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第24話:首だけが動く
しおりを挟む「要介護者が、深夜にベッドから落ちて骨折──ですか?」
まどかがメモ帳を見つめながらつぶやいた。
「そうだ。要介護4、身動きはできないはずだった。体はほとんど動かない。言葉も話せない。なのに……ベッド下に落ちて、足を骨折してた」
橘の声に、微かに含まれる苛立ちは、“不可解な事件”に対する警察としての違和感の表れだった。
通報を受けたのは、都内の小さな老人ホーム「陽だまり苑」。
事件性は不明だが、施設側が「虐待の可能性も否定できない」と申し出てきた。
⸻
施設は、白い壁に観葉植物が並ぶ、どこか家庭的な空間だった。
通された職員用談話室には、やや緊張気味の若い女性職員・北島恵理が座っていた。
「……昨夜、私が夜勤担当だったんです。巡回のときに、ベッドの下でうずくまってるように見えて、慌てて……」
「誰かが入った痕跡は?」
橘が問うと、恵理は首を振った。
「鍵は常にスタッフが持ってますし、防犯カメラにも不審な動きはありませんでした。でも、ひとつだけ……」
彼女はおそるおそる言った。
「──見ていたんです。私のこと。首だけ、横を向いて。あの人、ずっと私を見てたんです」
まどかの背筋に、少しだけ冷たいものが走った。
「それって……こっちを見ようと、動いたってことですか?」
「でも……ベッドから落ちるほどって、ありえますか……?」
⸻
橘とまどかは、施設内を見回った。
加害の証拠も、被害者の意思も、何ひとつ手がかりはない。
ただ、ある一人の女性入所者が、ぬいぐるみをぎゅっと抱えたまま、まどかをじっと見つめていた。
「こんにちは。……可愛いクマさんですね」
そう声をかけると、女性はにっこり笑って、ぬいぐるみを差し出した。
ぬいぐるみの内側に、微かに擦れたスピーカーの穴。
スイッチを入れると、やさしい女性の声が流れた。
『──もう、頑張らなくていいよ。お母さん、また明日来るからね』
まどかは目を瞬いた。
「これ……誰かの声、録音してあったんですね」
⸻
「看護記録を見ると、彼女の娘さん、ここ三ヶ月ほど来てないようだ」
橘がぽつりとつぶやいた。
そのぬいぐるみは“昔の声”を延々と繰り返していたのだった。
ふと、まどかはその録音の台詞の中に、どこか奇妙なものを感じた。
『──もう、がんばらなくていいよ』
“頑張らなくていい”という言葉。
あの骨折した男性入所者の部屋にも、同じく花柄のぬいぐるみがあった。
それも、同じ場所にボイスレコーダーが……。
⸻
「橘さん。……これ、偶然じゃないと思います」
「同じ機器が二部屋に? となると……仕込んだ人間がいる」
⸻
調べの結果、声の主は北島恵理自身のものだった。
職員の一人が、仕事の合間に施設の人々へ、録音を“贈っていた”のだという。
「……皆さん、すごくつらそうだったんです。家族が来なくて、夜が怖いって……。せめて、声だけでもって思って……」
恵理は、きっと“励まし”のつもりだった。
けれどその中にあった、「もう頑張らなくていい」「あなたはよくやった」という言葉は──
ある者にとっては、“もう、生きなくていい”というメッセージにもなり得た。
⸻
骨折した男性が、ほんのわずかに首を動かしたのは、
その言葉を“最後の声”だと思ったからかもしれない。
橘は缶コーヒーを片手に、夜の歩道をゆっくりと歩いていた。
その隣でまどかが小さくため息をつく。
「……ねえ、橘さん」
「なんだ」
「私、あの看護師さんの気持ち、わかる気がするんです。
“何もしてあげられない”って、すごくつらい。だから……せめて、優しい言葉だけでもって」
橘は立ち止まり、空を仰いだ。
「善意ってやつは、時に一番やっかいだ。本人が正しいと思ってるから、止まらない」
「でも……だからって、誰も悪くない、ってことには、ならないですよね」
「そうだな。結果が人を傷つけたなら、誰かがそれを背負わなきゃいけない」
まどかは、そっと足を止めた。
施設の窓から、まだ灯りが漏れている。
あの部屋のどこかで、また“声”が繰り返されているのかもしれない。
「……あの人、目をそらさなかったんですよね。最後まで、誰かを見てた」
「動けなくても、人は訴えることができる」
橘はぼそりとつぶやいた。
「声がなくても、ちゃんと見てる。……だから俺たちは、見逃さないようにしないといけない」
まどかが、ふっと笑った。
「……なんか、らしくないこと言いますね」
「今夜は甘いものが足りないんだ」
「はいはい。あとでチョコ買いましょうね、シークレットシューズの人」
橘はわずかに眉をひそめたが、反論はしなかった。
夜風が、どこか温かく通り抜ける。
――その風は、きっとあの部屋にも届いている。
まだ言葉にならない想いの中に、少しだけ希望の気配を乗せて。
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