『容疑者は君に夢中?〜捜査一課の恋と事件簿〜』

キユサピ

文字の大きさ
26 / 53

第24話:首だけが動く

しおりを挟む


「要介護者が、深夜にベッドから落ちて骨折──ですか?」

まどかがメモ帳を見つめながらつぶやいた。

「そうだ。要介護4、身動きはできないはずだった。体はほとんど動かない。言葉も話せない。なのに……ベッド下に落ちて、足を骨折してた」

橘の声に、微かに含まれる苛立ちは、“不可解な事件”に対する警察としての違和感の表れだった。

通報を受けたのは、都内の小さな老人ホーム「陽だまり苑」。
事件性は不明だが、施設側が「虐待の可能性も否定できない」と申し出てきた。



施設は、白い壁に観葉植物が並ぶ、どこか家庭的な空間だった。
通された職員用談話室には、やや緊張気味の若い女性職員・北島恵理が座っていた。

「……昨夜、私が夜勤担当だったんです。巡回のときに、ベッドの下でうずくまってるように見えて、慌てて……」

「誰かが入った痕跡は?」

橘が問うと、恵理は首を振った。

「鍵は常にスタッフが持ってますし、防犯カメラにも不審な動きはありませんでした。でも、ひとつだけ……」

彼女はおそるおそる言った。

「──見ていたんです。私のこと。首だけ、横を向いて。あの人、ずっと私を見てたんです」

まどかの背筋に、少しだけ冷たいものが走った。

「それって……こっちを見ようと、動いたってことですか?」

「でも……ベッドから落ちるほどって、ありえますか……?」



橘とまどかは、施設内を見回った。
加害の証拠も、被害者の意思も、何ひとつ手がかりはない。
ただ、ある一人の女性入所者が、ぬいぐるみをぎゅっと抱えたまま、まどかをじっと見つめていた。

「こんにちは。……可愛いクマさんですね」

そう声をかけると、女性はにっこり笑って、ぬいぐるみを差し出した。

ぬいぐるみの内側に、微かに擦れたスピーカーの穴。
スイッチを入れると、やさしい女性の声が流れた。

『──もう、頑張らなくていいよ。お母さん、また明日来るからね』

まどかは目を瞬いた。

「これ……誰かの声、録音してあったんですね」



「看護記録を見ると、彼女の娘さん、ここ三ヶ月ほど来てないようだ」

橘がぽつりとつぶやいた。
そのぬいぐるみは“昔の声”を延々と繰り返していたのだった。

ふと、まどかはその録音の台詞の中に、どこか奇妙なものを感じた。

『──もう、がんばらなくていいよ』

“頑張らなくていい”という言葉。
あの骨折した男性入所者の部屋にも、同じく花柄のぬいぐるみがあった。
それも、同じ場所にボイスレコーダーが……。



「橘さん。……これ、偶然じゃないと思います」

「同じ機器が二部屋に? となると……仕込んだ人間がいる」



調べの結果、声の主は北島恵理自身のものだった。
職員の一人が、仕事の合間に施設の人々へ、録音を“贈っていた”のだという。

「……皆さん、すごくつらそうだったんです。家族が来なくて、夜が怖いって……。せめて、声だけでもって思って……」

恵理は、きっと“励まし”のつもりだった。
けれどその中にあった、「もう頑張らなくていい」「あなたはよくやった」という言葉は──
ある者にとっては、“もう、生きなくていい”というメッセージにもなり得た。



骨折した男性が、ほんのわずかに首を動かしたのは、
その言葉を“最後の声”だと思ったからかもしれない。

橘は缶コーヒーを片手に、夜の歩道をゆっくりと歩いていた。
その隣でまどかが小さくため息をつく。

「……ねえ、橘さん」

「なんだ」

「私、あの看護師さんの気持ち、わかる気がするんです。
“何もしてあげられない”って、すごくつらい。だから……せめて、優しい言葉だけでもって」

橘は立ち止まり、空を仰いだ。

「善意ってやつは、時に一番やっかいだ。本人が正しいと思ってるから、止まらない」

「でも……だからって、誰も悪くない、ってことには、ならないですよね」

「そうだな。結果が人を傷つけたなら、誰かがそれを背負わなきゃいけない」

まどかは、そっと足を止めた。
施設の窓から、まだ灯りが漏れている。
あの部屋のどこかで、また“声”が繰り返されているのかもしれない。

「……あの人、目をそらさなかったんですよね。最後まで、誰かを見てた」

「動けなくても、人は訴えることができる」

橘はぼそりとつぶやいた。

「声がなくても、ちゃんと見てる。……だから俺たちは、見逃さないようにしないといけない」

まどかが、ふっと笑った。

「……なんか、らしくないこと言いますね」

「今夜は甘いものが足りないんだ」

「はいはい。あとでチョコ買いましょうね、シークレットシューズの人」

橘はわずかに眉をひそめたが、反論はしなかった。

夜風が、どこか温かく通り抜ける。

――その風は、きっとあの部屋にも届いている。
まだ言葉にならない想いの中に、少しだけ希望の気配を乗せて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

処理中です...