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第17話:恋文は届かない
しおりを挟む雨上がりの夜の校舎に、微かにピアノの残響が揺れていた。
旧講堂の扉を開けた瞬間、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
中央のグランドピアノ。その脇で、女性が倒れていた。
伊吹千景──音楽大学で非常勤講師として教鞭をとっていた作曲家。
白いブラウスは胸元で赤く染まり、右手には破れた五線譜と、血のにじんだ便箋。
第一発見者は、彼女のゼミに所属していた男子学生、朝永ユウ。
彼はその場に座り込んだまま、手も服も血で汚れていた。
──殺害時刻は、午後六時半前後。
講堂は簡易施錠されており、侵入経路に荒らされた形跡はない。
鍵は内側からかけられていた。
「先生を……起こそうとしたんです。でも……もう冷たくて。
誰か……誰かが先生を──!」
取調室での朝永ユウの声は震えていたが、決して取り乱してはいなかった。
まっすぐこちらを見つめるその視線に、まどかは一瞬、言葉を失った。
「……ピアノ、やってました?」
「え?」
唐突な問いに、まどかは目を瞬かせる。
「手、指が……長くて、綺麗だったから。あ、すみません……変なこと言いました」
「い、いえ、全然……。でもピアノじゃなくて……洗濯バサミとか……よく挟んで……」
なぜか口ごもりながら返すまどかに、ユウはふっと目元を緩めた。
その様子をガラス越しに見ていた橘は、手元の資料を乱暴に閉じた。
「……あいつ、またモテてんな」
誰に言うでもなくつぶやき、ついでに自分の靴の踵をさりげなく踏み直す。
革靴のソールが、ほんのわずかに沈んだ。
講堂で回収されたのは、伊吹が使っていた古いカセットレコーダー。
再生すると、伊吹のピアノに重なるように、男性の低い声が録音されていた。
──どうして、俺じゃ駄目だったんだ。
「……木野瀬誠一。伊吹と以前、同棲してた男だ」
橘が資料を広げる。
「三年前に破局してる。理由は不明。ただ、伊吹の周辺で“怒鳴り声を聞いた”って証言が最近になって出てる」
「つまり、ユウくんじゃなくて……こっちが本命だった可能性?」
「ユウが伊吹を刺す動機は薄い。むしろ、木野瀬のほうが“誰かに取られる”って誤解した可能性が高い」
再生された録音の終盤には、鍵をかける音と、ヒールのような硬い靴音が残されていた。
それは、犯行後に木野瀬自身が鍵をかけ、密室を偽装した証拠とされる。
そして、便箋──血で滲んでいたが、専門の鑑識班が判読した一節が残っていた。
「“もし、あなたの音が嘘じゃないなら──もう一度、きちんと向き合いたい”」
「……伊吹先生、返事を書いてたんだ。ちゃんと、ユウくんに」
まどかがつぶやくと、橘は珍しく声を潜めて言った。
「届かなかったな。いつもそうだ。伝えたい言葉ほど、届く前に終わる」
まどかは顔を上げる。
「……橘さんも、そういうこと……あったんですか?」
「さあな。仕事ばっかしてたからな。靴が減るくらいは、歩いたけど」
「……すり減った分だけ、何か伝わってるといいですね」
その言葉に橘は肩をすくめ、何も言わずに歩き出す。
まどかがその背中を追いかけると、廊下に響く足音が、ほんの少しだけずれていた。
橘の靴底が擦れるたび、胸の奥に何かが引っかかる音がした。
──「恋文は届かない」。
届くはずだった言葉も、残された旋律も、風に溶けて消えていった。
調律師・木野瀬誠一が現れたのは、伊吹千景の葬儀の翌日だった。
どこかやつれた様子で警察署に出頭し、「少し話したいことがある」と自ら申し出た。
その口調はあくまで冷静で、反省や後悔といった色は薄かった。
「……俺が千景に執着していた? 違うな。
ただ──あんな青臭いガキに“選ばれる”のが、許せなかっただけだ」
取調室での木野瀬の声には、怒りよりも屈折した自尊心の破片が混じっていた。
伊吹との破局後も彼は彼女に未練を持ち続けていたが、伊吹はユウに向けて“指導者としてではない感情”を芽生えさせていた。
そのことに気づいた木野瀬は、伊吹の部屋から“あの便箋”の下書きを偶然見つけてしまう。
──「あなたの音が嘘じゃないなら、きちんと向き合いたい」──
たったそれだけの言葉に、木野瀬は耐えられなかった。
数年間、自分を拒絶してきた伊吹が、年下の学生に対して「向き合う」と言いかけていたという事実。
彼は、その夜の約束に先回りし、伊吹の元へ向かった。
「お前の音なんて、誰の胸も震わせない。千景が間違ってただけだ」
そう言い残し、木野瀬は伊吹を刺し、あらかじめ用意していた鍵で講堂の内側から施錠した。
密室に見せかけるためのトリックだった。
そして、現場にいたユウを見つけ、逃げ出す様子を影から見ていた。
「彼は、先生を殺したと思っていたんでしょうか……?」
まどかがつぶやく。
「それでも逃げた。若さってのは、逃げ方を選べねぇ時があるんだよ」
橘は淡々と答えたが、その声にはどこか遠くを見るような響きがあった。
やがてユウの嫌疑は晴れ、正式に釈放された。
別れ際、彼はまどかの前で不器用に頭を下げる。
「……ありがとうございました。僕、ちゃんと……また曲を作っていこうと思います。
あの人が、“僕の音を信じてくれた”ことを、今度こそ証明できるように」
「きっと届きますよ、ユウさんの音。
……届くまで、やめなきゃいいんです」
まどかの声は柔らかく、けれどしっかりとしていた。
そのやりとりを遠目で見ていた橘が、車のドアを開けたところで振り返る。
「……お前さ、たまに言うことが、妙にズルい」
「え? 私、何かしました?」
「いや。お前みたいな奴に“届くまでやめなきゃいい”なんて言われたら──
そりゃ、誰だって頑張るしかなくなるだろ」
「そうですかね……?」
首を傾げるまどかに、橘はふっと息を漏らして笑った。
助手席に乗り込むとき、まどかがふと視線を落とす。
「あ……橘さん、靴、擦れてますよ」
「ん。……歩いてるからな」
「何か探してるんですか?」
「さあ。何だったかな。……とっくに届かない手紙かもしれんけどな」
エンジン音が、静かに夜道に溶けていく。
外では、講堂のピアノが誰にも弾かれぬまま、静かに眠っていた。
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