シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

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八章 冬の訪れ、別れの足音(2)~予感~

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 十二月に入ったばかりの木曜日、萬狩宅の外に設置された温度計は、晴天の日中であるにもかかわらず十八度を差していた。

 玄関をノックするなり、マフラーを装備した仲西青年が、会社から支給されたジャケットの上から、さらにプライベートで使用している厚地のダウンジャケットを着込んだ姿で、逃げ込むように家に上がってきた。

「萬狩さんッ、ものすごく寒いです!」
「見れば分かる」
「家の中が、まるで天国のように感じます!」 

 仲西は赤くなった鼻を啜り、真面目なでそう言い切った。

 急激に冬の気候に入った沖縄は、先日と先々日の夜に雨が降ってからというもの、冷え込みが急激に厳しくなったのを萬狩も感じていた。冬用のカーディガンを引っ張り出し、暖房が効いた室内でもずっと着用しているほどだ。

 その日、老犬シェリーは朝から機嫌が良かった。夜中に起きる事もなく、朝ごはんもしっかりと食べた。仲西と同じ強い寒さが苦手らしく、相変わらずストーブの前に陣取ってはいたが、じっとして動かない仲西と違い、遅れてやってきた仲村渠(なかんだかり)を軽い足取りで出迎えるなど、暖かく短かった秋以来の好調ぶりを見せた。

 先月から、木曜日にも診察にやって来るようになっていた仲村渠(なかんだかり)老人が、シェリーの診察を一通り終えた後、「デパートは、すっかりクリスマスムードですよ」と溜息をこぼした。

「別に、私はクリスマスが嫌いなわけではないのですけれどね。ただ年々、孫達の活発な行動力には、押し負けると言いますか」
「もみくちゃにされるんでしたっけ?」

 思い出したように、仲西が肩越しに首を回して相槌を打った。

 こいつら本当に仲が良いな、と萬狩が呆れたように見守る中、食卓に腰かけた仲村渠(なかんだかり)と、ストーブの前に座ったシェリーを抱き寄せた仲西の会話は続いた。

「子供って、どうしてあんなに元気なのかなぁ。それに比べて、仲西君はいいよねぇ。実に平和なクリスマスのうえ、お金もかからないんだもの」
「仲村渠(なかんだかり)さんのは贅沢な悩みなんですよ。クリスマスイブはちょうど休みですけど、クリスマス本番の日は、午前中に少し仕事がありますし、……何より、その後一人でケーキを食べるのは寂しいもんです」
「あらまぁ」

 二十代後半とは思えない幼い顔で唇を尖らせ、そっぽを向いた仲西を見て、仲村渠(なかんだかり)がわざとらしく口許に手をあてた。

「寂しいクリスマスだねぇ」
「いえ、大丈夫です。今年は萬狩さんと鍋をつついて、ケーキを食べて、シェリーちゃんともプレゼント交換する予定でいますから!」

 途端に仲西が、機を取り直すように得意げに言ってのけたので、萬狩は顰め面で「そんな予定を立てた覚えはないぞ」と間髪入れず訂正した。

「え~、どうせ萬狩さん、お一人でしょう?」
「前にも思ったが、お前のその台詞には悪意を感じるな」
「僕のアパート、夏は熱くて冬は寒いんですよ」

 クリスマスがない代わりに年末年始は休みなのだと、仲西は、ストーブの前でシェリーを抱きしめながら自慢するように言った。仲村渠(なかんだかり)が「年越しそばをお裾わけしますよ」と萬狩を見て述べ、仲西が「お泊まり楽しみですッ」と笑顔でシェリーに頬を押し付ける。

 これはもう駄目だ、完全にやつらのペースになっている。

 というか、こいつらは、どうして揃いも揃って人の話を聞かないんだ。この数秒の間に、クリスマスケーキだけだった予定が、宿泊にまで発展しているとは一体どういう事だろうか。

 萬狩は「もう勝手にしてくれ」と、天井を仰いだ。今週末に予定されている焼き芋パーティーもまだだというのに、一年に一度の季節イベントであるクリスマスや年末について盛り上がるというのも、全く気が早い連中であると思った。

 仲村渠(なかんだかり)は手術の仕事が入っているとの事で、シェリーの元気な様子を少し眺めた後、お茶も出来ずに申し訳ないと告げて、早々に帰っていった。萬狩は、お茶に誘った事は一度もないし、それはあなたが勝手にやっている事だが、と口の中で呟いてしまった。

 年の最後の月である仕事の段取りのせいで、上司に早く戻ってくるようにと指示を受けていた仲西も、昼食を摂った後「もっとぐうたらして遊びたかったのに」と本音をこぼしつつ、重い足取りで出ていった。これには、萬狩は堪らず「お前は仕事をしろ」とハッキリと告げた。


 仲西青年まで帰ってしまうと、玄関先には、萬狩とシェリーだけが残された。

 萬狩は、冷たい風に頬が冷やされるのを感じながら、頭上から降り注ぐ暖かい日差しに背伸びを一つした。「ついでに煙草でも吸うか」と、すっかり馴染んでしまった独り言を呟いて、足元にシェリーを引き連れて玄関から庭へと回った。


 晴れた空から降り注ぐ日差しは暖かく、そこにいる間だけは冬を感じさせなかった。まるで、秋先のような暖かさだ。

 萬狩がテラス席で煙草を吸っている間、シェリーは、彼お手製の花壇を覗き込んで鼻を近づけていた。秋の暮れまでパンジーが植えられていた小さな花壇は、季節の変わり目で花が散ってしまったので、先月末からヒナギクを植えてある。

 ヒナギクは冬から春に掛けて咲く花で、萬狩はホームセンターで「丈夫で初心者でも育てやすいですし、春まで楽しめますよ」と店員に勧められ、ピンク色、赤色、白色のを揃えて購入していた。

 別に、園芸に興味があるわけではない。ただ、パンジーがほとんど散ってしまった花壇は、なんだか寒い印象だったから、放っておく事が出来なかっただけなのだ。買い物の間、古賀と仲西に留守を任せていたので、いるついでに手伝わせて一気に植え替える事も出来た。

 土いじりを楽しげに行っていた青年組の様子を思い起こしていた萬狩は、ふと、吹き抜けた強い風に冷気を覚えて、ぶるりと身体を震わせた。

「寒いなぁ……」

 沖縄は海から吹く風が強いから、そこまで低くない気温でも寒さが身に沁みる。引っ越す前までは十九、八度ぐらいはどうって事もなかったというのに、沖縄の場合は実際の気温に対して、体感温度が低い事には驚かされる。

 その時、尻尾を優雅に振っていたシェリーが、萬狩のズボンの裾を引っ張った。

 なんだ、と顔を向けると、老犬が例の声で「ふわん」と楽しげに吠えた。しかし、吠えたのは一度だけで、彼女は萬狩の反応も待たずに、リビングの開いた窓から家の中へと入って行ってしまった。

「一体何なんだ?」

 訝しげに思った萬狩が、煙草を灰皿に押し潰して立ち上がった時、シェリーが、ビーチボールを鼻で押して早々に戻って来てた。

 それはバーベキューがあった日、シェリーがボール遊びを好きだと知った仲西青年が、遊べる時に利用できるようにとリビングの奥に常備していたものだった。最近は体力の落ちた事を気遣い、庭先で軽く転がす程度だったが、彼女は、確かにそれを気に入っていた。

 萬狩は、それを思い出して「利口な犬め」と、ビーチボールを拾い上げた。

 ボールを弱く転がしてやると、シェリーは若々しい犬のように飛び跳ねて、楽しそうにボールを追いかけ、鼻先で押して戻って来る。何が面白いのか分からないが、繰り返しボールを持ってくるものだから、萬狩は、彼女の気が済むまでその遊びをさせる事にした。

 軽いビーチボールが草の上で鈍く跳ねて、その様子にシェリーが興奮し「ふわ、ふわんッ」と楽しげに鳴く。それが何だか可笑しくて、萬狩は、ふっと笑う吐息をこぼした。

「バカだなぁ。そいつは、自分で動いているわけじゃないんだぜ」

 思わずそう言って笑ったものの、何故か、悲しくもないのに唐突に涙腺が緩んだ。不意に視界が滲んで、一瞬視線の先がぼやけた。

 はて。一体、俺はどうしちまったんだろうと、萬狩は理由も分からないまま、目頭を揉みほぐした。それから、自分の足元にビーチボールを帰還させたシェリーが、得意げに胸を張る様子を見降ろした。


 今日は彼女が随分と、生命力溢れた生き物のように見えた。

 まるで、ちっとも平気な若い犬みたいに、元気じゃないか。


 今週末の焼き芋パーティーも、クリスマスも、年末も正月も、当然のようにこの老犬もいるのだと思えるような様子だった。けれど萬狩は、それがただの希望論的な錯覚なのだと気付いて、はっと胸が締めつけられた。

 今週末の催しという近い未来を想像しても、何故かそこに、共に過ごすはずのシェリーの姿を見付ける事が出来なかった。

 まさかという強い不安を孕んだ予感に、萬狩は焦燥に駆られ、足元にいる元気な様子の彼女を見つめて懸命に想像力を働かせようとした。しかし、想像する未来には、ぽっかりと欠けたように老犬の姿だけがなかった。

 両親や祖父の死も見届けなかったが、今、ここに流れている空気には覚えがあった。それは起業を助けてくれた先輩の、死の前日を思い起こさせるものだった。

 あれは、まるで後日の死が嘘のようにも思えるほど、穏やかで平和な時間だったと覚えている。あの時先輩と過ごせた最後の時間は、夢や奇跡のように許された、別れまでの短い猶予だったのではないか、と考えた事があったものだ。


 シェリーに鼻先でズボンの裾をつつかれて、萬狩は我に返った。元気な犬らしく舌を出した彼女が、遊びの続きをねだるように「ふわん」と鳴く。


 まだ数ヵ月――けれど、もう数ヵ月は共に暮らしてきたのだ。

 萬狩は、シェリーの事を、それなりにもう理解しているつもりだった。彼女は、いつも通りの日常を彼に求めているのだ。だから平気な顔をして、何も知らないような顔で「遊ぼう」と元気よく誘ってくる。

 それを察して、短く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。やや乱暴に目頭を揉み解すと、いつものように彼女の名も呼ばず、触れず――けれど、萬狩はいつもより優しくビーチボールを転がした。

 シェリーのお遊びは、それから一時間ばかり続いた。彼女は飽きずに何度も、萬狩の足元にビーチボールを運び、庭を闊歩し、いつも以上に時間をかけて冬の風の匂いを嗅いだりした。

              ※※※

 庭での時間を過ごした後、いつもの時間に軽い間食を摂ってリビングで少しの間休んだ。萬狩はソファで本を読み、シェリーはストーブの前で優雅に座り込む。彼女は時折、普段のようにクッキーをねだり、彼はいつものように、ポケットから取り出して手渡しで与えた。

 日の傾きが大きくなった頃、萬狩は、いつものようにピアノの練習を行った。

 シェリーは寝そべる事もなく、今日は珍しく礼儀正しく座り、じっと萬狩の手元を見つめていた。まるで、そこから音が流れているのだと信じて疑わないような眼差しだった。

「俺の手は、魔法の手じゃないぞ」
「ふわん」

 利口な犬は、きっとそれを分かっている。

 だから彼女が今日に限って、目に焼きつけるように見つめているなんて、きっと自分の気のせいなのだろう。萬狩は、自身にそう言い聞かせた。

 プロのように指先を鍛えている訳ではないから、萬狩の伴奏は相変わらずぎこちなくて、長くは弾き続けられなかった。普段と変わらない時間をピアノにあて、ほどなくしてピアノの練習は終了した。しかし、シェリーが動こうとしなかったので、彼も退室はしなかった。

 萬狩は入居して初めて、前家主の時代からそのままになっている楽譜の棚の前に立ち、その中の一冊を手に取ってみた。品もなくその場に腰を降ろせば、シェリーが興味心身に冊子の匂いを嗅ぎに来た。

 茶色くなった楽譜には、見た事もないような音楽記号が並んでいて、まるで未知の譜面のように厳粛とした様子でページを埋めていた。ざっと冊子をめくってみたところ、ほとんどが外国曲のようだ。

 曲名は、全て英文かカタカナで書かれていた。シェリーが向かい側に腰を下ろし、開いたページをじっと覗きこんできたので、部屋を出るまでの時間潰しにしようと考え、萬狩は、意味もなく曲名と譜面に目を通していった。

 ページをめくっていた萬狩の手は、知っている曲名を見付けたところで、ピタリと止まった。

「……『エリーゼのために』」

 思わず、そう曲名を呟いてしまっていた。

 同じ曲であるはずなのに、全く違う高度な楽譜に見えるのは、印字された年月が違うせいなのか。それとも上級者向け用に書かれているせいなのか、萬狩には判断出来なかった。

 前家主もここで、自分が弾いていた曲と同じものを弾いていたのだろうか。そばには一匹の犬がいて、――いや、もっと古い時代には、先に他界したらしいペルシャ猫もいて、二匹が並んでピアノの演奏を聞いていた日が、あったのかもしれない。

 萬狩は、次の楽譜本を手に取って床に広げた。それがどんな曲であるのか分からないのに、譜面に記載されている音符や記号をシェリーと共に眺め、長い間それを読み進めていた。

 ページをめくるたび、シェリーの尻尾が大きく揺れた。更にめくると、どこか懐かしむように、老犬の目が楽しげに細められる。だから萬狩は、まるで小説を読むように、ゆっくりと楽譜のページをめくっていった。


 どれぐらいの時間が経っただろうか。茜色の日差しが弱まり、視界が薄暗くなった事に気付いてようやく、萬狩は、時間を忘れていたと察して顔を上げた。


 すると、同じ目線の高さからシェリーと目が合った。

 シェリーは、もう譜面へは視線を向けておらず、真っすぐ萬狩の方を見ていた。そういえば、いつからか尻尾が床を擦る音が聞こえなくなっていたなと、彼は遅れて気付かされた。

 尻尾を振るのを止めた時から、シェリーは、ずっとこちらを見つめていたのだろう。弱々しくなっていく西日を受けた彼女は、まるで静かに微笑んでいるようにも見えた。神々しくて、綺麗で、今にもどこかへ消えていってしまいそうな気がした。

 だから、萬狩はこう言った。


「シェリー」


 老犬が、それに答えるように「ふわ」と、落ち着いた声色で吠えて、ゆっくりと尻尾を振った。

 何故だか、ありがとう、と言われたような気がした。萬狩は、己の弱い心を振り払うように目を閉じ、彼女の頭を片手で大雑把にぐりぐりと撫でた。犬の撫で方なんて、他に知らなかった。

 いつまで、どのくらいまで、俺達には時間が許されているんだ?

 到底太刀打ちのできない存在が、一人と一匹の生活に終わりを運ぶべく、近づいてくる気配を濃厚に感じた。沈んでゆく夕日よりも儚く美しい、奇跡のような穏やかな日々の終わりが、もうすぐそこまで迫っているのだ。

 抗えないから、それを受け入れなければならない事を萬狩は知っていた。だから、彼は自分の心の叫びを押し殺して、崇める神の名も知らないまま声を絞り出し、一心に祈った。


「――……どうか、俺に勇気を下さい」


 萬狩は背を屈めて顔を伏せ、口の中で、そう唱えた。
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