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第26話:眠れなかった部屋で
しおりを挟む蝉の鳴き声が遠ざかる頃、昼下がりの陽射しはまだ強く、空はどこまでも青かった。
まどかは、駅前の喫茶店でひとりアイスコーヒーを飲んでいた。非番の火曜日、ようやく取れた休み。スマホを眺めていたそのとき、不意にLINEの通知が震えた。
《久しぶり。まどかちゃん、今ちょっとだけ時間ある?》
差出人は、白川紗世。高校時代の友人。数年ぶりだった。
(どうしたんだろう……)
《ちょっと、聞いてほしいことがあるの。今日……祖母が亡くなったの》
その言葉に、まどかの背筋がすっと冷えた。
《……わたし、殺してないよ。ただ……誰にも信じてもらえない気がする》
それ以上の説明はなかった。ただ、その文字の向こうに、深く沈んだ声が聴こえた気がした。
⸻
郊外の住宅地。
まどかがタクシーで駆けつけたのは、古びた二階建ての家だった。
紗世は、門の前でうつむいたまま座っていた。
「紗世!」
呼びかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
痩せた頬に、疲れ切った目。けれど、どこかホッとしたように、微笑んだ。
「まどかちゃん……ごめんね、こんなふうに呼び出して」
「なにがあったの? 本当のこと、教えて」
紗世は、うなずいて静かに語り始めた。
⸻
高校卒業後、短大を経て、ようやく夢だった保育士になった。
けれどその直後、同居していた祖母の認知症が急激に進み、「家で看る人がいない」という理由で、彼女は再び祖母の介護を担うことになった。
「親族は……近くに住んでるのに、“学費を出してもらった恩があるでしょ”って。断ったら、人でなしって言われた」
夜は1時間おきに起こされ、風呂に連れていき、徘徊を止め、失禁した服を洗い、泣きながら職場に行った。
誰にも言えなかった。誰も信じてくれなかった。
「“辛い”って言ったら、“みんな頑張ってる”って言われた。“助けて”って言ったら、“あなたがやるしかない”って」
祖母が亡くなったのは今朝。
朝方、紗世は一瞬だけ深く眠ってしまった。その隙に、祖母は冷たくなっていた。
「……怒鳴られた後だったの。わたし、布団直して、お湯で体拭いて……“黙ってて”って言った。でも、何もしてない。ただ……もう限界だっただけ」
⸻
警察はすでに現場を確認していた。
現場検証の結果、窒息死の可能性があると鑑識は言った。
親族の一人が通報したため、「死亡時に不審点がある」として正式な調査が始まっていた。
やがて、制服姿の橘直哉が車で到着した。
「連絡があったから来たが……まどか、お前がこの子の言葉を信じるなら、俺はその“状況”を見せてもらう」
室内に入り、祖母の部屋を調べる。
ベッドサイドには録音機、使用済みの体温計、湿ったタオル、排泄ケアの記録――
そして、食卓にはひとつだけ、きれいに置かれたお粥の皿があった。
それは紗世が早朝に用意し、まだ温かかったもの。
「逃げた形跡も、暴れた痕もない。ただ、“すべてを終わらせようとしてた”形跡だけがあるな」
⸻
帰り道。
駅までの坂道を降りながら、まどかは橘にぽつりとこぼした。
「……もし、わたしが同じ立場だったら、どうしてただろう」
橘は自販機で缶コーヒーを2本買い、一本をまどかに差し出した。
「たぶん、“助けて”って言える。それができる奴だ、お前は」
「でも……紗世は、言えなかった」
「……言えない状況に追い込んだのが、“家族”だ。けど、それを正すのが警察の仕事じゃない。たぶん――“わかってあげる”ってことだな」
まどかは、受け取った缶をぎゅっと握った。
「……わたし、信じたい。あの子は、殺人犯じゃない。“孤独だっただけの子”だったって」
⸻
その夜。
まどかは、自宅の机に向かって、白紙の報告書に最初の一文を書いた。
「事件性なし」とは判断できない。だが、「悪意による犯行」でもなかった。
そこにあったのは、眠れなかった日々と、誰にも届かなかったSOSだった――。
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