地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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Stabat Mater

第7話 鏡

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「別に人に嫌われたり憎まれたりするのは慣れています。だから、構わないんです」 

「おいおい、穏やかじゃねーな」 

「おれは、

あお……」 

 彼の表情はかげる。それから首を横に振った。 

「おれの本質をあの人は見抜いてくるんです。おれが必死で隠してきたこと。だから、嫌なんです」 

 ——蒼は蒼で必死ってわけか。だがよ。きっとあいつも必死なんだろうな。 

「なあ、蒼」 

「はい」 

「人にはよお、隠しておきたいものっていくつもあるわけだ。だが、たまにそれをすっかり見抜いてくるやつに出会うってことは人生でよくあることなんだ。いい機会じゃねーか。あいつと話してみたらどうだ?」 

「喧嘩になります」 

「喧嘩もいい。お前はいつも気持ちを押し殺しすぎるだろう?」 

 蒼は顔色を変えた。 

 ——おいおい、素直だな。 

「星野さんは……」 

「おれは人を分析する仕事じゃねえし。余計なことは言わないが、お前はそうだ。もっと自分を出してもいいんだぞ? ここの奴らはそんなことでお前を嫌いになったりしねえ」 

 星野の言葉に蒼は目を見開いた。 

「喧嘩したっていいじゃねぇか。そんなお前もいい感じだろ?」 

「星野さん……」 

 蒼は少しはにかんだような笑みを浮かべた。なんだか久しぶりの笑顔だった。 

「お前は笑ってる方がいいぞ。もともと

「——ひどいですよ。それ」  

 二人は並んで中庭を眺めた。新緑のけやきは初夏を思わせる風に揺れていた。 

 
***


 なにもかもうまくいく人生なんて幻想でしかないのだ。人はたくさんの希望を抱えて生れ落ちる。命を賭して母親は赤子を産み落とすのだ。どんなに待ち望まれたことか。人間は誰しもそうしてこの世に生を受けるはずだ。

 なのに、どうだ? どうして生きにくいのだ。いらない子供なら生まなければいいのに——。 

 縁側から覗く庭園は新緑の色が見て取れる。みずみずしい緑色は生命を謳歌しているようだった。 

 座布団に腰を下ろし、それから取り組んでいる曲の楽譜を眺める。 

 J.Sバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番ゲーmollモール BWV1001 アダージョとフーガの二曲だ。バッハ35歳頃の作品だと言われているそれは、重音奏法じゅうおんそうほうを求められる。一本のバイオリンで複数の音を同時に発生させるそれは現代においては当然の奏法であるが、やはりスキルが伴うものだ。たった四本の弦で入り組んだ旋律を途切れなく、違和感なく演奏するのだ。 

 フーガは主題テーマが出現し、それらが、模倣・反復を繰り返される楽曲の形式を言う。この楽曲はあたかも二艘のヴァイオリンで奏でるような錯覚に陥るほどの複雑さ。そしていかになめらかに演奏ができるかという高いスキルが求められるのだ。 

 生成り色の紙面に印字されている音符を目で追う。頭の中にはヴァイオリンの音が響いていた。もう少し、もう少し——。 

 しかし、ふとその思考は遮られた。 

 あの男が思い出されたのだ。あの濡羽色ぬればいろの瞳。そして髪。最初に見た時、雨の中ダンボールに入れられて捨てられている小さい子猫に見えた。

 身長は自分から差し引くとそう大きくはない。貧弱で弱々しくみえる風貌だが、浮かんだ双眸そうぼうは意志の強さが見て取れた。

 正直に言うと、なぜあの新人職員に突っかかるのかよく理解できていなかった。 

 ——あの目はなんだ? あれは……。 

 まるで自分を鏡に映してみているようで気味が悪かったのだ。自分の抱えているものをそのまま突きつけてくるような……。

 これ以上のイメージトレーニングは継続不能と判断し、関口は楽譜を閉じた。楽譜の下に置かれている梅沢市音楽コンクールのリーフレット。青い空に星音堂せいおんどうの姿が幻想的にプリントされていた。『コンクール』という名称を見るだけで足がすくむ。更に関口をおののかせているのは審査員だ。 

 ——川越かわごえか。 

 父親の親友でピアニスト。関口を奈落の底に叩き落した張本人だ。その彼が審査員で梅沢にやって来るという。 

「こんなのに出るか」 

 関口はリーフレットをくしゃくしゃにしようと掴み上げたが、それ以上はできなかった。結局はしわしわになったそれを楽譜の裏表紙のところに挟んで綴じ込んだ。 

「おおい! 関口ー! いるか」 

 ガラスがガシャガシャと鳴り、玄関が開く音がする。祖父は三年前に亡くなった。それを追うようにして祖母も亡くなった。

 空き家同然になっていたこの家を関口は自由に使わせてもらっている。なので、近隣との付き合いがあるわけがない。この家にやって来る人と言ったら一人しか思い当たらなかった。 

「星野さん」 

「おっす。明日は市民オケだからよ。いるのかと思って」 

「なんでわかったんですか」 

 長い廊下を抜けて玄関に顔を出すと、星野は手に一升瓶を持っていた。 

「いいじゃねえかよ。久しぶりだし。お前さ、こっちには数日しかいないとか言っちゃって。結構いるんじゃねーかって思ってさ」 

「……当たりですよ。やだな。本当に。星野さんには隠し事できないんだから」 

 関口は眼鏡をずり上げて苦笑した。 

「ヴァイオリン協会の講師も引き受けてんだろう? 聞いているぜ」 

「どこからそういう情報を手に入れるんですか」 

 上がり込んできた星野は慣れた様子で居間に入り込んだ。 

「まったく。女の一人もいないのかよ」 

 円卓のちゃぶ台の前にどっかりと座った星野は一升瓶を開け始める。それを見て関口は台所から空のグラスを二つ持ってきた。 

「仕事早いですね」 

「お前のために切り上げてきたんじゃねーかよ」 

 星野は乱暴にグラスに透明の液体を注ぐと、さっそくそれを口に含んだ。 

「おれがなんで来たのか、わかるだろう?」 

 ガタンと音を立てておかれたグラスの中で日本酒は波打っている。それに映った自分の顔は歪んで見えた。 

「すみません。あの新人職員とのことですよね?」 

「わかっているならよろしい」 

 星野は「うむ」と頷く。こうして星野と語らうのは久しぶりだ。昔はよく相談に乗ってもらったものだ。関口にとって星野という男は両親以上に信頼できる人でもあるのだ。その彼がやってきたのだ。無碍には出来ない。いや、むしろ相談に乗ってもらいたかった——と言うべきか。 

「ありがとうございます」 

 正座をした姿勢で、深く頭を下げると、星野はバツの悪そうな顔をした。 
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