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八章 冬の訪れ、別れの足音(3)~異変~

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 翌日の金曜日、萬狩は、妙な違和感を覚えて夜明け前に目を覚ました。

 いつもは静かなはずの室内に、聞き慣れない呼吸音が交じっていた。何事だろうと目を向けると、籠の中にいるシェリーの呼吸が、まるで軽い運動後のように速くなっている事に気付いた。

「どうした」

 そう問い掛けて、遠慮がちに彼女の身体に触れてみた。呼吸は速いのに、その体温は低いように感じた。

 シェリーは舌を出していたが、相変わらず呑気そうな顔で萬狩を見つめ返して、朝の目覚めを告げるように「ふわ」と少し掠れた声で鳴いた。ぐっと前足に力を入れ、のそりと立ち上がる。

 気に掛ける萬狩の足元に並び立ち、シェリーは、自分の足できちんとリビングまで移動した。けれど朝食は少量しか食べず、お気に入りのクッキーを一枚胃に収めた後は、ストーブの前で丸くなってしまった。

 萬狩はリビングで、しばらく彼女の様子を見つめていた。自分が彼女の視界から消えてしまわなければ、シェリーが無理に動かない事を知っていたから、新聞も取りに行けない時間をしばし過ごした。


 珈琲を三杯まで飲んだところで、時間を確認し、今なら起きているだろうと考えて仲村渠(なかんだかり)に連絡を入れた。電話に出た老人獣医は「すぐに向かいます」と答え、二十分も待たず仕事着でやって来た。


「必要な薬は投与させて頂きましたが、彼女は老衰なのです。気休め程度だと思って下さい」

 仲村渠(なかんだかり)獣医は、シェリーを慎重に診察した後、萬狩に向き直って申し訳なさそうな顔で告げた。

「……寒さもあって調子が少し出ないだけで、明日には元気になっているかもしれませんし、体調が急変する恐れもありますし…………これまでと同じように、なんでもない事なのかもしれません」

 どちらと断言する事も出来ない、と仲村渠(なかんだかり)老人は言葉を濁した。それでも、帰り際には「何かあれば連絡を下さい」と念を押すように告げて帰っていった。
 
 呼吸は少し速いものの、シェリーは、少し疲れただけというように普段通りの様子をみせた。萬狩が部屋を出れば、いつもよりも遅い彼の歩みに合わせて後をついてくる。庭に出て煙草を吸えば、その足元に座って花壇を眺め、自ら庭先を少し歩き回る事もしていた。

 萬狩は少し迷ったものの、仲西と古賀にも、老犬の状態については連絡を入れておく事にした。最悪の場合については考えたくないが、この老犬に愛情を注いでくれた彼らに、知らせないという選択は出来なかった。


 すると昼頃に、青年組が揃ってやって来た。

 仲西と古賀は、心配させまいとする顔でシェリーの名を呼び、いつものように彼女を撫でて抱き寄せた。けれどシェリーに触れた時、仲西青年の目が、僅かに揺らいで濡れた事に、萬狩は気付いてもいた。


 専門知識や経験があるから、仲村渠(なかんだかり)と同じものを感じ取ってしまったのかもしれない。仲西は、古賀やシェリーに悟られるまいと「シェリーちゃん」と普段通りに笑い掛けて、いつもより噛みしめるように強く長く「可愛いかわいい」と抱き締めていた。

 仕事がある仲西青年は、後ろ髪を引かれるような顔で「また、夜には顔を出しますから」と一旦帰っていった。

 今日は夜まで付き合えますからと残った古賀が、唐突に「ピアノを弾いてみたいです」と珍しく自ら主張し、萬狩とシェリーと共に、グランドピアノのある部屋へと足を踏み入れた。

 今でもピアノ教室に通い続けている古賀は、萬狩よりもスムーズに鍵盤を叩けるようになっていた。部屋にあった古い楽譜の中から、習っているという複数の曲を演奏してくれた。恥ずかしいけれど、と前置きした彼の伴奏は、ぎこちないが萬狩よりも上手く、シェリーも楽しげに聞き入っていた。

 二ヶ月は同じピアノ教室にいた仲である。萬狩と古賀は、動かないシェリーを見て、交互にピアノを弾いて長い時間をその部屋で過ごした。

              ※※※

 シェリーの食欲が戻らないまま、夜を迎えた。

 午後六時過ぎに、仕事を終えた仲西が、夕食分の調理に必要な食材を買ってからやって来た。彼はシェリーに早めのご飯を用意した後、古賀の指導のもと、キッチンに立って海老ピラフを作った。

 不器用な仲西青年が作った海老ピラフは、何故か、ケチャップ風味に仕上げられていた。彼は古賀が止めるのも聞かず、好きなソースだからという理由でそれを投入したらしい。それに対して、一人暮らしが長いからと控えめに口にしていた古賀のジャガイモコロッケは、萬狩が舌を巻くほどに美味かった。

 すっかり深い夜に包まれると、外は、手がかじかむほど気温が下がった。

 萬狩が食事後の喫煙で庭に出ると、シェリーに続いて出て来た仲西が、「寒いです」と子供のような文句を言った。じゃあ部屋に戻ればいいだろう、と萬狩が言い返せば、戻りたくないですと意地を張る。

 夜空には、笑うような小さな月が浮かんでいた。仲西が「じっとしていると凍えそうです」と大袈裟に言って体操を始めたそばで、古賀が呆けた顔で夜空に見入った。何度見ても見飽きないのだと言う。

「本当に、星がよく見える場所ですよね」
「そうだな。俺も初めて見た時は驚いた」

 萬狩は答えながら、シェリーと見た数々の星空を思い出した。

 晴れた夜空に、紫煙が揺らぐ様子をぼんやりと見つめていると、夏の星座はもうすっかり見えないんだったなと、そんな呟き言葉が脳裏を掠めていった。

「――実は、二人暮らしにいい物件が見つかりまして、来年辺りには引っ越せそうです」

 雲もない満天の星空を眺めながら、シェリーを撫でていた古賀が、彼女が仲西の方へ向かったタイミングで思い出したように口を開いた。西野の希望でペット可の物件を探していたところ、彼女の会社の知人伝手で、来年から入居できる新築物件を紹介されたらしい。

「今ぼくが住んでいる中部地区から、そんなに遠くない場所なんですけど、那覇までの道のりも難しくないから、彼女がそれでいいと言ってくれていて」

 同人漫画の告白をきっかけに、色々と全て白状したのだという。ピアノ教室も今年いっぱいで辞めるつもりなんです、と古賀は静かな口調で続けた。引っ越し先に電子ピアノを置き、続きは彼女に教えてもらう予定であるそうだ。

 萬狩は、とくに感情も込めず「そうか」と答えた。

 シェリーと広い庭の中央まで歩き進んでいた仲西が、そのやりとりを聞いて振り返った。古賀が新たな告白でもするようだと勘付いたようで、大丈夫だろうかと問うような視線を寄越されたが、萬狩は気付かない振りをして、二本目の煙草に火をつけた。

 古賀が大きく息を吸い込み、勇気を振り絞るように「萬狩さん」とガチガチに緊張した声で呼んだ。萬狩が応えるように顰め面を向けると、彼は途端にうろたえて視線を泳がせ、「あの」と緊張に上ずった声を出した。

「ピアノ教室は辞めてしまいますけど、その、えぇと、……友人の家だからッこれまで通り気軽にいつでも遊びに来ていいですか!?」
「おい、少し落ち着け。後半の日本語が怪しいぞ」

 萬狩は呆れてしまい、間髪置かずそう指摘した。

 古賀がハッとしたように、「間違えたッ」「そのうえ噛んだッ」と頭を抱えた。その様子を見守っていた仲西が、「なんだ、そんなことかぁ」と目尻を下げるような安堵の表情で笑った。

 萬狩としても、古賀が伝えたいとして懸命に言葉を考えていた内容については、既に察してもいた。その思いが老犬シェリーに向けられたものでも、自分に向けられたものであったとしても、萬狩の答えは変わらない。

「――友人の家に遊びにくるのに、理由も建前もいらないのは、普通の事だろう。あいつなんて、用事がなくても飯を食っていくんだぜ」

 煙草を咥えたまま、萬狩は顰め面で、仲西青年に親指を差し向けた。

 すると、シェリーと並んで建っていた仲西が、古賀の視線を受け止めてすぐ、偉そうに胸を張ってこう言った。

「僕達は友達同士ですからね。つまり、同じ窯の飯を食う仲ってやつですよ!」
「おい、妙な具合に言葉の使い方を間違えるんじゃない。それなりの仲にも、礼儀が必要だという事を覚えておけ」

 ああ、そうじゃないのだ。すっかり脱線してしまった。萬狩は話を戻すように、「つまりだな」と古賀へ不貞腐れた顔を向けた。


「お前も、いつでも遊びに来ればいい」


 萬狩はぶっきらぼうに告げ、慣れない事を口にする気恥ずかしさを誤魔化すように、顰め面をそらして言葉を続けた。

 谷川だって、若い頃はよく俺のところに来ていた。ああ、谷川というのは大学時代の後輩で、これがまた変わった奴でな……そう萬狩が語る友人の話に、二人の青年は、しばし相槌を打ちながら聞き入っていた。

 一話を終えると寒さが身に沁み、萬狩達は、シェリーと共に部屋の中に戻った。

 ホット珈琲を飲み、しばらくテレビをつけてコメディ番組を見た。身体が温まった頃、シェリーが大きな欠伸を一つもらしたタイミングで、萬狩は、青年組に早めの帰りを言い渡した。

 冬の夜は、深く長いのだ。仲西も明日は仕事であるし、漫画が忙しくなっている古賀にも、あまり暇はないだろうと事情を察したうえでの判断だった。彼らは丸くなったシェリーを見て、気遣うようにそろりと立ち上がった。

              ※※※

 玄関先で二人を見送った後、萬狩は、リビングのソファに戻ってテレビの続きを見た。ふと気付いて目を向けると、シェリーは先程と同じ姿勢で、気に入っているストーブの前のいつもの位置で熟睡していた。

 彼女が客人の見送りをしなかったのは、これが初めてだった。 
 多分、すっかり疲れたのだろう。

 なんだか起こすのも悪い気がして、夜もまだ早いのだからと、引き続きコメディ番組を視聴する事にした。しばらくテレビ画面を眺めていたものの、そのうち軽い眠気を覚えて、萬狩は、少しだけ眠る事にして目を閉じた。


 ――長い夜が、始まろうとしていた。
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