『容疑者は君に夢中?〜捜査一課の恋と事件簿〜』

キユサピ

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第15話:記憶の鍵を持つ少女

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空き家の窓から差し込む朝の光は、どこか濁っていた。
乱雑に割れたワイングラス、血の染み込んだ古びた絨毯、その中央に、男の遺体が倒れている。
右手には、古びた金属製の懐中時計。乾いた血がべったりとこびりついていた。

「死後硬直の状態から見て、死亡推定時刻は昨夜の22時から24時の間。死因は後頭部の強打──即死です」

鑑識員の声を聞きながら、橘直哉は毛布のかけられた遺体を覗き込む。
鈍器による一撃。争った形跡。そして、所持品ゼロ。
顔も、指紋も、データベースにはヒットしなかった。

「身元不明か……」

「ええ。ただ、これが」

霧島まどかが差し出したのは、ビニール袋に入れられた懐中時計だった。
重厚な蓋を開くと、歯車の音がかすかに鳴り、裏蓋には**“R.T.”の刻印**が残されていた。

「これだけ妙に綺麗だな。他の持ち物がなかったのに、時計だけしっかりと……」

「まるで“これだけは残せ”って言わんばかりに」

橘は目を細め、周囲を見渡した。
室内には他にも手がかりがあった──二人分の足跡、倒れた椅子、割れた瓶。そして何より、

「この家、10年前に事故物件になってる。──火事の後、誰も住んでないはずなのに」

「なのに、なぜか“あの子”がこの場所に来た」



同日、警視庁・取調室。

「……本当に、何も覚えていないの?」

まどかは、静かに目の前の少女に問いかけた。
17歳の高校三年生、高瀬ユイ。
肩までの髪を下ろし、制服の袖をぎゅっと握っている。

「はい……気づいたら、あの家の玄関の前に立ってて……ドアが開いてたから、中に入って……そしたら……」

言葉を詰まらせ、目を伏せる。

「男の人が、倒れてて……血が……」

「でもね、ユイさん。ひとつだけ、あなたが話してくれたことが、私たちには気になってる」

まどかは手元のメモを確認し、静かに読み上げた。

「“赤い壁紙に、血が滲んでいく音がした”──って」

ユイははっと顔を上げる。

「えっ……?」

「でも、あの家の壁紙、今は白なんだよ。しかも、その部屋は10年前の火災で壁紙自体が全部張り替えられてる。
君が“赤い壁紙”を知ってるはずがない。現場を見ただけでは、ね」

ユイは口元に手を当て、怯えたように目を伏せる。

「……どうして、そんなこと……言ったんだろう……」

「もしかすると、あなたの中には“昔そこにいた記憶”が眠ってるのかもしれない」

まどかの声は優しかった。
ユイはうつむいたまま、何かを振り払うように首を横に振った。

「わかりません……私、あの家のこと、何も覚えてないはずなのに……」



その夜、橘は所轄に戻りながら、証拠写真のひとつをじっと見つめていた。
男の死体が握っていた懐中時計──その裏に刻まれた“R.T.”の文字。

「これ、初めてじゃないな……」

彼は古い事件簿を引っ張り出す。
美術品の盗難事件。関係者は行方不明になったまま。
そしてその事件の重要参考人の名は──

高瀬礼人(たかせ・れいと)。

ユイと同じ姓。
だが、親子関係を示す記録は、なぜか戸籍にも存在していなかった。

「娘に自分の存在を残さないようにしていた……か。
まるで、何かから隠していたように」

橘は懐中時計をもう一度開く。
その中に、もうひとつの秘密があることを、この時点ではまだ知らなかった。
夜の図書室のように静かな取調室。
蛍光灯の白い光の下で、ユイは再びまどかと向かい合っていた。

「ユイさん、今日は少しだけ、あなたに見てもらいたいものがあります」

まどかが取り出したのは、タブレット端末。
警視庁の証拠管理班が解析した、懐中時計の内部に隠されていた極小のUSBメモリのデータだった。

画面に表示されたのは、暗い倉庫。
監視カメラ映像のような画質の中に、男が一人、背を向けて立っていた。

『──これを見ているということは、俺はもう、死んでいるだろう。』

ユイが息を飲んだ。

『俺は、十年前、ある事件に加担した。だがあれは……もともと“奪う”ためじゃなかった。
ただ、“手放せなかった”んだ。──俺にとっての、唯一の居場所を』

画面の中の男はゆっくりと振り返る。

頬の線、目元の雰囲気、その声。

「……お父さん……?」

ユイの声は震えていた。

『高瀬礼人。……たぶん、君はもう覚えていないかもしれない。でも、あの夜、俺たちは一緒にいた。
倉庫で、“何か”を見てしまった。だから、お前の記憶は封じた。』

『……共犯者は、今も生きてる。アイツは、俺と違って、全てを切り捨てて生きてきた。
俺が死ねば、次は“お前”を狙う。──だから、先に言っておく』

『ユイ、俺は、お前を愛してた。
それだけは、嘘じゃない。』

映像は、そこできれた。

沈黙。

ユイの膝が震えていた。
まどかは急がず、そっとティッシュを差し出す。

「……どうして……覚えてないの、何も。そんなに大事なこと……」

「たぶん、あなたの中で、それは“大事すぎた”のよ。
思い出したら、壊れてしまうような記憶だった。だから、無意識が封じてたの」

まどかは柔らかく続ける。

「でも、今のあなたならきっと、受け止められる。
あなたのお父さんは、きっとそう信じてたから──この懐中時計に、全てを託したのよ」

ユイの目から、ぽたりと涙が落ちた。



一方、警視庁別室。

橘は白板の前で足を止めた。
今一度、懐中時計、倉庫、火災跡地、そして10年前の盗難事件。
すべての線を結んだ先に、ひとつの名が浮かぶ。

朝霧修司(あさぎり・しゅうじ)。
美術品の流通管理を担っていた財団職員。表向きは清廉、だが裏では黒い噂が絶えなかった。

10年前の事件で礼人と共に姿を消した人物。
だが、礼人と違って、彼には“逃げた理由”があった。

「……未だに、未解決になってる美術品の1点。『オルフェの眠り』。
市場に出ていない。どこかで隠されている可能性が高い」

橘はまどかに電話を繋ぐ。

「──ユイに、“音”について聞いてくれ。“時計の音”と、“赤い壁紙”の記憶に。
そこに、倉庫の手がかりがあるかもしれない」



その後、まどかはユイに問いかける。

「ねえ……ユイさん。あなた、“赤い壁紙に血が染みていく”って言ってたわよね。
それ、現実に見た光景だったのか、それとも──夢の中?」

ユイは目を閉じる。
すると、胸の奥から、小さな波紋のように、記憶が広がっていった。

──赤い壁。冷たい床。
父の声と、怒鳴り声。
そして、あの男──朝霧が、何かを燃やそうとしていた光景。

ユイの瞳が大きく見開かれた。

「知ってる……。場所、思い出した……」

「えっ?」

「赤い壁は、今の倉庫じゃない。
火事の前、うちにあった“旧宅の地下室”……そこに、赤い壁紙の小部屋があった。
お父さん、あそこに私を隠したの。何かを守るために……!」

まどかはすぐに橘へ連絡を入れる。

「旧宅の地下室。火事で焼けたとされてるけど、構造によっては一部残ってるかも」

橘はすぐに部隊を動かした。

「そこに“残ってる”。証拠も、罪も、過去も──そして、犯人がまだ近くにいる」
郊外にある、かつての高瀬家の旧宅跡。
10年前の火災で母屋は焼け落ち、今はただの更地となっているが、地下室の存在は建築図面に明記されていた。

「ここだ」

橘が地面の一角に足を止め、古びた鉄扉を見下ろす。
鍵は壊れていた。誰かがすでに入っている──それも、ごく最近。

薄暗い地下へと降りていく階段。
その先にあったのは、煤けた赤い壁紙が今も残る小部屋だった。

ユイが、そっと足を踏み入れる。

「……ここ……思い出した……」

赤い壁。絨毯。木の棚。
あの夜、父に抱きかかえられてこの部屋に隠された記憶が、次々と蘇ってくる。

「ユイ、ここから動いちゃいけない。絶対に。いいね?」

そして、声。

「……ユイ、こんなとこまで来るとはね」

壁の陰から、ひとりの男が現れた。

朝霧修司。

スーツ姿のまま、どこかで埃をかぶったような格好で現れたその男は、懐かしげに部屋を見回していた。

「ここは、あいつの“最後の保管庫”だった。“罪”も、“真実”も全部詰め込んだ場所だ。
……まさか、娘が鍵を開けることになるとはな」

橘が銃を構えて前に出る。

「動くな、朝霧。おまえを殺人及び隠蔽の容疑で拘束する」

だが朝霧は一歩も退かず、笑った。

「……殺人? 違うな。あいつは俺のことを裏切ったんだ。
俺たちが奪った“もの”を、勝手に隠して、自分だけ逃げようとした。
しかも、証拠をこの部屋に埋めて、死んだ後に俺の罪を暴くつもりだった。まったく滑稽だよ」

「そのために殺したのか」

橘の声が低く響く。

「いいや──俺は“脅した”だけだ。殺すつもりなんてなかった。
だが、奴は娘の話を出した瞬間に取り乱した。……俺が、“あの子に手を出す”って言ったからかもしれないな」

ユイの背筋が震える。

「お父さんは……私を守った……」

朝霧は皮肉な笑みを浮かべる。

「最後まで、守りたかったんだろうな。娘にだけは、自分が何をやったか知られたくなかった。
だが結局、“自分の娘”を証人にしちまったわけだ」

ユイの手が震える。

──記憶の中の父は、いつも背を向けていた。
優しい笑顔を見せた後、いつも去っていった。

でも、それは「守るために姿を消した」だけだったのだと、今ならわかる。

「お父さんは、あなたみたいに逃げなかった」

「……何?」

「怖くても、誰かに知られても、自分の罪から目をそらさなかった。
最後まで、私のことを守るって、決めてたんだよ」

朝霧の笑みが、一瞬だけ崩れた。

そこへ警察の増援が地下へと到着。
朝霧は無言で手を挙げ、抵抗せずに連行された。



翌日。
懐中時計は警察の許可のもと、ユイの前に返されていた。
時計の中には、もう音声も映像も残っていない。

ただ、カチ、カチ、と。

──時を刻む音だけが、今も生きていた。

「まどかさん……」

ユイがぽつりと言う。

「私、まだ怖い。記憶って、思い出さなければ傷つかないのに、なんで戻ってくるんだろうって思ってた。
でも……“残したい人がいたから”なのかなって、今は思います」

まどかは、そっと微笑んだ。

「忘れたままじゃ、届かない想いもある。
だから、あなたは受け取ったの。あの人の全部を──ちゃんと」

橘が歩み寄り、時計を手渡す。

「形見じゃない。これは、メッセージだ。
……“もう一度、時を進めろ”っていう」

ユイはゆっくりと頷き、懐中時計を胸に抱きしめた。

父が遺した罪も、愛も、音も──すべて、ここにある。
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