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38. 深いプレイをお望みですか?
しおりを挟むカウンター上に出した手は緊張のせいですっかり冷えてしまっていたが、東雲の放つグレアが、綾春をじんわりと包み込んでいる。
それはひどく心地が良くて。勇気を出して話してみてよかったな、と素直に思えた。
信頼を信頼で返せたことに心も体もほっとしたのは、東雲がDomで、綾春がSubで、二人がプレイをする間柄だからだろうか。今まで全く信頼していなかったわけではないけれど、心のどこかで相手を利用している申し訳なさや後ろめたさがあった。
やはりDomとSubの関係において、信頼を築くということは大切なのだ。
だから——本当は、もっと強い信頼を得ていきたい。
でもそれは、東雲との関係を思うと深入りしすぎであることは明らかだ。
相手は仕事の取引相手。ちょっとしたきっかけがあって彼のリハビリ相手をしているだけで、プレイパートナーというほどのものではない。踏み込めば踏み込むほど、あとが怖いことは綾春が一番よく知っている。
深入りは厳禁。結局は、自分は東雲を利用しようとしているのだと落ち込みかけるが、今の状況を失うよりはよっぽどいいと自分に言い聞かせた。
——許されるうちは、彼とのプレイを楽しみたい。
と、ふわっと手の甲が温かくなる。見れば、東雲が綾春の手に自分の手をそっと重ねていた。
決して嫌ではない、不思議な心地に包まれていると、東雲は静かな口調で言った。
「久慈さん。俺ともっと深いプレイ、してみませんか?」
「…………え……?」
思いがけない言葉に、綾春は隣に座る東雲を凝視した。元より綾春のほうを見ていた東雲と視線がぶつかる。
「俺なら、久慈さんのこと、もっと満たしてあげられます。俺は久慈さんの手綱、しっかり握ってあげられますよ」
続けざまに放たれた言葉に、心臓がどくどくと脈打つのを感じた。
深いプレイ。もっと満たしてくれるプレイ。
そんな甘い誘惑に素直に首を縦に振りかけたところで、理性が待ったをかける。
「……いや、でも……俺たち、プレイは軽いものでって話じゃ……」
二人の間で決められた約束ごと——性的な接触や過度な嗜虐行為はNG。
東雲の提案は、それを取っ払ったプレイをしないかという誘いだ。
揺れるヘーゼルの瞳を射止めるように、東雲はほんの僅かにグレアを強めた。それにぞくりと背中が震える。
「っ、東雲さ……いま、そのグレアは、まずい……です……」
「気持ちよくなっちゃいます? そうですね……深いって言っても、どこまでやるかは久慈さん次第です。けど、もう少し接触を増やしたり、際どいプレイをしたり……俺とそういうプレイをするのは、興味ないですか?」
「ぁ……待っ、て……」
東雲のグレアは、今もまだ優しく穏やかな気配を纏っている。綾春はそのグレアを浴びて、頭がふわふわとしてきていた。
気持ちが悪いわけではない。むしろ心地が良くて、カウンターチェアから転げ落ちてしまいそうだ。それに気づいたのか、東雲がそっと綾春の腰に腕を回して支えてくれた。触れられたところから、じわじわと東雲の存在が滲みこんでくるようで、綾春は内心で動揺していた。
カウンター上に出している拳に重なった大きな手も、腰に回された逞しい腕も、振り払わないと彼へと堕ちてしまいそうだ。なのに、どちらも振りほどけない。本能が——心が、それを良しとしてくれない。
「俺は久慈さん相手ならグレア出せてプレイできるんで、もっとプレイできたら嬉しいなって。それに俺たち——いろいろと相性がいいと思うんですよね」
あくまで優しく穏やかな口調で東雲が話す。その間にも綾春だけに向けられたグレアは、ぽわぽわと体を包み込んでいる。
あたたかくて、優しくて……それでいて、逃がさないと絡みつく支配のグレア。体の熱が急激に上がっていくのは、アルコールのせいか、はたまた東雲のグレアのせいか、綾春には判断がつかなかった。
(やばい……なんかこれ、気持ちよすぎる……)
彼の言葉も、半分ほどしか綾春の脳には届いていない。もっと満たされたいという本能が駆り立てられる。上手く回らぬ頭で、それでも彼が自分を欲してくれていることは十分に伝わってきていた。
「とりあえず、場所移してから考えましょうか。俺のグレアとコマンド、もっと欲しいですよね? ここじゃ今のが限界だから。それにその顔、他の人に見せたくないし。ほら行きましょう、ね?」
「ぁ……っ」
東雲の前のカウンターに置かれたロブ・ロイはいつの間にか飲み終わっている。空になった二つのグラスを片付けに来た晴海から、東雲が何かを受け取っていたけれど、綾春にはそれが何かを見る余裕はなくなっていた。
腰に腕を回して支えてくれる男の言うように、グレアもコマンドももっと欲しくて仕方がない。
あてられたグレアに抗う術など綾春にはなく、促されるがままに席を立つ。
こっちです、と伸ばされた手をしっかり掴んで、綾春は東雲と店の奥へと消えていった。
導かれるがままに辿りついたのは、いつものボックス席ではなかった。
ボックス席を通り抜けたさらに奥。分厚いカーテンをくぐると、その先には二階へ続く階段が現れる。
「もしかして……VIPルーム……?」
宙を歩くような心地で、綾春は思いついたことを口にした。
東雲はその疑問には答えずに微笑み返すだけで、階段を静かに上がっていく。腕を掴まれている綾春も、自然と彼のあとに続くほかなかった。
プレイバーには、VIPルームや特別室といった部屋が用意されている店も少なくない。深い接触行為が許されているプレイバーならプレイするエリアは元より個室になっていることが多いけれど、そういった部屋よりもしっかりしたセキュリティがされていたり、広く作られていたりといった特別な個室が用意されていたりするのだ。
ここ麻布にある晴海のプレイバーは本来ならば接触は軽いものだけで、というルールだ。だが、きっと個室ではそのルールは適用されないのだというのを綾春は、ぽわぽわした頭の片隅でぼんやりと理解し始めていた。
だってそうでなければ、深いプレイを……なんて話にならない。
そうこうしていると、綾春たちは階段を上がりきり、短い廊下に出た。
両脇には四つほど扉が並んでいて、そのうちの一つに東雲が鍵を差し込む。先ほど晴海から受け取ったのは、この部屋の鍵なのだろう。
「さあ、どうぞ。入って」
「で、も…………」
「監視カメラはしっかりついてるんで、安心してください。何かあれば晴海か千景が飛んできてくれます」
言葉では躊躇いを示したけれど、綾春の体は自然と部屋の中へと吸い込まれていった。
グレアは出されたままだから「入って」という東雲の言葉に抗えなかったのかもしれない。コマンド化はしていなかったけれど、東雲の言うことに従いたい。従ったらどんな行為が待っているのか期待したい。そう思う心を止められなかった。
「勝手に連れてきてしまってすみません。でもここなら、下よりも少し進んだプレイをしても許されるから」
部屋に踏み込んだはいいものの、入り口付近で立ち止まる綾春の背中を、東雲がそっと押す。あまり力の入っていない足は、とたとた、と数歩踏み出して、部屋の中央へと歩を進めた。
すると、かちゃり、と内鍵が閉められた音が背後で響く。はっと振り返れば、東雲が欲を湛えた瞳で綾春を見つめていた。
「あ、の……俺……」
「大丈夫ですよ、久慈さん。そんなに怯えないで」
鍵を入り口横のキャビネットの上、銀色の小物入れへと置く東雲から目が逸らせない。悠然とした態度で、彼は綾春のそばを通り過ぎ、部屋の奥へ設けられたダブルベッドへ腰掛けた。
この部屋には、入り口横にあるキャビネットと、今しがた東雲が座ったダブルベッド。そこにサイドテーブルや小さな書物机に椅子が一脚、間接照明があるだけで他には何もない。いや、東雲が言うとおり、天井の一角には監視カメラが付いていた。
部屋に窓はなく、壁には品の良いファブリックパネルが掛けられている。
「下のフロアではダメですけど、ここは性的接触は多少許されます。服を脱いだり、互いの性器への触れ合いも可。ただし挿入は道具であれどNGです。もちろん、久慈さんがお嫌なら、いつもの軽いプレイのままにすることもできます」
どうしますか? と、東雲は悪戯っぽく口角を上げた。
プレイの主導権はSubにあるというのは、DomとSubの間では常識だ。プレイ上でSubはコマンドに従い、Domに命じられるままに動くけれど、Subが拒否すればそこでプレイは終わりなのだから。
(深いって、どこまでやるんだろう……)
挿入はなんであれNGだという。ただし、前に綾春が設けた二人のプレイルールからは踏み込んだ行為を求められているには違いない。
「久慈さん? お願い、答えて」
そこに強制の色はなかった。コマンドでもない、優しい声。彼の願い。
そして綾春は、東雲に求められる答えを——自分が求めている答えを、もう知っている。
「…………東雲さんに、お任せ、します」
「へぇ。いいんですか? そう言われると——ここでやれること、全部しちゃいますよ?」
東雲の言葉に、ごくりと、唾を飲み込んだ。
「でも、っ……セーフワードを言ったら、そこまでで……」
「もちろんです。セーフワードは覚えてますか?」
「……〈コーヒー〉」
「Good boy。それじゃあ始めましょう」
その言葉で胸が激しく高鳴るのを感じていた。
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