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最終章
97. 家族
しおりを挟む雨の降る時間が日に日に増してきた六月も半ば。
レオンスは、旧帝都にある自宅で家の補修作業をしていた。経年と共に汚れてしまった壁紙を掃除していたのだ。今日も朝から雨が降っていて、しとしとと窓を濡らしている。
「こういうことに役立つとはなー」
なかなか落ちないと思っていた壁紙の汚れは、第九部隊支援班にいたときに得た知識で目立たない程度には落とすことができた。徴兵前ではこうは上手に落とせなかったかもしれないと、レオンスは自嘲気味に独り言ちる。
レオンスが捕虜としてフュメルージュ砦で沙汰を待ち続けて、ひと月ほどだった五月のはじめ。大きな荷馬車に詰められて、レオンスたち元帝国兵は旧帝都へと帰還した。それからさらに一ヶ月半が経っていた。
戻ってきたのだ、我が家へ。愛すべき家族のもとへ。
そのころには、ブランノヴァ帝国はすでに亡国となり、治めていた領地はベルプレイヤード皇国の支配下におかれることが決まっていた。統治権は皇国のものとなり、帝国の土地はすべて皇国領となった。
分不相応な願いを戴いた国は、一年と六ヶ月の時を経て、大陸の獅子に食われたのだ。
これにより、帝国に住んでいた者は、紙の上では皇国の民となった。帝国の民はもうどこにもいない。
だが、『帝国』という形にこだわりを持っていた者に関しては話は別ではあるが、多くの市民は少なからず戸惑いはあれども最終的にはそれを受け入れた。それにはいくつかの理由がある。
まず、今まで祖国だと思っていた「ブランノヴァ帝国」という名は無くなれど、皇国は旧帝国一帯を「ブランノヴァ領」と定めたこと。祖国の名が何らかの形で残ることに、見えない不安が一つ消えたのだ。
国でなくとも「ブランノヴァの民」として生きていける……それだけでも、やり切れぬ不安が解消される者は多かった。
次に、皇国が旧帝国民を手厚く保護すると宣言したこと。民にとっては、これが一番大きいかもしれない。
此度の戦争を指揮していた者や政をしていた者はさておき、基本的には軍人も民間人も、皇国に歯向かう恐れがない限りは他の皇国民と同じ扱いを受けられることが約束された。さらに、戦争で疲弊しきった民に救いの手が差し伸べられ、肉体的にも精神的にも傷ついた者へ適切な治療を施すことも公布された。
多くの市民にとっては、帝国として戦争に勝利することよりも、明日を生きれる命と共に平穏を取り戻せたことのほうが重要だったのだ。戦に勝利した皇国は、人命と人々の営みを尊重する高潔な国であった。
「レオンス、そろそろ出る時間じゃない?」
「ん? あー、ほんとだ。もうこんな時間か。ありがとう、母さん」
母に指摘されて壁にかかる時計を見れば、家を出る時間が近づいていた。
レオンスは作業を中断し、自分の部屋に戻って、棚の上に置いてあった鞄を手に取った。中にはブランノヴァ領の民に配られた身分証代わりの小さな木版と買い物をするには十分な紙幣、それから常備薬や手巾などといった携帯品が入っている。
「ねぇレオンス、帰りにお花を買ってきてくれる? 食卓に飾りたいの」
「うん、わかった」
食卓に花を飾りたいという母は、明るい笑顔でレオンスを見送った。
レオンスがフュメルージュ砦から帰ってきた直後は、母に今のような笑顔が見られなかった。ようやく母の心に暗い影を落とすものが薄れてきたことに、レオンスはほっと安堵する。一年と数ヶ月ぶりに見た母は随分と細くなっていて、帰ってきた当初はそれはもう心配したのだ。
そう心配するレオンスも痩せていたので、無事に帰ってきたとはいえ兵役中は厳しい任務を課されていたのだろうと、母をより心配させたのかもしれない。
「兄さん、送ろうか?」
「いつもの病院に行くだけだから平気。花屋もそう遠くないし」
「そう?」
キッチンへ姿を消した母の背中を見ていると、今度は弟のセレスタンが声をかけてきた。
レオンスは今、母と弟、そして妹の四人で暮らしている。戦争中、この家では母と妹、そして叔母の三人で暮らしていた。そんな叔母のもとにも、徴兵された叔父と息子が無事に帰ってきたため、終戦後はあるべき家族と共に暮らしている。
亡き父が遺してくれた小さな家は、レオンスが帰還したときも旧帝都の片隅で変わらずにその場に残っていた。皇国との戦争で帝都まで戦火が広がらなかったことが幸いしていた。レオンスの家だけでなく、他の民家も商店も、病院や公共施設なども、ほとんどが形を変えずに残っていた。
聞くところによると、皇国は武器を持たぬ無辜の民間人が数多く暮らす帝都に大規模な攻撃をしないように指揮していたらしい。また戦争によって多くのものが接収されたが、家や最低限の生活用品はこの家に残っていた。
鞄を肩にかけながら玄関へ向かうレオンスに、セレスタンは心配半分、信頼半分といったような目を向ける。
セレスタンが旧帝都へ戻ってきたのは、レオンスよりも十日ほど前だったそうだ。
最後に手紙のやりとりをしたとき、同じく徴兵されたセレスタンはサブルデトワール川付近の拠点で兵役中だと聞いていた。かの川は日に日に激戦地と化していき、レオンスは弟のことが心配でたまらなかった。共に生きて帰ろうと送った手紙に返事はなく、万が一も覚悟していたのだ。
しかし、彼はレオンスよりも早く家族のもとに帰ってこられていた。それも、大きな怪我もなく。
小さな骨折や切り傷擦り傷は兵役中にできたらしいが、いずれも後々まで残るようなものではなく、こうして元気な姿でレオンスの前にいる。それがレオンスは嬉しかった。
セレスタンは今、休業中だ。兵役前まで働いていた工場は閉鎖され、そこで働いていた者で希望があれば次の職を皇国が斡旋してくれるらしい。そのため、セレスタンはその声がかかるのを待ちながら、しばしの休息を取っている状態だ。
できれば前と同じように、何かしら技術の腕をいかせる職につきたいと話していた。命を狩るような職でなければいいな、とレオンスは内心思っている。
「それより、セレスは母さんの手伝いをしてやって。今日、花を飾りたいっていうなら、きっと今夜は例のアレを作りたいんだと思うから。仕込みを手伝ってやれよ」
「へぇー、なるほど。兄さんは、面倒くさい皮むきやら生地作りやらから逃げるわけだ」
「そう言うなって。帰ってきたら俺も手伝うから」
例のアレというのは、亡き父が好きだった煮込み料理やパイ料理のことだ。
一年半以上ぶりに家族が揃ったことが、母は嬉しいのだろう。レオンスが帰ってきてからというもの何かにつけて朝食や昼食、夕食に思い出の品々が出てくる。料理だったり、食器だったり、鍋敷きなどの小物だったりだ。そして夕食に花を飾るときは、決まって父が好きな料理を作るのだ。
きっと花を飾りたくなったのだろう。だから今夜の食卓には、父の好物が並ぶに違いない。
それを指摘すれば、セレスタンは困り笑いを浮かべながら、やれやれと肩を竦めてみせた。そういう仕草は若いときの父にそっくりで、レオンスはつい口元を綻ばせてしまう。面倒くさいだの何だの言いながらも、この心優しい弟はレオンスが外出したあとに、きちんと母を手伝ってくれるだろう。
「それじゃ行ってくるよ。母さんをよろしく」
「うん。雨だし、足元には十分気をつけて。いってらっしゃい」
玄関まで見送ってくれた弟に挨拶をして、レオンスは傘をさして家を出た。
これから向かうのは、先ほど会話でも挙げていたとおり、病院だ。
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