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第1話:恋と古書と密室の罠(前編)
しおりを挟む朝から雨だった。
霧のように細かくて冷たい雨が、アスファルトの色を濃く塗り替えていく。駅へ向かう歩道、霧島まどかはフードを深く被ったまま、ため息をついた。
「……あー、もう……またやっちゃった……」
今朝も、集合場所を一つ前の交差点と見間違えた。方向音痴ではない。注意力が少し、散らかっているだけだと自分に言い聞かせる。そんな自分に、電柱は何も答えてくれなかった。
「“見間違えた”んじゃなくて、“見えすぎる目”が原因だろ」
背後から冷えた声が届いた。黒い傘の下で無表情を貼りつけた男、橘直哉がいつの間にか立っていた。
「よく見てますね……ストーカー気質ですか?」
「糖分補給が済んだら現場に向かうぞ」
「って、朝からシュークリームですか……」
「本日は密室事件だ。“鍵は壊されていない”“窓も閉じていた”にもかかわらず、消えたのは“谷崎潤一郎の初版本”。古書店で発生。犯人の手口は不明、監視カメラもなし」
まどかは思わず目を見開いた。
「えっ……密室で、初版本の盗難……!? なんか本格推理っぽい!」
「現実はいつだって“本格”を裏切るものだ。期待するな」
—
現場の古書店「月影堂」は、駅から少し離れた住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。木製のドアと控えめな看板。昭和の香りが漂う、文学青年好みの店構えだった。
「……こんにちは、警察の方ですね」
出迎えたのは、白シャツにニットベストを着た若い男性。水嶋晴人――この店の店主だった。目の下にはやや疲れの色が浮かび、手には本のインデックスがいくつも挟まっていた。
「盗まれたのは谷崎潤一郎の初版本『痴人の愛』です。額は小さいですが、個人的に大切な一冊で……。本棚の整理中に、ぽっかりとそこだけが抜けているのに気づきました」
「玄関や裏口、鍵は?」
「すべて施錠されていました。壊された形跡もありません。僕と、バイトの西村くんだけが鍵を持っています」
橘は無言のままうなずき、店内をぐるりと見渡す。
文芸コーナーの一角、木製の本棚。確かに中央だけが空いている。
「監視カメラは?」
「ありません……。うち、そんなに防犯意識高くなくて……」
「常連客で、昨夜訪れた人物は?」
「中年の男性が一人。“雨宿りさせて”って言って、10分ほどいて帰られました。帽子を深くかぶっていたので顔までは……」
橘は何かを思案するように本棚に近づいた。棚の木目に指先を這わせながら、つぶやく。
「……掃除は?」
「一昨日、西村くんが丁寧に拭いてくれました。几帳面な子なので」
まどかが周囲を見回すと、店は静けさに包まれていた。
古びた木の香りとインクの匂い。棚の並び、階段の位置、そして天井近くの換気窓。
「この建物、2階建てですよね?」
「はい。2階は僕の自宅です」
「じゃあ、2階から出入りする人がいたら気づきますか?」
「はい。寝ていましたが、物音はなかったです」
橘はまどかに視線を送った。
「霧島、裏手を回って。トイレや換気窓に怪しい点がないか確かめろ」
「了解です!」
—
店の裏手。まどかは足元に水たまりを避けながら進み、小さな換気窓を見上げた。
古い木製の壁、そして――窓が、ほんのわずかに開いている。
(えっ……!)
数センチだけ空いた窓の隙間。普通なら見逃すところだった。鍵はかかっていない。
「……橘さん! やっぱり、怪しい換気窓が開いてました!」
まどかの声に、橘はすぐさま店の裏へと移動し、換気窓に目を凝らした。
「……この湿気の残り方。明らかに“開けていた”形跡がある」
「まさか……ここから入った?」
「可能性は高い。ただし――身体が細く、店の構造を把握している人間だ」
その瞬間、橘とまどかの間に、重たい“空気”が落ちた。
まどかは知らず、雨粒の落ちる音に耳を澄ましていた。
それは、ほんの始まりに過ぎなかった。
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