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第28話:夏の欠片と、耳をすませば
しおりを挟む七月の陽射しは、街の隅々にまでじりじりと照りつけていた。
霧島まどかは、近所の公園のベンチでアイスコーヒーを口に運んだところで、足音に気づいた。
「まどかちゃん、来てくれてありがとう」
民生委員の高瀬弓江が、汗を拭いながら駆け寄ってくる。
「弓江さん、どうしたんですか?」
「……あゆみちゃんが、今朝からいなくて」
「……え?」
「スマホも、補聴器も置いたまま。行き先も分からないの」
まどかは目を細めた。弓江の顔には、焦りと戸惑いが浮かんでいた。
「お兄さんの光くんは?」
「もう何時間も探し回ってるけど……ほら、あの子、他人を頼るのが苦手だから」
「……わかりました。私、行ってみます」
—
アパートの玄関は開いていた。チャイムを押すと、数秒後に高瀬光が現れた。
Tシャツは汗で背中に貼りつき、額にはうっすらと土埃がついていた。
「……霧島さん……」
「突然ごめんなさい。弓江さんから、あゆみさんのことを聞いて」
光は頷き、無言のまま部屋に招き入れる。扇風機が唸る音だけが、部屋の中を支配していた。
冷蔵庫を開けた光は、麦茶を取り出してコップに注ぎ、静かに口をつけた。その背中は、どこか壊れそうに見えた。
まどかは何も言わず、その様子を見守る。
「……俺のせいかもしれません」
しばらくして、光がぽつりとつぶやいた。
「……俺のせいかもしれません」
そうつぶやいた光は、グラスを持ったまま、まどかから目をそらした。
「俺、留学のこと……本当は春から悩んでた。でも、妹がいるのに自分だけ先に行くのは無責任なんじゃないかって……」
「……でも、あゆみさんには話してなかったんですよね?」
「うん。言えなかった。あいつ、自分のことより人のことばっか考えるから。俺が悩んでるって知ったら、きっと……」
まどかは、光の言葉を引き取るように問いかけた。
「もしかして、あゆみさん、自分がいるからお兄さんが進路に踏み出せないって……そう思ってしまったんじゃないですか?」
光は小さく息を呑んだ。
「……あいつ、いつも俺の顔を見てるんです。言葉は少なくても……何か察してたんだろうなって」
まどかはゆっくり立ち上がり、窓の外を見つめた。
「補聴器も置いていったってことは……音のない世界に自分を置いたってこと。それ、あの子なりの覚悟だったのかもしれませんね。全部ひとりで抱え込んで、静かな場所に行きたかったんじゃないかな」
—
その頃、小さな図書館の隅の席に、あゆみは座っていた。
補聴器を置いたままの世界は、外の喧騒を遮断し、まるで水の中にいるような静けさに満ちていた。
彼女の手元には、兄の部屋から借りてきた英語の参考書と、1冊の手帳。
〈お兄ちゃんの未来が、私のせいで閉ざされるなら、いない方がいい〉
震えた字でそう書かれたページに、あゆみはそっとペンを置いた。
補聴器を外し、音のない世界に身を置いたあゆみは、図書館の閲覧席の片隅でノートに文字を書いていた。ページには、兄・光への伝言が綴られている。
「私は平気。大丈夫。だから、お兄ちゃんは、行っていいよ」
けれど、体は正直だった。水分も食事もろくにとらず、慣れない場所で長時間を過ごしたあゆみの体は、静かに悲鳴をあげていた。
――意識が遠のく。
その瞬間、近くにいた図書館職員が、椅子から滑り落ちるあゆみに気づいた。
「大丈夫!? 誰か、救急車!」
救急搬送の知らせは、まどかの元に届く。非番だった彼女は、以前から近所づきあいのあった高瀬弓江の名を聞いてすぐに反応した。
「橘さん、私行きます。心当たりあります」
現場に駆けつけたまどかは、救急隊と共に図書館へ。到着した時には、あゆみは静かに意識を取り戻していた。
そして――
「どうして、こんなことを……」
兄・光の問いに、あゆみは震える手でメモ帳を差し出す。
《お兄ちゃんに、自由になってほしかった。私のせいで迷ってほしくなかった。》
読み終えた光は、妹を抱きしめ、そっと言葉を重ねた。
「ありがとう。でも、俺が本当に進みたい道は――お前と一緒に笑っていられる未来だ。どこにいたって、お前の兄ちゃんだから」
あゆみの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
その様子を見守っていたまどかも、静かにマスクの下で笑った。
「……そうやって、ちゃんと伝え合えるって、羨ましいな」
蝉の声が、ひときわ高く響いた夏の午後。小さな家族の絆は、静かに、けれど確かに結び直されたのだった。
帰り道、まどかは病院のロビーで自販機の缶コーヒーを2本買い、光に1本を差し出した。
「お疲れさま。飲む?」
「ありがとう……あいつ、無理してたんだな。ずっと俺が守らなきゃって思ってたのに」
光の声はかすかに揺れていた。
まどかは缶を開けて、ソファに腰掛ける。
「守ることって、時々“離れる勇気”を持つことかもしれないよ」
「離れる……?」
「うん。ちゃんと自分の夢に向かって歩く姿を、誰かに見せるのも、支えになると思う。妹さん、あなたのこと、よく見てるから」
光はゆっくりと目を伏せた。そして少しだけ笑った。
「……留学、行くよ。俺、行ってこようと思う。きっと、あいつも“いってらっしゃい”って言ってくれる」
まどかはその言葉に、柔らかくうなずいた。
その夜。病室のベッドの上、あゆみは兄から渡されたメモを読み返していた。
《自分を責めるな。俺は、どこにいても、お前の兄だ》
小さく笑ったあゆみは、ベッドの脇に置かれた補聴器をそっと手に取る。
音のない世界が、再び少しずつ色づいていくようだった。
⸻
帰り道、病院の出口で缶コーヒーを持ったまどかが、誰かに声をかけられた。
「……おい、非番のくせに勝手に動いてんじゃねえ」
振り向くと、スーツ姿の橘直哉が立っていた。
眉間にしわを寄せつつも、その手にはまどかの好きなレモンティー。
「差し入れ、返しとく」
「うわ、やさしい! ……って、なんでここに?」
「民生委員の高瀬さんから連絡があった。お前が行ったって聞いて、なんとなくな」
「心配してくれたんですか?」
「違う。書類が残ってたからだ」
「むっ。つれないなぁ」
2人は並んで歩き出す。病院の外、夏の風が夜の街に流れていた。
「……ねえ橘さん、私、今日ちょっといいことしたかも」
「知ってる。まどかが動かなきゃ、あの子は見つからなかった」
「ふふっ。たまには褒めてくれるんですね」
「たまに、な」
まどかは缶を片手に、小さく笑った。
「ところで橘さん、これがもし捜査一課の正式案件だったら、どうまとめます?」
橘は少し考えて、ぽつりと答える。
「――“家族の静かな反抗”とでもしとくか」
「うん、悪くないかも」
2人の背後で、病院の明かりがゆっくりと小さくなっていった。
遠ざかる列車の音。
蝉の声。
病室の窓から流れ込む風が、カーテンをゆるやかに揺らす。
誰かを思って踏み出した一歩が、
誰かの心をそっと救うこともある。
10
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