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第16話:沈黙の証人
しおりを挟む風のない夜だった。
都心に立つ高層マンション──その28階、ガラスの内側からわずかに洩れる暖色の明かりが、静かな都会の風景を縁取っていた。
その部屋の中で、刺し傷から流れ出た血が、ピアノの脚を静かに濡らしていた。
矢代美月。
26歳。声優として人気を集め、音声ドラマやアニメの主役をいくつも務めていた。
そんな彼女が、ある夜、自宅のリビングで刺され、意識不明のまま倒れていた。
第一通報者はルームメイトであり、旧友でもある柊あかね。
救急隊が駆けつけたとき、美月はすでに昏睡状態。
そして部屋の玄関は、内側から施錠されていた──“完全な密室”だった。
⸻
「内側からの施錠確認済み。窓も全部ロック。外部からの侵入は不可能です」
現場を確認した霧島まどかがメモを取りながら言った。
「まさに教科書通りの密室事件……ってわけね」
隣で、橘直哉がわずかに眉をひそめる。
「けど、通報者は“誰かがいた”って言ってる。
その“誰か”がいたとすれば──どうやって出ていったんだ?」
「……そもそも、“いた”のかも怪しいでしょ。あかねの証言、ふわふわしてる。
“気がついたら美月が倒れてた”とか、“物音がして起きた”とか」
まどかはため息まじりに言った。
「それ、動機ある親友の定番パターンよ」
橘は黙ったまま、部屋の中心──グランドピアノの上に置かれたスコアを見つめた。
その上には、音声ドラマの台本。タイトルは『夜の声、真昼の嘘』。
台本には、何箇所か赤ペンで修正されたセリフがあった。
《……わたしは、あなたを信じた。でも、あなたは“だれか”を壊した。》
まるで、本音が役のセリフの中に封じ込められているような──そんな、言葉。
橘はそっとつぶやく。
「これは……台詞じゃない。告白だ」
⸻
病院。ICU。
機械音が静かに鳴る中、美月は眠っていた。
瞼は閉じたまま、口元は少し青白い。
まどかはガラス越しにその姿を見つめながら、医師に確認する。
「状態は?」
「今のところ、脳へのダメージはないが……意識回復は未定だ。刺されたのは右脇腹、出血量が多かった」
「自傷の可能性は?」
医師は首を振る。
「傷の角度、深さ、いずれも自分で刺すには無理がある」
まどかはわずかに息をつき、タブレットを確認した。
「なら、やっぱり“誰かが刺した”」
⸻
同じ頃、柊あかねは警察署の取調室にいた。
制服刑事の前で、繰り返し同じ証言をしている。
「……ほんとに、誰かいたの。気配がした。
寝てたんだけど、何かが動いたような音がして──起きたら、美月が倒れてて……!」
だが、その証言は“曖昧”の一言に尽きる。
顔は? 声は? 誰だったのか?
「あかねさん、正直に話してください。
あなたは矢代さんの弟さんと、最近SNSでやり取りしていたんですよね?」
刑事の言葉に、あかねの顔が強張る。
「……それは……でも、関係ない。
あの子が美月の弟だって、知らなかった。名字も違ったし……。
まさか、あの子が……」
⸻
翌日、橘とまどかは現場に戻っていた。
「スマートロックのログ、確認できたわ」
まどかがデータを差し出す。
「23時28分に“外から開錠”、その2分後、23時30分に“内側から施錠”──つまり、犯人が出て行ったなら、鍵が閉まるはずない」
「じゃあ──23時30分、美月が自分で鍵をかけたってことか」
「そうなる」
橘の視線が、玄関の内側──ドアノブへ向けられる。
そこに、微かに残った血痕。
「血は……彼女が刺された後、歩いてここまで来た証拠だ。
……鍵を閉めたのは、間違いなく美月自身」
「でも、なぜ?」
まどかがつぶやいたとき、スマートスピーカーのアイコンが青く光った。
「“未送信メッセージがあります。再生しますか?”」
橘とまどかが顔を見合わせた。
「再生して」
機械音声のあと、静かに、美月の声が部屋に流れた。
「……この子のこと、どうか責めないであげてください。
彼は、まだちゃんと“壊す”ことの意味を知らない。
私は、彼にだけは……人を信じていいって、伝えたかった。
……これが、最後になるなら──せめて、守らせてください」
再生が終わる。
沈黙の中で、ふたりはただ立ち尽くしていた。
マンションの屋上に続く非常階段で、ひとりの少年が座っていた。
フードをかぶり、うずくまるように膝を抱えている。
その足元に置かれた鞄から、古びたペンダントが見えていた。
橘とまどかは、ゆっくりと距離を詰める。
「……矢代美月さんの、弟さんですね」
少年がびくりと震えた。
顔を上げたその目は、泣き腫らして真っ赤だった。
「……俺、刺すつもりなんてなかったんです。
ただ……姉ちゃんが、全部拒絶するような目で俺を見て……
その時、何もかもぐしゃぐしゃになって、気づいたら……」
言葉にならず、息がつまる。
「逃げようとしたんです。逃げて、全部忘れたかった。
でも……姉ちゃん、俺のあと、鍵を……」
橘は黙って頷いた。
「鍵は君のお姉さんが閉めた。
あんたを守るために、証拠を隠そうとした。
その声が、スマートスピーカーに残ってた」
少年はその場に崩れるように泣き崩れた。
⸻
数時間後。警察署。
まどかが書類に目を通しながら、ぽつりとつぶやいた。
「……でも、なんであの子、あかねが“弟”って気づかなかったんだろう。
SNSでやりとりしてたんでしょ? 名字、同じなら普通すぐ気づくはず」
橘はタバコの箱を指で弄びながら言った。
「そこはちゃんと理由がある。
あいつ──美月の弟の苗字は、“矢代”じゃない。
両親が離婚してて、母親に引き取られて別の姓になってる。
美月は父親側、弟は母親側の戸籍ってわけだ」
「……なるほど。だから気づけなかった。
そして、あの子にとっては“親友に裏切られた”ことより、“弟が傷ついたこと”のほうが辛かったのね」
まどかはそう言って、静かに資料を閉じた。
「彼女が最後に守ったのは、自分の命じゃなくて、“信じたい誰か”だったのね……」
⸻
夜。橘とまどかが署を出た頃には、ビルの谷間に風が吹き始めていた。
まどかはふと、空を見上げる。
「橘さん、“人を信じてもいい”って、あのメッセージ……
本当に伝わったのかな」
橘は肩をすくめ、煙草を取り出しかけたが、やめてポケットにしまった。
「さぁな。でも、届くまで残しておくのが“声優”って仕事だろ。
……届くまで、ずっと再生されるんだよ。何度でもな」
ビルの上空に、星の見えない夜空が広がっていた。
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