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55. ファンの言葉
しおりを挟む綾春が風呂を出たあと、蓮哉の手料理が振る舞われた。
具だくさんの煮込みうどんに、豆腐と茄子を柔らかく煮たもの。それに小鉢が添えられていた。病人食というほどではないが、胃に優しそうなメニューで思わず目尻が下がる。
昨夜の夕食は腹を殴られたためか大事をとってお粥と魚の煮付けに僅かな副菜という、いかにも傷病人らしい献立だった。ちなみに朝食もお粥だったので、さすがに少し気が滅入った。それをドライブのときに笑いながら話したのだけど、どうやら配慮してくれたらしい。
ほっこりと胸があたたかくなりながらも「そんなに酷くないんだけどな」と言えば、夜は綾春の好きなものを作るよと返されて、さらに心がほわんと柔らかくなった。
このひと月、不安症もあいまって落としていた食欲だったが、蓮哉の心配を余所に綾春は完食した。蓮哉の作った料理というだけで自然と食べたいと思えたのもあるし、お世辞抜きに美味しかったのだ。
「ごちそうさま。あーっ、美味しかった! 蓮哉さん、料理はよくするんだ?」
「一人暮らしだから、それなりにはな」
美味しかったと伝えれば、お粗末さまと満足そうな笑みを返される。世話をやきたいと言っていたのは、本心なのだろう。それはDomらしい気質でもあり、蓮哉の性分でもあるようだった。
食後は休んでていいと言われたけれど、風呂も着替えも準備してもらい、さらに上げ膳据え膳は落ち着かない。せめて皿洗いくらいはしたいと願い出て、結局肩を並べて一緒に洗ってから、二人でリビングのソファで寛いだ。
(不思議だ。蓮哉さんがいるとそわそわするけど、落ち着く。あったかい気持ちにもなる)
これまでの一ヶ月、彼からの想いにどう応えるべきか、彼に対する自分の気持ちはどういうものかと、さんざん悩んで困って苦しんでいたはずなのに。今は、自分の気持ちにひとまずの形を見いだせたからか、これまでとはまた違った感情で心が目まぐるしい。
そわそわしているのは、恋愛としての感情だ。恋なんて久しぶりで浮かれているのと同時に小さな幸せを感じる。まるで初心な乙女のような自分が恥ずかしくもある。
それでいてやけに落ち着くのは、Subとしての本能だ。自分を満たしてくれるDomがいるという安心感。飢えていた隷属欲求を満たしてくれる者がいるだけでも、不安衝動は随分と凪いでいく。
そして、その二つの心を明け渡す先が蓮哉であるという喜びが、胸にじんわりと広がっていた。
「……ん?」
その安心感に肩の力を抜きながら蓮哉と食後の紅茶を楽しんでいると、ふと、リビングの隣にあるサンルームに気になるものを見つけた。
サンルームは蓮哉の仕事場だ。作業台やろくろ、陶芸に必要な道具が整頓されて置かれている。そこに、冬の柔らかな陽射しがガラス窓越しに降り注いで、観葉植物たちを煌めかせていた。
綾春が目に留めたのは、窓際に置かれていたある器だ。
この状況には既視感があるな、なんて思っていると、蓮哉は「……ああ、そうだ」と呟いてソファを立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
そう言って、彼はそのままサンルームへ向かう。そこで一つの器を手に取って、綾春のもとへ戻ってきた。
彼が手にしていたのは、綾春が先ほど見つめていたマグカップだ。
「もしかして、新作?」
そのマグカップは、蓮哉が今まで作っていたシルエットとは異なり、ぽってりと丸い形をしたものだった。カップの色味も、蓮哉の作品ではあまり見かけないカフェラテのような愛らしい薄茶色。
蓮哉の作るものは、どちらかといえばスタイリッシュというかパッと見はクールな印象で、その中に優しさや思いやりといった柔らかな雰囲気を混ぜたようなデザインが多い。色味も黒や灰色、もしくは白やアイボリーといった無彩色のものと、色が使われていても濃い茶色やレンガ色といったものが占めている。
だから、綾春が初めてここを訪れたとき、例のブルー系の器に目を惹かれたのだ。
いま彼が手にしているものは、今までのものとも、あの日の新作ともまた違った印象のデザインだ。形も色味も柔和な雰囲気が強く出ていて、いつもの印象からは少し遠い。けれど、これもまた良い器だなと思った。
「新作、というか……うん、まあそうだな。俺のファンだと言ってくれた人のことを考えて作ったものだよ」
「それって……」
綾春は、はっと息を呑み、目を丸くした。
——東雲蓮哉のファン。
それは、初めて蓮哉に会ったあの日に、綾春が言った言葉だ。
もちろん、駆け出しで無名の陶芸家とはいえ、蓮哉の器のファンは綾春以外にもいるだろう。自由が丘にある雑貨店の常連や湘南のホテルのオーナー、エストレージャの諸星……別に自分だけが彼のファンというわけではない。
でも、今の蓮哉の言葉をきちんと訳すなら、綾春のことを考えて作ったものだと言ってくれたことは、しっかりと伝わってきていた。
「綾春から言われたことが嬉しかったんだ。それでそのあと、しばらくしてイメージが浮かんでな」
大きな手をしている蓮哉が両手で包み込む、ぽってりとしたマグカップ。
マグカップとしては少し大きめで、コーヒーやカフェオレがたっぷり入るサイズだ。
「この前焼き上がったから、一番最初に綾春に見てもらいたかった」
カップを愛おしむように包み込む蓮哉の手。
造形のきれいな男の手が、同じように美しいシルエットのカップを持つと、それだけで絵になるなと思った。
「蓮哉さんはそのカップ、すごく気に入っているんだ?」
「ん? ああ……そうだな。今までの俺らしいデザインでも色でもないけれど、かなり気に入っているよ」
そうだろうと思った。
そして、そのカップを——綾春もとても気に入った。
新しく作ったマグカップを、蓮哉はどうするつもりなのだろう?
綾春はいつしか、そのマグカップの似合う場所をあれこれ考え始めていた。職業病はそう簡単には治らない。
どこかのホテルか、あるいはカフェか。丸みを帯びたデザインだから、可愛らしい雰囲気の店舗にも合うだろう。けれど、どうにもしっくりこない。
すると、綾春の考えを見抜いたように、蓮哉が笑みを浮かべつつ口を開いた。
「これは、ホテルとか飲食店とかには卸さないでおこうと思ってる。でも、もし綾春が気に入ってくれたのなら、いつもの雑貨屋で細々と売ろうかなと。このカップは一つ一つ、丁寧に時間をかけて作りたいんだ。そうしてできた器を誰かが手に取って『いいな』と思ってくれた人のところへ行ってくれたら嬉しい。これは、そういうのが一番相応しい気がするんだ」
どう思う? と彼は訊ねた。
無論、綾春に否はなかった。蓮哉の考えが、そのカップには一番ぴったりだと思ったのだ。
ホテルやカフェなどで供される一つとして器を使う良さよりも、一人一人のなんてことはない日常に溶け込むような心地よさ。どちらがより良いということではなくて、蓮哉がそれを望んで、綾春もそれを望めたのなら、このマグカップにはそれがいい。
「いいと思う。俺も、すごく気に入った」
「本当か?」
「本当だよ。ファンは嘘、つかないだろ?」
ニッと笑うと、蓮哉もふふっと笑った。
「ありがとう。大切に作るよ」
綾春のことを考えてイメージが浮かんだという器を、蓮哉は大切に作ると言った。それがとても特別なことに思えて、ぽうっと心に穏やかな光が灯る。
「それ、よく見せてもらえる?」
「あげるよ。元々最初の一つは、綾春に貰ってもらいたかったんだ」
「ほんと? 嬉しい」
どうぞ、とカップを渡される。
と、その瞬間に重なった手。触れた蓮哉の指先からじわじわと、あたたかくて、熱い気持ちが流れ込んでくるようだった。
「蓮哉さん。あの、さ……」
重なる指先が火照る。
「プレイ、してくれない?」
それは自然に口をついて出た台詞だった。
だって、彼の指先が触れているから。綾春の本能が寂しいとねだるから。彼の表現の可能性を広げられたことが嬉しいから。ただただ一緒にいるだけで、いろんなものが溢れてしまいそうだから。
理由なんていくつもあるけれど、彼と満たし合いたい。だからプレイに誘った。
けれど意外にも、蓮哉は眉根を寄せて難しい顔をした。
(え、なんで?)
蓮哉の態度に、綾春は困ったように訊ねる。
「あーっと……蓮哉さんは、俺とプレイ、したくない?」
もしかして恋人でありプレイパートナーであるというのは、自分の思い過ごしだったのだろうかと、また不安が膨らみそうなところで、蓮哉が慌てて言葉を紡いだ。
「ああ、違う、そうじゃない。勘違いするなって。ただ俺は……怪我人に無理させたくないんだよ」
「なんだ……そんなこと。大丈夫だって、全然。医者も普通に生活する分には問題ないって言ってたし」
どうやら蓮哉が難しい顔をしていたのは、綾春とのプレイが嫌なわけではなく体を気遣ってのことらしい。
それに大きくなりかけていた不安は萎んで、綾春は笑い飛ばすようにして言った。
医者の言う『普通』にプレイが含まれるのかは確認してないけれど。でもSubの生活にはプレイは必要不可欠なのだから、それを普通と言って何が悪いのだと、今度は強気な自分が顔を出す。
そのくらい、綾春は今、蓮哉を求めたい気持ちでいっぱいだった。
「でもなぁ……」
それでもなお渋る蓮哉に、綾春は言った。
「ずっとプレイしてなかったから、満たされ不足なんだよ。病院で薬は貰って、今日も飲んでるけど、不安症がまた酷くならないうちに、ちゃんと満たしてほしい。……蓮哉さんは、俺のDomなんだろ?」
蓮哉は綾春のDomなのだから。
きちんと躾けて、従わせて、満たしてほしい。
そうねだれば、蓮哉は「煽ったのは綾春だからな」と色気を纏った笑みを浮かべて、綾春の体をぐっと引き寄せた。
◇◇◇
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