26 / 94
Stabat Mater
第13話 通い夫
しおりを挟む一度も足を踏み入れたことのない場所だが、緊張で足元が浮ついていた。ふわふわと雲の上を歩いているような感覚を覚えながら、関口に背中を押されて歩き出した。
今日は土曜日で診療は行っているようだ。正面玄関の自動ドアが開いたり閉まったりして、出入りしている人たちが見受けられた。
中に入ってからスリッパに履き替えて、中の自動ドアを潜った。目の前にある受付の周囲には土曜日と言っても、所せましと人が座っていた。
さすがストレス社会だ。若い人から高齢者まで様々な人たちがそこにはいたのだ。
蒼は戸惑い、どうしたものかと視線を巡らせると、後ろから肩を掴まれた。どっきりとした。挙動不審で咎められると思ったのだが——。
振り返るとそこには義父である熊谷栄一郎が立っていたのだ。
「蒼じゃない。え? 本当に? 夢じゃないよね?」
彼は困惑したような、それでも笑顔で蒼を見下ろしていた。
まさかここで最初から出くわすとは思っていなかったおかげで一気に気が動転した。
「あ、あの」
「嬉しいな。海、待っているよ」
「あ、あの。っていうか。えっと……」
大した返答もしていないのに、彼は蒼の腕を掴まえると、すたすたと慣れた様子で待合室を横切った。
目の前がぐるぐると歪んで思考が混乱している蒼はなされるがままだった。
待合室を過ぎ、左に折れたところの突き当りの階段から二階に上がる。
「こんな厳重な場所にいる必要はないくらい軽快しているんだけどね。なにせ古い病院だ。全ての病棟が閉鎖病棟なもので。面会するのにもひと手間が必要なんだよね」
軽い口調で説明を加える栄一郎だが、蒼に取ったらそれはとてつもなく重く感じられた。
——閉鎖病棟……。
慣れた様子の栄一郎に心に浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「あの。何度もここに?」
「入院当初、海は自責の念が強くてね。自殺念慮が酷かった。だからその頃は、僕も面会させてもらえなくてね」
階段を登りながら栄一郎は説明を続けた。
「数年は僕も面会禁止だった。やっと許可された後も蒼はまだ面会させられない状態が続いたものだから、ごめんね。君には黙って会いにきていたんだ。
落ち着いたら連れて行こうってずっと思っていたんだけど……。海のことに触れたがらなかったからね。僕は、どこか臆病だったのかも知れない。君を誘うことがなかなかできなかった」
それは多分。蒼が放つ「拒否」のオーラがあったからではないか? ずっと海には嫌われていると思っていたから。いや、いまでもそんな気持ちがある。触れられたくなかった。それが事実だ。
「恥ずかしい話だろ? 妻恋しさに毎週土曜日の午後はこうしてここに通っているんだから」
正直、栄一郎に対する気持ちは複雑だ。母が大変だった時、彼がどのくら彼女をかばってくれていたのか?
その後、自分を実子同様に可愛がってくれた恩はあるが、やはり自分たち親子の人生が狂ったのは、彼との出会いだったのではないかという思いが拭い去れないのだ。
だから彼を目の当たりにしてしまうと心が落ち着かなくなって拒否反応を示すことが多々あった。
子供心に週末も家にいない父は、仕事ばかりに夢中なのかと思っていたのだ。そう全て誤解。自分が母親から逃げ出している間も、彼は彼女に向き合おうと努力していたというのか——。
栄一郎の笑顔は温かい。なんだか自分が惨めに見えた。一人で抱え込んで。もっと早くに彼と話をすればよかったのだ。
「最初はね。もう怒られて怒られてね。僕の顔見ると『私たちの人生を返せ』って何時間もなじられて。ドクターストップで面会終了なんて毎回の事でね。でもそれは僕じゃないとできない役だ。この責任は全て僕にあるから。しつこく通っていたらね、彼女の方が根負けしてくれたみたい」
二階に到着すると、防火シャッターのように強固な金属製の扉が目の前に立ち塞がる。扉の隣に据えられているインターフォンを押すと、機械を通して女性の声が響いた。
「熊谷海の家族です。面会できますでしょうか」
ジリジリとしたスピーカーの機械音の後、『どうぞ』という声とともに、カチリと開錠される音が小さく聞こえた。それを確認して、栄一郎はノブを回して扉を開けた。 出入口の施錠は看護師が遠隔操作をしているらしい。
中は薄暗い廊下だ。廊下の両脇に病室が並んでおり、廊下自体に光が差し込まないのだ。まだ昼下がりの時間だというのに、薄暗い廊下には萌黄色の非常灯ランプだけが点灯していた。
彼は慣れた様子でその廊下を進む。そして、途中にある看護師の詰所に顔を出した。
「熊谷です」
彼の声に初老の女性看護師が顔を出した。真っ白な白衣はどこの病院でも同じだと蒼は思った。病院で育ったおかげで彼女たちの姿は目新しいものではない。しかし、実家の熊谷医院と違っているのは、彼女たちの腰に鍵が括り付けてあることだ。
——全て施錠されているのだろうか。こんな囲われている世界で母さんは過ごしてきたのか。知らなかった。
自分せいで辛い思いをさせた。そう思うと心が痛む。胸の辺りのシャツをぎゅっと握りしめていると、看護師の声が耳に入ってきた。
「退院の件、考えてくださいましたか?」
「ええ。もちろんです。我々はいつでも受け入れる準備はできているのです」
——退院だって?
蒼は、はっとして栄一郎を見つめる。蒼の視線に気が付いた彼はにこっと優しく笑みを見せた。
「ただ、海さんが首を縦に振らないんですよね。やっぱり息子さんに会えていないから自信が持てないんじゃないかしら——」
看護師の言葉に栄一郎は困った顔をした。
「もうすっかりここの生活が馴染んでいますからね。説得してみます。今日は強力な助っ人がいますから」
そこで看護師は初めて蒼を認識したようだ。
「あら——息子さん、ですか」
「似ているでしょう?」
「ええ、一目でわかりますね。あらやだ」
彼女は嬉しそうに蒼を見た。
——似ている? 自分は母親に似ているのか?
もう何年も彼女とは会っていない。顔も知らない。栄一郎が写真を見せてくれると言っても、それは全部拒否した。見てしまったら、会いたくなるに決まっているからだ。
だけどそれも今日で終わりだ。実際に彼女に再会するのだから。
「いつものところ?」
「そうですよ。いつものところです」
看護師に礼を述べて栄一郎は歩き出した。蒼もその後を着いていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる