えれば完璧☆』という事になったんですけど、ぼくには難しいとも思いまして……更に話し合いを続けて、とりあえず見目は変えようがないですから、レベル上げのみの採用になりました」
萬狩は一瞬、自分の耳が変になったのかと叩いてしまった。露骨に顔を顰め、彼が語った内容を改めて思い返しつつ、古賀へ困惑の表情を向けた。
「……すまない。君達の結論がよく分からないんだが」
「彼女が、その、ぼ、ぼくをすごく好きになってくれるように、容姿以外で、ぼく自身のレベルを上げればいい、という事で話が落ち着きまして」
奴との話し合いだというから不安しかなかったが、意外とまともな答えに辿りついたようだ。萬狩は、「なんだ。そうか」と安心して古賀を見つめ返した。
「で、どこのレベルを上げる事になったんだ?」
「ピアノを究める事になりました」
途端に、古賀が、これまでにない真面目な顔で言い切った。
「おい。結局、最初となんら変わりはないじゃないか」
あいつ、一体何のアドバイスをするために話し合いを重ねたんだ?
萬狩は、向こうに見える仲西の横顔に半眼を向けた。すると、視線に気付いた仲西が振り返って「萬狩さーん」と手を振った。彼の隣にいた仲村渠(なかんだかり)も、こちらに顔を向けて「ほほほ」と呑気に笑う。
庭には、食欲を誘うような煙と匂いが立ち始めていた。一緒にウインナーを焼く匂いが鼻をついて、シェリーが自然と鼻先を宙に向ける。
「お前は食えんぞ」
萬狩が言うと、老犬は得意そうな顔で「ふわん」と鳴いて腰を上げた。珍しくも萬狩のズボンの裾を引っ張り、焼かれている場所まで行こうと誘う。
仲村渠(なかんだかり)老人が、その辺の呑気な老人のような穏やかな笑い声を上げて「大丈夫ですよ、萬狩さん」と言った。
「彼女が食べられる物も、ちゃんと用意していますから」
「シェリーちゃんの食べ物は、僕に任せて下さい!」
さすがは獣医と、同じく専門知識を持った組み合わせ、というところだろうか。
萬狩が「やれやれ」と立ち上がると、それに古賀も続いた。仲西は食い気が勝っているようだし、古賀は随分食が多そうな身体をしているから、沢山肉を用意していた良かったと、萬狩は、そんならしくもない事を考えた。
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