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交響曲第一番変イ長調 Op.55
第8話 憧れの本庁
しおりを挟む吉田についてやってきた市役所は二度目だった。蒼が市役所にやってくるのは、四月一日に市長の挨拶を聞いた切りだ。入庁して新入職員研修を受けた時も、自治研修センターという県が運営している施設で受けたので、ここに来る機会はほとんどなかったのだ。
古ぼけた石造りの建物を見上げていると、吉田に背中を押される。
「おいおい。お上りさんみたいな顔しない」
「すみません」
吉田は慣れた感じで、開け放たれた正面玄関から中に入り、右手にある守衛室に挨拶をしていた。中では警備員の男がぺこっと頭を下げて笑顔を見せた。
「知り合いですか」
「なわけないでしょう? 誰にでもああやって愛想よくしてくれるんだよ。市民の目は厳しいからね」
「はあ……」
吉田は少しまっすぐに進んでから、目の前に出現した階段を上り始めた。
「おれたちはね市役所職員だからね。いつでもどこでも不機嫌な顔しちゃダメだよ。誰に見られているかわからないし。ルールを守らないなんて、もってのほかだからな。プライベートでもね」
「え? プライベートでも、ですか?」
蒼は目を瞬かせた。吉田は蒼の気持ちを理解してくれているのか、説明を続ける。
「案外、地域の人たちって『あの人、市役所らしい』っていう情報に敏感なんだよ。ゴミ収集の日を無視して、ゴミなんて捨てると『市役所職員のくせに』って尾びれが付くわけ。普通の会社員とは違うんだよ」
「そんなもの、なんですね?」
「そうそう。賃貸物件だってそうだからね。不動産屋とか大家にはバレているわけでしょう? 市役所職員だって」
「そ、そうですね」
「なにか近隣から苦情が入ると、そういう目で見られるんだから。品行方正であれ——ってね」
吉田の説明を聞きながら『公務員とはなかなか窮屈だったんだな』と後悔する。しかし蒼は、そういったルールを逸脱したことをするタイプでもない。無用な心配というわけなのだが。 なにもしていないのに警察官に出くわすと、後ろめたい気持ちになるのと同じだろうか?
そんなことを考えて二階に上がる。吉田は上がり切ったところで、方向を右手に変えた。
「おれたちの仕事のサポートをしてくれる部署が本庁にあるんだ。それが教育委員会文化課振興係だから。そこの職員はよくうちに来るし、おれたちも書類を届けることも多い。場所は覚えておくように」
「は、はい。……あの」
「なに?」
「もう一回、部署の名前、言ってもらえませんか?」
蒼の言葉に吉田は苦笑した。
「わかるそれ。市役所の部署って、なんだか妙に長ったらしくて嫌だよな~。もっとさ、わかりやすいネーミングにしてもらいたいもんだよね。教育委員会、文化課、振興係。オッケー?」
「多分……」
「まあ、いいじゃん。そのうち覚えるって」
呪文のように「教育委員会、文化課、文化課……振興係、振興係……」と繰り返していると、古びた扉の前で吉田が立ち止まった。そして彼はドアをノックして扉を開けた。
「お疲れ様です。星音堂の吉田です」
吉田の後ろから覗き込むと中には人がたくさんいた。星音堂のような静けさはない。あちこちで電話が鳴っており、人の話し声がたくさん聞こえてきてなんだか眩暈を起こしそうになった。
「おお、——お疲れ様」
吉田の声に反応した眼鏡の男は手を挙げた。それを確認してから吉田と蒼は事務室に入る。
中は広かった。出入口が複数あるのは小さい部屋の壁をぶち抜いて、広くしているせいだ。その空間には、机の塊が四つあった。それぞれ六~十台くらいの机が向かい合わせに配置されていた。そのどれにも人が座っていて、賑やか極まりない。
書類の数も星音堂の比ではない。どの職員の机にも書類が山のように重なり、デスクトップのパソコン画面が埋もれてしまうのではないかという雰囲気。席を立って書類を見ながら、難しい顔で話し込んでいる職員たちもいる。
星音堂の静かさの中にいる蒼に取ったら、ここは未知なる世界だった。
「渡辺係長。水野谷課長から書類を預かってまいりました」
吉田は先ほど手を上げた男——廊下から向かって右端奥に座っている彼ところに行って頭を下げた。
渡辺はお腹が出ていて中年太りというところだろうか。 難しそうな顔をしていたが、吉田が側に行くと笑顔を見せた。
「いやいや悪いね。こちらで取りに伺おうと思っていたんだけど、なにせこちらも人事異動でバタバタしていてね」
渡辺は「すまない」と手を合わせると、側の若い男性職員に視線をやった。
「ほら。十文字」
「お疲れ様です。吉田さん。すみませんでした。どうしても課長が今日中に出せっていうんですよ。まだ期日まで少しあると思っていたんですけど——おれが確認していなかったもので。本当にすみませんでした」
十文字と呼ばれた男はパソコンから視線を外すと吉田に体を向けた。
「いいえ。こちらこそ。課長の決済までもらっていたんですけど。なんかお届けするのに手間取っちゃって」
吉田は彼に持ってきた封筒を手渡した。
「そんなことないです。おれも星音堂担当は慣れなくて。吉田さんの足を引っ張らないようにするので、なんでも言いつけてくださいね」
十文字という男が席を立つと、ぐんっと大きくて、蒼は目をぱちぱちと見張った。
——でかい。
桃色のお洒落なネクタイ。ストライプのワイシャツ。十文字は紳士服売り場のマネキン人形みたいにスリムで洗礼された男だった。
なんだか自分は田舎臭くて、恥ずかしい気持ちになる。
——本庁の職員さんって、お洒落で仕事ができそう。忙しそうだし……。
蒼は星音堂の日常を思い出した。お茶を啜っては、盆栽の手入れをしている水野谷。 孫の写真をデスクトップにして、にこにこ眺めている氏家。 勤務中にこそこそと新聞を読んでいる高田。 だらしのない恰好で、ぐだぐだして、すぐに煙草を吸いに席を立つ星野。 お菓子をつまみ食いしている尾形。 スマホで、何やら検索して眺めている吉田。
そんな星音堂の面子から比較すると、断然、忙しそうで、真面目で、バリバリ仕事をしている人たちに見えた。
「やっぱり、違うんだ」
自分は本庁に配属されなくてよかったのかもしれない。この場所に自分がいることが想像できなかった。
本庁に配属されていたら、今頃ストレスでやられていたかも知れない。そうだ。こんな真面目なところ…… 。
「え?」
蒼は周囲を見渡してからはっと視線を止めた。
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