地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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Stabat Mater

第6話 昔話

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「なんだかなあ」 

 昼休み。星野は椅子にもたれて後頭部で腕を組むと天井を仰ぎ見た。彼の言葉の主語は見当たらないが、そこにいる誰しもがその意味を理解しているようだった。 

「星野さん」 

 吉田も大きくため息を吐く。みんなが心痛めているのは、その席にいないあおのことである。関口との騒動を起こしてからの蒼はお日様が雲で隠れてしまったかのごとく陰湿な雰囲気を放っていた。あのいつものにこやかで朗らかな彼ではないということだ。 

「関口のやつ、蒼になにしたんでしょうかね」 

 尾形は昼食後のデザートであるカップケーキを頬張った。今朝ほどコンビニから購入してきた新商品だと言っていた。あんぽ柿を小さくカットして練り込んであるご当地新商品デザートだと熱弁を奮っていた尾形だ。それをぼんやりと眺めていた星野は曖昧な返事をした。 

「さて。ねぇ」

関口あいつ、そんなに性格よくはないけど。まさか蒼につっかかるとは思ってもみませんでした」 

 尾形の言葉に星野はぼんやりと返答した。 

「なんだよなあ。まあ同じ年だからなんだろうな。おれたちのことは年上だと思っているからさ。少しは遠慮してんだと思うんだけど……」 

「星野さんから話してみたらいいんじゃないですか。あいつ、星野さんのいうことはきくし」 

 吉田も半分懇願するように言った。 

「関口がなに言ったかわからないですけど、やっぱりちゃんと謝罪させたほうがいいですよ。あの蒼があんなんなるなんて——」 

 あれから、彼は事務所にいても口を開くのは業務のことだけだった。みんなでいつも通りに話をしていても、押し黙ってじっとしているばかり。昼食時間になると、こうしてどこかに姿を消す。星野は知っている。彼がどこにいるか。 

 彼は大きくため息を吐いてから、席を立った。そしてロビーに出てから廊下をまっすぐに進み、そして西側の休憩場所に顔を出した。 

 彼はぼんやりとしてそこに座っていた。いつもそこにいる。こうして放っておくと何時間でもそこにいるのだ。 

「おい」 

 星野はぶっきらぼうに声をかけた。ぼんやりとしている視線で蒼は顔を上げた。なんの返答もない蒼に期待しても仕方がない。星野は蒼の座っている隣の椅子に腰を下ろしてタバコを出した。普段だったら「禁煙ですよ」と怒る彼だが、今日はただぼんやりとそこにいるだけだった。 


***


「あのよお」 

 星野は独り言のように話し始めた。

「むかしむかし、あるところにそれはそれはヴァイオリンが大好きな少年がいたとさ。彼の名はケイ。ケイの父親は世界的に有名な指揮者。ケイの母親は誰からも愛されるプリマドンナ。典型的な音楽一家の長男だ。物心ついた頃から両親二人は世界中を飛び回っていてケイは爺さんと婆さんに育てられた」 

 星野の話は誰宛ともなく独り言のように続く。 

「そんなケイの心の友はヴァイオリンだけだ。彼は時間さえあればヴァイオリンを弾いた。そんなんだから友達なんているわけがない。学校でも仲間外れ。行くところもない。ともかくヴァイオリンを弾いた。そんな彼が挫折の時を迎えたんだ」 

 ふと蒼が星野を見た。それを受けて星野は微笑を浮かべて話を進めた。 

「あるプロのピアニストに言われたんだ。『お前の演奏には何も含まれない。何の思いも感じられない。だ』ってね。今までどんなコンクールでも成功してきた彼が初めて経験した挫折だ。だが、彼の生活にはヴァイオリンしかなかったから、今更他のものに救いを求めることはできない。たった一人で途方に暮れたケイはとある音楽ホールと出会ったんだよ」 

「それって——」 

 目の光が戻る。蒼は話の意図を理解したのだろう。……関口という男の昔話だと気が付いたのだ。 

「関口けいのことだ。あいつはよう。本当に性格良くないクソガキだった。何度、摘み出しても入ってきて。おれたちのほうが根負けだ。大ホールの催しにこっそり忍び込んで無賃鑑賞したり、練習室貸し切ったり。事務所にまで入り浸りで、みんなに可愛がられたもんだ」 

「あいつの抱えてるもんはデカすぎるぜ。お前だって聞いたことあんだろ? 父親は関口圭一郎。母親は宮内かおりだ」 

 蒼はクラシックには明るくないが、その名を知っているとばかりにうなずいた。
 この二人はよくテレビに出ている日本国民なら誰しも目にする人気者だからだ。

 関口圭一郎は日本を代表する指揮者だ。現在は海外オーケストラの常任指揮者を担っているが、日本でもしばしば公演を行っている。若手の頃から往年の指揮者ばりの解釈に賛否両論はあるものの、クラシック界では断トツ人気のある指揮者でもある。蒼には以前、梅沢市出身だと教えた。

 宮内かおりはソプラノ歌手だ。素人のイメージだと、声楽家というのはふくよかなタイプを想像しがちだが、彼女はスレンダーで目鼻立ちがぱっちりとしており、気品ある美しいソプラノ歌手だった。何度かテレビや雑誌で見かけたが、彼女にこんな大きな息子がいるとは思えないくらい若く見えた。 

 蒼は不可思議そうな顔をしていたが、星野の話を黙って聞いていた。

「いくら背伸びしたって追い越せるはずねぇ。しかも、お前の演奏はからっぽだと言われてから、あいつはコンクールに出なくなってよ。二十二にもなってまだプロにもなりきらねぇ。あいつの実力なら、もうすっかり世界に飛び出していてもいいはずだ。——おれはもどかしくて仕方ねえ。なんとかしてやりたいんだが、おれたちではダメだった」 

 ——そうだ。なにもしてやれねぇんだ。

「関口はおれたちに見せない顔をお前に見せたんだろ? なにか感じているのかもしれない」 

「——おれのことが嫌いなだけですよ。あの人は」 

 蒼は口を開いた。 
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